第6話 牡丹に急接近する話
静かに三組を抜け出し、教室を一室ずつ見て回る。
恐らく彼女も一人でいるはず。視線を動かしていると、目当ての存在は一組で過ごしていた。
後ろのドアから目立たないように、抜き足差し足、忍び足。
「……ちょい」
「ひゃっ!?」
「こんちは。ちょっと暇だから遊びに来ちゃった」
背後から肩に触れると、日芽野は子供のように飛び上がる。
中腰になり、同じ高さから笑顔で語りかけた。授業を終え、疲れた彼女の表情を、まずは和らげる。
そして持ち込んだ弁当箱を掲げ、孤立から救い上げた。
「良かったら、一緒にご飯食べない?」
「えっ……うん、分かった!」
僅かな戸惑いの後に、大きな頷き。鞄から昼食を取り出し、日芽野も一呼吸を置いて立ち上がる。
はぐれないように手を繋ぎ、二人で騒がしい同級生たちの波を掻き分けた。
「……わぁ、凄いね」
「穴場でしょ? 晴れてる日は、まあまあ気持ちいいよ」
学校の屋上。全面に柵がされた殺風景な景色に、爽やかな風が心地よさを与える。
人目にはつかず、話をするにはうってつけの穴場だった。
「あの、叶芽ちゃんは私のこと……」
「あんまり嫌いじゃないよ。大親友とまではいかないけど」
「んっ……いや、そうじゃなくて」
玉子焼きを頬張る。冷めてしまったそれは、大事なものが抜け落ちてしまったような甘さ。
箸休めでブロッコリーを一口。途中にご飯を挟みながら、バランスよく胃に流し込む。
「変な人だとか、思わなかったの? あの時だって、松浦君から助けてくれたし」
風に当たりながら、掠れた雲を見上げる。快晴ではないけれど、それも自然な空の模様。
「まあ変っちゃ変だなと思ったけど、人間みんなどっかしら変だしね。それに害のない奴に、いきなり悪口吐くのは何か違うじゃん」
自分も他人も等しく変人。切り捨てるのは、その人の成りと人生を見極めてからでも構わない。
最後の一粒を口に運び、蓋を閉じて両手を合わせた。
「松浦は病院送りだってさ、良かったね」
「えっ? ああ、うん」
「神様が見てたんじゃない? バチだよバチ」
自分が一部始終を目にしたとは、口に出さずに様子を伺う。
明確な動揺に、額からの汗。しかし何かを察したかのように、俯いたまま小さな声で呟く。
聞き取れない。首を傾げながら、日芽野に歩み寄った。
「あの人がいなくなっても、代わりはいくらでもいるよ……」
彼女の反応を目にし、疑念は確信へと変わっていった。
自分が犯人だと暴かれる焦り、そして、代わりの人物へと向けられる憎悪。
ノートを見せるまでもない。被害者は全て、彼女を傷付けたいじめっ子たち。
「そっか、それは辛いよね」
ここで聞いても、口ではすぐに否定される。だが、ネットの上では同じようにいかない。
生年月日、出身地、フォロー先からアカウントを探る。数年前の投稿まで全て探り、少しでも契約を仄めかすような尻尾を見せれば、それが証拠になる。
後はスクリーンショットを日暮に見せれば、一件は終わる。
「また、何か困ったことがあればいつでも言ってね」
彼女を封じる起爆スイッチは、既にこちらが握っていた。
「私にできることなら、何でもするからさ」
「……煩雑ね。見ているだけでイライラするわ」
作り笑いを浮かべ、手探りで彼女の心を掴もうとした刹那。
背後から現れたツバメが身体に入り、自分の口を借りて苛立ちの言葉を発する。
その場に立ち尽くす彼女に背を向け、箸を一本手に取った。
「な、っ……!?」
「言葉で丸め込もうだなんて、甘いのよね」
「あな、た、誰?」
ツバメは止まらない。まさか、と自分の心が警鐘を鳴らす。
後退りする日芽野の肩を掴んだ。強い力で、彼女が前後左右に逃げられないように。
「契約者が死ねば、悪魔は放浪の身に戻ってしまう。この意味が分かる?」
「ひ……ひいっ!」
「こいつを痛めつければ、悪魔は現れるってことよ!」
淀みのない、綺麗な眼球にその狙いが定められる。
踏まれたアクセルに、ブレーキは効かない。自分の腕を止めることもできず、逃げろと言葉も発せなかった。
そのまま、鋭利な箸がツバメによって振り上げられる……
しかし、それは眼球に至る寸前で動かずに静止していた。
「……ん」
「おい。黙って見てれば、勝手なことしやがって」
低く鈍い声。言われなければ、それが日芽野の喉から発せられたとは思えないほどの。
こちらを睨んでいる。掴まれた手が、乱暴に離される。
それでもツバメはにやりと笑った。これこそが、彼女に隠れていた存在の正体。
「可愛い牡丹に、何してくれてんだ?」
握っていた箸を放り捨てる。ツバメですら一歩引いて身構えるほどの、殺気と燃え上がる魂の気配。
自分の他に、悪魔に憑りつかれた人間を明確に視認するのは、これが初めてのことだった。
「やっぱり悪魔が憑いていたのね……何者?」
「オレは日芽野牡丹を守る者。孤独だったあの子と契約を交わした、一生の盟友」
悪魔は日芽野の腕を借り、日芽野の心臓に手を触れる。
「……ホタルだ」
辺りの時間が止まる。昼休みの終わる予鈴だけが、虚しくその場に響き渡った。
続く