第4話 怪しい人影を見つける話
一年三組の教室へ向かうと、荷物の消えた机があった。
「松浦君、右足の骨を折ったんだって」
「ああ。確か、トラックにぶつけられたんだろ?」
「ズレてたら即死だったって……怖いよね」
一人が消えても、学校はいつも通りに回り始める。
表面上は、悲しそうな声色。だが、噂話でもちきりになる同級生たちは、いつもよりも楽しそうに見えた。
席に腰かけてスマホを見つめる。昨日の投稿にいいねが付いておらず、机を軽く叩く。
「へぇ、そんなのやってるんだ?」
「キモいんだけど……ストーカー、犯罪者」
「残念無念。私は気を許した人間以外には見えないのよ」
ため息をつきながら、スマホを机の中に入れた。
今に至るまでツバメは諦めず、不可抗力で衣食住を共にしている。悪魔というよりも、迷惑なセールス。
「あれ、あんたがやったの?」
「まさか。昨日ぶん殴った時点で、私は十分満足よ」
それが本心かどうかは、いくら頭を捻っても結論が出ない。
それが本心かどうかは、いくら頭を捻っても結論が出ない。
ずっと、このままなのだろうかと思ってしまう。他人には聞こえない悪魔の囁きを耳に入れながら、毎日を生きていくのは耐え難い苦痛だった。
しかし、煩わしくて立ち上がろうとした瞬間、背後から新たな声が聞こえてくる。
「あっ……いた、黒髪の人!」
足りない力で手を振りながら、こちらに呼びかけてくる。
短い髪と細身が特徴の、気弱な女子生徒。まさに、昨日なり行きで助けたはずの彼女だった。
「え、私のこと?」
「良かった。その……お礼を言いたくて」
階段の踊り場。人目につかない場所で、頭を下げられた。
あれは私じゃないと跳ね除けようと思ったが、人に礼を言われるのは、あまり悪い感覚ではない。
人に信頼を与えれば、好きな理由で使い走りにできる。
「私は何もしてないけど?」
「ううん。貴方は私の、命の恩人だよ」
「……んな大袈裟な」
隣にいたはずのツバメは、いつの間にか消えていた。大事な時にいなくなる、使えない悪魔。
「何とお礼を言ったら良いか。えっと、その……」
「私は赤月叶芽。赤月で良いから」
彼女の上擦った声と紅潮した頬が、人との会話に慣れていない様子を伺わせる。
まるで子犬を見ているような気分になりながら、男子たちの騒がしい声が聞こえる窓を片手で閉めた。
「ありがとう、叶芽ちゃん!」
「あんた、話聞いてた……?」
「嬉しいな。ようやく名前を聞けたから!」
調子が狂ってしまう。わけの分からないまま、前向きな言葉だけを押し付けられるのは。
「私は日芽野牡丹。えっと……牡丹って呼んで」
「そっか。よろしくね、日芽野さん」
手を差し伸べられる。そんな気は無かったが、恐る恐る腕を上げて彼女の指を握った。
人形のような白さと細さ。まるで傷を知らないそれは、暖かさの他に腹立たしさも感じられる。
五秒だけ力を込め、もう良いでしょと呟きながら離した。
「別に、あんたの生活に口出しはしないけどさ……」
額にかかった、鬱陶しい黒髪を払う。半歩だけ下がり、笑顔を崩さない彼女……日芽野と視線を合わせる。
別に友達ではない。ただ利用するだけの、踏み台で駒。
「次からは気を付けなよ、ああいうの」
「次からは気を付けろよ、赤月」
放課後、先生たちが忙しなく歩き回る、暑苦しい職員室。
掃除を終えた教室は既に閉められており、担任から手渡された鍵を嫌々受け取る。
ツバメに一日中絡まれ、スマホを置き忘れてしまった。
「クソゴミカスボケアホ恥かかせやがって……」
蕁麻疹が出てきそうだった。人を殴りたくなっても、感情を吐き出す場所が無いと全身が震え上がる。
わざと周りに聞こえるように、ダン、ダンと階段を上った。
「忘れ物はそっちの落ち度でしょ?」
「うるさい。役に立たないくせに喋らないで」
「そう言われたら、喋りたくなるのがサガなのよね」
球が柵に衝突する音が耳に飛び込んできた。野球部は、曇天でも張り裂けそうな声を放って練習している。
松浦もあの輪に入っていたと思うと、幾分か滑稽に見えた。
「この学校、随分と臭うわね。相当数悪魔がいるかも」
声が数段低くなる。目を丸くし、俯けていた顔を上げる。
「……契約者がたくさんいる、ってこと?」
「言ったでしょ。思春期は自我の揺らぎが起きやすい。悪魔はそういうのを利用して、自分のパートナーを作るのよ」
格好の餌のような言われ方は、少し気に食わなかった。
目をゴシゴシと擦る。五感を研ぎ澄ませても、自分の力で悪魔とやらの気配は感じ取れなかった。
ただ、学校中に底知れぬ悪意が立ち込めているということだけは、何となく腑に落ちる。
「トラック事故だっけ? 叶芽の推理は間違いだけど、悪魔の仕業っていうのは正解なのかもね」
「でも、そんなの誰が?」
「それは私には分かんない。契約してくれたら、もうちょっと自由に動けるんだけどね」
また、契約の話。油断も隙もないとは、まさにこのこと。
言葉は返さない代わりに睨み付けた。結局、この悪魔も自分を利用しようと目論んでいるだけなのだろう。
足元を見る。互いの距離が等しく保たれていたのが気に食わず、僅かに早足になった。
「おっ、社会不適合者のお出ましよ」
しかし、先に動きを止めたのはツバメの方だった。
「何言ってんのあんた……えっ?」
教室は目前。しかし三組のドアの前で、屈んだまま作業をしている男子生徒を見かけた。
鍵は自分が持っている。彼のそれは、ピッキング。
人目につくことも憚らず、針金のように細い器具を巧みに操り、一心不乱に施錠を開けようとしていた。
「日暮、隼人!?」
忘れるはずがない。自分に文芸部のポスターを押し付けてきた、たった一人の変人部長。
輪郭が見えた瞬間、呆れ返って自身の顔を手で覆った。
続く