第3話 いじめっ子が事故に遭う話
自身の胸に手を当て、深呼吸をした後に息を整える。
「悪魔……って、言ったっけ?」
「そうよ。えへっ、意外とプリチーでしょ?」
「顔はそうでも、性格で台無しかな」
リモコンを拾い上げ、気を紛らわすためにテレビをつけた。
画面いっぱいに広がる、炎をまとった家。用心しても、どこかの間抜けが必ず起こしてしまう火事のニュース。
視聴者提供で、近隣住民らしき人物が頭を抱えていた。
「昨日未明、白鷺町で住宅二棟が焼ける火事がありました。住民である十代の少年と、四十代の両親がそれぞれ病院に搬送されましたが、命に別状はないとの……」
「……あれ、ここウチの近くじゃないの?」
今まで気付かなかった。映像を凝視すると、後方の公園に確かに見覚えがある。
炎の上がる現場を見に行きたかったが、巻き込まれなかっただけ幸せだろうか。
「叶芽、今ホッとしたんじゃないかな?」
「ん……ああ、まあね」
「そういうの、私には全部お見通しなんだから」
黙って音量を下げる。手玉に取られているようで、どこか釈然としなかった。
「思春期、ってさ。色んな感情が渦巻く年頃なのよね。大抵の場合は成長につれて解決するけど、負の感情がどんどん溜まっていくと、それが一つの自我を持つようになる」
その独立した自我こそが悪魔なのだと、ツバメは自身の右手を見つめながら告げた。
つまり子供の忘れ去った本性であり、欲望の集合体。
日暮に言われたことが頭をよぎる。出まかせだと、あの時は相手にもしなかったのに。
「悪魔は宿主に代わって、嫌なことや辛いことを引き受ける。ストレスのもとになる奴らはぜーんぶ壊して、宿主が過ごしやすいと思えるような世界を作るの」
悪意を持った人間との関わり、煩雑で苦しい日々の生活。それら全てをこの存在が代行すれば、宿主の役目はただ眠ることだけとなる。
人によっては、魅力であり幸せだろう。しかし、自分にとってはどうしても気に入らなかった。
「……都合の良い話ね」
「ん、何か問題?」
「悪魔なら悪魔らしく、デメリットを提示しなさいよ」
聞いたことがあった。悪魔はいずれ代償を求める。
本性を露わにし、牙を剥いて、命を狙ってくるような存在に、信用なんて置けるはずがない。
「強いていうなら、幸せも半分こになることかな? 私は私の好きなように、叶芽の身体に憑依するから」
恐怖が次第に和らいできた。入れ替わりに、侮蔑が交じる。
「貴方にも、悪い話じゃないと思うけど」
ツバメはテーブルに手を差し伸べる。すると、黒いモヤと共に一枚の紙が姿を現した。
並べられた文字は汚くて視認できない。分かるのは、それが契約書ということのみ。
余白の開いた下線部を、彼女は指でトントンと叩いた。
「肝心な所は何にも分かってないんだね。あんたのさじ加減で身体を渡すなんて、ロクなことにならない」
視線を逸らし、冷蔵庫の中身を確認した。エコバックを持ち、財布と共に床に落ちたスマホを手に取る。
「今の私に、悪魔なんて必要ない」
「……そう言わずにさ」
「感情なら感情らしく、私の心に大人しく引っ込んでくれたら、それで良いの」
差し出された契約書は、目を合わせずに突き返した。
「どうかな? 貴方もきっと、私が必要になる時が来るわよ」
歩いて五分。ようやく、張り詰めていた緊張が解れる。
「……あいつ、どうやったら消えるの?」
不足していた野菜と肉、調味料。それに、内緒で購入したアイスクリーム。
スーパーから引き返すと、再び不安を感じ始めた。
抱えた荷物が腕に重みを加える。それでも、家に戻る以外に逃げ道は残されていない。
「ん?」
どうにか言い包めなければ。そう思っていると、向かいの道路に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
通行人が驚いて飛び退く程の速さの、数台の自転車。
「ホント災難だったなあ、お前」
「マジで、日芽野にダチがいるなんて聞いてねえぞ?」
「誰か分からんのが腹立つよな……」
考える前に、屈んでガードレールの内側に隠れた。
見間違いではない。自分の身体を使ったツバメが、バケツとモップで撃退したはずの松浦。
顔だけを上に出す。取り巻きは二人、男子を連れていた。
「こんな、所に……」
目の前を車が横切った。距離は、徐々に近付いている。
自分の姿は視認していなかった。分かっていても、次の登校日に対する足が遠のいていく。
歩道の真ん中で身を潜める。声が聞こえなくなるまで、このまま粘ってみせる。
「チッ、早くどっか行けよ」
小声が車のエンジン音に掻き消された、その瞬間。
異様なブレーキ音と共に、車線をはみ出して走る車。
通りかかった住民が目を見開く。それは制御を失った、暴走トラックだった。
「なっ……!?」
立ち上がって一歩飛び退く。一瞬こちらに向きが変わったが、速度を変えずにトラックは蛇行。
運転台は見えないまま、向かいの車線へと逆走していく。
ガードレールを突き破り、ハンドルとブレーキ操作を誤ったそれは、民家のブロック塀へと激突した。
「うわぁぁっ!!」
「え……えらいこっちゃ!?」
対向車が止まり、中からドライバーが現場に駆け寄る。
数台の自転車が絡まり、倒れ込む。乗っていた松浦たちの姿は、ここからでは視認できない。
騒ぎ出す野次馬の声を、クラクションが掻き消した。
「死ん、だの?」
まさか、とエコバッグを取り落とす。震える足で立ち上がり、一歩ずつゆっくりと歩みを進める。
大丈夫。この場で自分は何もしていないし、関係ない。
原型を留めない運転席が、自分の頭に消えない跡を刻む。
「貴方もきっと、私が必要になる時が来るわよ」
交通事故は不運の産物。それ以上も、それ以下もない。
何度も転びそうになりながら、現場を後にする。どこで誰が見ているのか、次第に分からなくなってきた。
ツバメの言葉が延々と反響して、決して耳から離れない。
「違う、そんな……はずは」
今はただ、自分を落ち着かせることしかできなかった。
続く