第2話 思いがけず、いじめられっ子を助ける話
「初めまして。文芸部に興味はあるかな?」
次の日の朝、高校の東門を潜った中央玄関前の校庭。
何も知らずに登校した新入生を誘い込むべく、三年生たちは有名人の出待ちのように構えていた。
「……三年生、日暮隼人?」
「そうさ、よろしくね。今は僕一人となった部を再興すべく、部長を務めているんだ」
手渡されたポスターには、フリー素材の森林が描かれていた。穏やかな背景に、妙に強調されたフォントが悪い意味で目立っている。
製作期間は一晩、恐らくは一時間にも満たないだろう。
「年に二回、部員の作品を集めた部誌を制作している。それ以外は部室で読書になるが、自習にも良い場所だ。後はそうだな……感想文の課題には強くなる」
後ろから続々と、同級生たちに追い抜かれる。上級生の勧誘を、間に合っていますと跳ね除けている。
自分も本当は、あの流れに乗って立ち去りたいのに。
わざとらしく中央玄関前の時計を見上げる。しかし、文芸部の日暮は怯まなかった。
「最近は活字を嫌う餓鬼ん丁も多い。タイパ文学だの舐めたことを言っているが、やはり文字は教養だ」
「……でも私、小説なんて書いたことないですよ」
「そんなものは関係ない。必要なのは感情だからね」
「はぁ……?」
指を軽快に鳴らし、日暮はこちらに手を差し伸べる。
五分前の予鈴が鳴った。先程よりも人通りは少なくなり、呆れよりも焦りの感情が大きくなる。
「君は臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持ち合わせている、いわば獣のような存在だ。その底知れぬ欲望は、創作していく中で重要なやりがいに繋がる」
言葉が耳に入ってこない。引き上げていく上級生に奇異の目で見られることの方が、よほど羞恥心に思える。
「まあ、ものは試しだ。一緒に部室に来ないか?」
「今の貴方には、部室よりも行くべき場所があるのでは?」
「行くべき場所か……ほう」
入部ポスターをわざと丁寧に折り畳み、鞄に放り込む。
「病院ですよ」
背を向ける。何を言われても、振り向かなかった。
ポスターは後でゴミ箱にでも捨ててやる。人を獣呼ばわりする輩に、時間を割く必要は感じられない。
「ほう、これは何とも面白い子だね」
最後に聞こえてきた笑い声が、憤りのダメ押しを担った。
「うるさいキモいいけ好かないチャラチャラ……」
担任の先生の声は、どこか日暮の声にそっくりだった。
国語の先生のスーツは日暮の制服に見え、数学の先生の前髪が日暮のそれに似ていて、科学の先生が出したプリントには、入部ポスターのような森林が描かれている。
頭の中で、笑う日暮をマシンガンで何度も撃った。
「今日はこれまでです、皆さん忘れ物は無いように」
人目を避けて、奥の階段から玄関へと向かっていく。
汚れた壁に、黒ずんだ床。同じ日の光のはずなのに、こちら側は幾分か独房のそれに思える。
どうせ、上級生の勧誘は放課後も続いているだろうから。
「ねえ……してくれない?」
「チッ、こっちもか」
それでも、窓の外から男子生徒の声が聞こえてきた。
靴を履き替え、ふと声があった方を探る。何故か東門とは反対の方向で、人通りは途絶えていた。
丸刈りの頭が見える。運動部のようだが、相手は見えない。
「どこもかしこも……新入生のこと、考えろよね」
視線を向けられてはいけない。茂みの裏に隠れ、興味半分で耳を傾ける。
「だからさ、何度も言ってるじゃんか」
しかし、他の勧誘とはどうも様子がおかしかった。
「カラオケ代が七人分。しめて一万円、ポンとくれりゃあすぐに解決するんだよ」
「そ、そんなの無理だよ……松浦君」
奥にいるのは女子生徒。短い髪を一つにまとめ、細身の身体が余計に弱々しく見えるほどに委縮している。
丸刈りの男子生徒は、松浦と呼ばれただろうか。
二人の距離が縮まっていく。ふとしたきっかけで殴られてしまいそうな、緊張と威圧。
「これ残ってんの。お前が百均でやった、万引き画像」
「……してないもん! あ、あれは、松浦君がみんなと一緒に、盗ったふりをしろって、言うから」
「んなモン誰が信じるかよ。阿婆擦れが」
汗で女子生徒の額が光を発する。気を抜いた瞬間、松浦が鞄を投げる音が聞こえてきた。
「時間割、黒板、掲示板、壁一面。印刷して貼り付けて、それでも同じことが言えるか試してやろうか?」
握られた弱みは、そのまま彼女の震える声に繋がる。
自分ならどうするだろう、と一瞬ながら考えた。諦めるか、それとも全てを捨てる覚悟で相手を殴るか。
しかし、今この場に自分の存在は一切関係ない。
「……滑稽、だね」
立ち合えば悲劇に見え、遠くで見れば喜劇に見える。
傍観者になればいい。せめて自分は同じ失敗をしてはいけないと、その胸に刻み付けて毎日を過ごせば。
