第1話 学校からの帰り道に悪魔と出会う話
大きなマンションの間から、日差しが車内に入り込む。
最寄りの駅まであと一つ。ディスプレイを睨んだ後、手に持ったスマホに視線を移した。
ドアの近くには、ベビーカー、お年寄り、サラリーマン。
「お出口は左側です、ドアから手を離してお待ちください」
このままずっと乗れば、楽園にでも辿り着けるだろうか。
時間を忘れ、邪魔な人との関係を捨て、お金に囚われずにただ穏やかに眠るだけの世界。
でもそんな願いは叶わず、電車は最寄りの駅で静止した。
「……あっ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
立ち上がり、出ようとした瞬間、真っ黒なスーツに腕を軽くぶつけてしまう。
慌てて頭を下げる。少し、こちらの歩みが早過ぎた。
腰を曲げ、右に動きを変える。人混みを掻き分け、小さな階段を目がけて先に進む。
「チッ……!」
手早くスマホを構える。幸運にも、顔認証は一発で開いた。
「早よ歩けよ、ノロマが」
階段を下りながら、タイピングして投稿のボタンを押す。
感情を吐き出し、いいねを貰って賞賛される場所。自分にとって、これ以上の楽園は存在しなかった。
「わたしへの嫌がらせかも、アレ」
「駅からつけられてた? キモいキモいキモい」
「オッサンは一生仕事でもしてろよ、激臭ボケナス」
「てかあのベビーカーも何? 邪魔」
「車乗るか隅に引っ込むか静かにするか努力しろや」
「自分のガキへの思いやりを少しでもわたしに向けろ」
「見るからに自己中だわ顔に出るんだよそういうの」
言葉を紡いで発散。この瞬間が、心地良くてたまらない。
スマホを横目に改札を通る。外に抜けた瞬間、眩い光と爽やかな風がこちらに向かってきた。
「……あー、スッキリした」
ポケットに突っ込んだパスケースの裏には、今まで一度も取り出したことの無い学生証。
県立白鷺台高校の一年三組、赤月叶芽の名前があった。
広大なバスロータリーを通り抜け、夕焼けの岐路。
車も通行人も多かった道はいつしか狭くなり、自分以外の息遣いが途切れていく。
一歩進むと、ネットニュースの通知。近隣の大鷹山で、高校生が飛び降り自殺をしたというものだった。
「……バカな奴」
人生は不満だらけ。もし法に触れないなら、道を歩く老若男女を金属バットで叩きのめしたい。
でも死んでしまったら、この欲望を満たすこともできない。
それなら生きるしかない。自分しかない自分という存在を、この世に刻み付けるために。
ホーム画面に戻る。先程の投稿に、一件のいいねが付いた。
「そう、それで良いんだよ」
公園を横切った。何人かの子供が遊んでいて、やかましい。
男女が手を取り合って、共にジャングルジムを登っている。どうせ十も超えれば、互いによそよそしくなって、あるいは憎み合うくせに。
ボールが隣の側溝に落ちる。飛んでくるのが嫌で、早足。
「ねえ、貴方の望みは何?」
自宅まであと五分。そう思った瞬間、声が聞こえてきた。
わざわざ視線を向けるのも面倒くさい。ろくに顔も上げず、適当に声を返した。
「教えてよ」
「……自分よりたくさん持ってる奴が、地べたを這いずり回っている姿を見たい」
変な奴だと思われて、どこかに行ってもらえたら一興。
そんな風に思っていたのに、背後で聞こえる少女の声は途切れずに続いていく。
「ふふっ、それはどうして?」
「暇潰しになるから。スカッとできる」
「そいつは、随分と変わった望みね」
五年前に閉めた精米店。その曇ったガラスに、自分ではない人の姿が映った気がした。
横目だから、全体像は分からない。そのはずなのに、視界に収めることを脳が拒んだ。
ゴキブリやネズミを、見てしまった時のような焦燥。
「お金が欲しいとか、アイドルになりたいとかさ。まあ色々あるじゃない」
「要るけど要らない。本当に大事なのは、心が満たされてるかどうかだから」
足を止めた。怖いもの見たさが憎くて、勢いよく振り向く。
「話は終わり? 私もさ、暇じゃな……」
だが、そこにいたはずの少女の姿はどこにもなかった。
「……はぁっ?」
おかしい。自分は確かに、誰かと会話していたはずなのに。
道路に移る影は自分一人分。耳に入ってくる物音も、遠くであの子供たちが遊んでいる姿だけ。
怖いとは思わなかった。ただ、違和感が喉に引っかかる。
「何なんだよ、バカバカしい」
夕食の下準備だろうか。魚の煮付けのようなタレの匂いが、空腹を感じ始めていた鼻に飛び込む。
空気を読まないその呑気さが、余計にどこか癪に障る。
「幽霊いたんだけど、マジで」
「よく見えなかったけど、たぶん女の」
どうせ無駄になるなら。あいつに使った余計な気力は、フォロワーのいいねに還元してやる。
「ずっと喋りかけてきて、ほんとウザ」
いつものように投稿を押しかけたが、ふと指を止める。
どうしてあいつは、自分を選んで話しかけてきたのだろう。他の人でも良かったのに、自分を。
深く考えるのが嫌になってきて、下書きを一気に削除。
「……はぁ」
僅かな宿題と大きな不満を抱え、再び自宅へと足を進めた。
続く