閑話 義弟として1
ステファンが、ボナート公爵家の養子となる日のこと。
母はいつも泣いていた。父は愛人の元に行ってしまい、滅多に帰ってこない。帰ってきたら、母ははらはらと涙をこぼし、私を見て欲しいと訴えた。父はそれを冷たく見下ろすだけだった。
ステファンは子どもながらに泣いている母がもどかしかった。母が正妻なのだから、きちんと道理を説けば、父も愛人と別れるはずだ。そう思っていた。
ある日のこと、ステファンは父に呼ばれた。父に自分のことが認識されていたのかと、意外に思いながら向かうと、明らかに父よりも位の高いとわかる貴族が三人いた。
一人は男性で、もう二人はステファンより少し年上の少女たちだった。
「あなたがステファン?」
少女の一人が優しげに自分に微笑む。もう一人の少女はぼうっと窓の外を見ているだけだ。どちらも黒髪を綺麗に結い上げていて、青い瞳が美しかった。
「はい……僕がステファンです」
「今日から私たちがあなたの姉になるの。よろしくね」
なんだかわからないままステファンは差し出された手と握手を交わした。
「……子爵、伝えていないのか?」
戸惑うステファンの様子を見て、男が父に尋ねた。
「え、ええ、こういう時は前もって伝えても寂しさを感じさせるだけですから」
父は少し罰が悪そうに、よくわからない言い訳をしていた。男の方がそれを見て、ため息をついた。そして、ステファンに向き直ると、膝を折って目線を合わせてくれた。
「ステファン、私はフェリクス・ボナート公爵だ。そして、この二人が娘のリュシアーナとミレーユ。私には娘しかいない。だから、公爵家を継ぐ者として、君を養子に貰い受けた」
男は鋭い目つきをしていたが、その瞳は優しかった。ステファンは、当時八歳だったが、養子の意味はわかっている。ただ残された母はどうなるのだろう。
「母は……」
「もちろん、母親には伝えてますとも! ボナート公爵の後継など恐れ多いと申しておりましたが、同時に喜んでいましたよ」
父がそう捲し立てた。ステファンは、母には知らされていたのかと、愕然とした。いつも泣いていたが、泣く理由の一つに自分と離れることも含まれていたのだろうか。
「……左様か。残念ながら長居はできない。これでお暇しよう」
ボナート公爵はステファンを促して、外に出た。リュシアーナがぼうっとしているミレーユの手を掴んでついてくる。外に出たステファンは、ちらりと母の部屋を見たが、母は姿を見せなかった。
そして、ボナート公爵家の養子として過ごして、一年した頃、何の前触れもなく、母の訃報が届けられた。半年前から体調を崩していたらしい。手紙を出してもなんの返事もなく、もう捨てられたものだとステファンは思っていた。
しかし、訃報と同時に母の世話をしていた侍女がやってきていて、ステファンを見るなり、慌てて小包を押し付けて、去っていった。
突然のことにステファンは呆然としたまま、その小包を開いた。
――その中身は、手紙だった。それも母が自分に宛てた手紙だ。
ステファンはその一つを開いて、中を見た。そこには、ステファンを心配する気持ちが書き連ねられている。そして、返事がなくてもいいとも書いてあった。
ステファンは、理解した。父が母からの手紙を渡さなかったし、ステファンからの手紙も届けなかったのだ。あの侍女は、捨てられそうになっていた母の手紙を父に背いて、保管してくれていたのだ。
「こんなところでどうしたの?」
後から後から涙が伝っていく。ステファンにもなんの涙かわからなかった。父がなぜこんなことをしたのかと問い詰めたい気持ち、母に捨てられたと勝手に決めつけていた自分への情けなさ、感情がごちゃまぜになって、リュシアーナにも答えられない。
「手紙? ああ、お母様から、やっと返事が来たのね」
リュシアーナは、ステファンが母に手紙を出していることを知っていた。
「なんで、母は何も言わないんだ。泣いてばかりで、父に手紙を捨てずに届けろとも言えないのかっ」
思わず出てきたのは、そんな台詞だった。リュシアーナは優しくステファンの頭を撫でてくれる。
「言えないのよ」
「え……?」
「言えないのよ。何も意見することはできないの。私たちはただ美しく微笑んで、子どもを産むだけの存在だから」
ステファンは、気丈で賢しい姉が諦めたように微笑む姿に驚いた。
「どうして?」
「そういう国だからよ。貴族女性には、どんな権限も与えられることはないの。たとえ第一皇子妃になったとしても」