足音を立てないように、目の前の光景に背を向ける。
「せいぜい、頑張りな……」
「それは、弱いから?」
辺りの時間が止まり、耳元に声が聞こえてきた。
あの時の、幽霊のような存在。気色悪いはずなのに、自然と身体に溶け込んでいく、奇妙な感覚。
「……はっ?」
「自分が弱いから、何もできないんでしょ?」
そんなはずは。言い返そうとした自分の、口が動かない。
頭のてっぺんから、爪先まで。身体の主導権が奪われ、自身の意志とは異なる動きに変わっていく。
「だったら、私が力を貸してあげる」
驚く自分の口を借りて、そいつが代わりに言葉を発した。
女子生徒が鞄に手を伸ばす。財布を取り出す、その直前。
足が勝手に動いた。導かれるように掲げたのは、化粧室から拝借した掃除用のバケツとモップ。
まさか、と思った瞬間、それは既に行動に移っていた。
「ハゲのくせに……性根は腐ってるわね!」
「……あっ!?」
松浦の頭にバケツを被せる。一度視界を奪えば、威勢のいい男ですら体勢を崩してしまう。
大きな隙が出た相手の尻に、水気を含んだモップの一撃。
「がっ、ぬぁぁぁっ!!」
松浦は茂みに頭を突っ込む。何も見えないからか、足をばたつかせたまま抜け出す気配はない。
用を為したモップは、追撃と言わんばかりに放り投げた。
「あー、スッキリした」
「え、あ、あわわ……」
女子生徒は呆気に取られ、その場に立ち尽くしている。
わざとらしく咳払いをした。人助けは、あくまでも鬱憤晴らしのオマケでしかない。
だから、この後のことは自然と過ぎ去るままに。
「せいぜい頑張りなさい、お嬢さん」
騒ぎを聞き付けた生徒たちに視線を向けられる。だが、誰も自分を止めようとはしない。
どよめきの輪の中心で、スキップしながら走り去った。
無我夢中で、息切れも気にせず、ただ一心不乱に走る。
小刻みに震えながら鍵を開ける。ドアに背を預け、靴を脱ぐのも忘れてその場に崩れ落ちた。
ようやく、自分の意志で身体を動かしていたことに気付く。
「……何、だったの?」
意識はあった、鮮明に思い出せる。しかし口も腕も動かせず、ただ突き動かされるままだった。
逃げようとしたのに、関わりたくないと思ったのに。
「どいつもこいつもウザい憎たらしい、私が一体何をしたからってみんな寄ってたかって私に絡んで構ってむちゃくちゃにしようとするの……」
頭を抱える。心の軋みに堪えられず、スマホを取り出した。
「金の話なんか他所でやれよ」
「あのハゲに目付けられたかも」
「わたしも万引きしろとか言われんの?」
「吐きそうマジで」
「全員誰かにぶっ飛ばされりゃいいのに」
「あんな奴いなくなっても平気だろ」
あの松浦に見られなかったとしても、どうせあの場を目撃した誰かに顔を割られる。
自分も、学校中に写真を貼られて晒し者にされてしまう。
「みんな、しねば」
しかし……最後の一線を超えかけて、ぐっと深呼吸をした。
このアカウントが消えれば元も子もない。発散できなくなった感情は、そのまま自分の身を蝕んでいく。
俯いたまま冷蔵庫に向かい、僅かに残った水を一杯。
「……こんな、はずじゃ」
ベージュの大きなカーテンを閉め、灯りをつける。目の前が明るくなっても、これからのことを考えると、目に見えない重みが心にのしかかる。
どう足掻いても、噂になってしまえば止められない。
「もう、やだ」
ソファに寝転がって足を投げ出した。手持ち無沙汰になり、スマホを消して目を閉じようとした。
もう、何もかも忘れてしまいたいと、そう思った瞬間。
画面の消えたスマホに、別人の顔が映っていた。
「……っ!?」
「どう、エキサイティングだったでしょう?」
叫び声が自身の喉から出る前に、手に持っていたスマホを宙に投げる。
前後左右に首を振る。声の出処は、それでも分からない。
乾いたフローリングの音。その直後、眩い光と共にそいつは姿を現した。
「そんなに嫌がらないで。ほら……軽い戯れじゃない」
「戯れ、って……」
「そのままの意味よ。失敗を知らない人間が、虫けらのように這い回る姿は滑稽よね」
同い年ぐらいの少女だった。真っ白なドレスを纏い、両足の透けたその姿は、どこか浮世離れしている。
まるで金縛りのように全身が動かない自分と、半透明の姿のまま宙に浮く彼女。
その飄々とした言葉は、掴み所はないが棘を感じた。
「あんた、誰?」
よくも私の身体を、と掴みかかる覚悟は、とても持てない。
「こうして会うのは初めてね。私は貴方の心に棲みつき、生まれた悪魔」
彼女は床に降り立った。妙に改まった態度で、お辞儀をしながら朗々と言葉を紡ぐ。
悪魔の名に違わず、取って付けたかのように優しく。
「……ツバメよ。以後、お見知りおきを」
続く