リュシアーナは、第一皇子と婚約している。二人はいつも仲睦まじく語り合っているのをステファンは見ていた。
「泣くくらいしかできないでしょうね。泣いて同情を買って、夫に縋るしか道はなかったでしょう」
ステファンは頭を殴られたような衝撃を受けていた。こんなにも賢くて優しい姉なのに、そんな姉さえも泣くしか手段がないと言うのかと。
「男の言うこと、やることは絶対なのよ。どんなにそれが間違っていても……倫理にもとる行為でも。抗えば、暴力を振るわれるかもしれない。離縁されるかもしれない。この国の女性にとって、離縁は最も不名誉なことで、大半は自殺してしまうの。親元も引き取ってくれないから、生きる術がなくて、自殺するの」
それを聞いて、ステファンはすぐに間違っていると思った。
「それは、おかしい。どうして? 僕を産んで育ててくれたのは、父ではなく、母なのに」
ステファンは必死になって、尋ねた。どうしてそこまで母が蔑ろにされているのか、本気でわからなかった。
「そんな風におかしいと思う男がごく僅かだからよ。たとえおかしいと思っていても、欲望のため、あるいは、保身のため、見て見ぬふりをするの。そして、女は、教養もなく世間も知らず、争う術がない」
「リュシー姉上は?」
「どうかしら……」
リュシアーナは、非常に勤勉だ。誰よりも領地のことに詳しいし、養父も頼りにしている。
「わたくしが尊重されるかどうかは、未来の夫次第でしょう……」
リュシアーナは浮かない顔だ。姉をぞんざいに扱う第一皇子を想像してみると、怒りが湧いた。
「そうだわ、ステファン。手紙を部屋に置いたら、ミレーユの部屋に行ってみなさい」
突然そう言ったリュシアーナに面食らいながらも、ステファンは涙を拭って、頷いた。大事に手紙を抱えて、そっと引き出しの奥にしまうと、ミレーユの部屋に向かう。リュシアーナはその部屋の前で待っていた。
開け放たれていた扉からそっと覗くと、ミレーユが二人の子どもを相手に絵を教えていた。ミレーユは普段はぼうっとしているが、絵や彫刻が上手で、庭にある変な像たちは、すべてミレーユの作品だ。
ステファンより少し年下の子どもたちは、双子なのか、姿がそっくりで、どちらも白い髪に透き通るような紫の瞳をしていた。
「あの子たちが大人になったら、変革がくるかもしれないわ」
「変革……?」
「ええ、誰もが生きやすい国になるの」
「本当に?」
双子たちは、ステファンよりも小さくて、そんな風な力があるとは思えなかった。
「そうなる予定よ。男の子の方が、エンリケ。女の子の方が、ルドヴィカよ。二人はこれからどんどん力をつけてゆくわ」
「エンリケとルドヴィカ」
二人の姿はそっくりでどちらが男かもわからなかったが、ステファンは名前を覚えた。
「そう、彼らはカヴァニス公爵家の双子なの」
彼らは、生き生きとしていて、ミレーユ相手にも臆さず話している。何よりもリュシアーナが二人に期待しているのを感じて、羨ましく思った。
「僕も公爵になって、変革を手伝いたいっ」
ステファンもリュシアーナに頼ってもらいたい。その一心から飛び出た言葉にリュシアーナが優しく微笑んだ。
そのステファンだけに向けられた優しい笑みを片時も忘れたことはない。
成長するにつれて、この国の男尊女卑は行きすぎていると思うことが多くなった。そして、決定的だったのが、カヴァニス公爵家の壊滅だ。
あれほど期待されていた双子たちは、あっけなく死んだ。
そこからリュシアーナが変わったように思う。時折、義兄となった第一皇子を冷めた目で見るようになった。いつ切り捨てようかと機会を伺うような目だ。
そして、姉から直接言葉はなくともステファンは、リュシアーナに賛同していた。だから、どんなことになっても、味方で居続けようとした。
(今の私は……本当に力になれているだろうか……)
リュシアーナが皇帝になって、もうすぐ一年が経つ。ファリーナ帝国はみるみる内に腐敗を浄化し、回復している。
順調であるにも関わらず、ステファンは悩んでいた。
白狼騎士団が解体された後、ステファンはボナート公爵の後継者として、一貴族に戻って、領地を治めている。少し前までであれば、リュシアーナの護衛騎士としてそばにいたのだが、今は近衛騎士が選抜され、たくさんの文官に囲まれており、ただの貴族となったステファンとの距離はかなり遠い。
(姉上に期待されるだけの働きをするには、どうすれば……)
ステファンは、今日も思い悩んでいた。




