35、暗雲
十五で婚約して、十八で結婚した。それから三年、クライフ男爵不在のリーリエン港に暗雲が立ち込めていた。
雨雲と見間違えるほどのワームの大群が、リーリエン港に迫ってきている。
「馬鹿なっ、こちらに向かってきているのかっ?」
エヴァリストは凄まじい数のワームに狼狽えていた。リュシアーナは、エヴァリストの狼狽え具合を見て、我に返る。
(やるべきことをやらなければ……)
一つ深呼吸し、落ち着いてから、指示を出す。
「シャンナ卿、エヴァリスト様と共に魔法で館に戻ってください。エヴァリスト様、すぐさま騎士や私兵を集めて守りを固めましょう」
リュシアーナは、有無を言わさず、エヴァリストをルベリオの元に押しやる。この距離なら、ルベリオの魔法で余裕で移動できるはずだ。
リュシアーナに押されるままにルベリオは、頷いた。とにかく館に帰った方がいいと思ったのだろう。
「殿下、失礼します」
ルベリオが混乱しているエヴァリストの腕を掴む。そして、彼の足元から薄紫の光が立ち上り、それは二人を包み込んだ。完全に二人を包んだ瞬間、ぱっと光が散った。
ルベリオもエヴァリストも一瞬でいなくなっている。
ルベリオの使う魔法は、召喚魔法。印をつけた場所に瞬間移動できる魔法だ。彼は抜け目なく館に印をつけていたようだった。
「我々も戻りましょう」
第一騎士のレアンドロ・ピオヴァーニ伯爵が、リュシアーナに言った。
「いいえ。わたくしたちは、船着場に向かいます。そこの方、至急馬を連れてきてください」
リュシアーナは拒否して、一人の騎士を名指しする。
「早くしてください」
リュシアーナが重ねていえば、困惑しているものの騎士は駆け出していく。
「妃殿下、何をするつもりですか」
レアンドロがリュシアーナに尋ねる。リュシアーナは、騎士たちと共に足を進めながら、答えた。
「領民たちにも伝えて、避難させねばならないでしょう」
「……妃殿下の安全が最優先です」
「今はクライフ男爵が不在なのです。動かなければ、領民たちに被害が出ます」
そう言ってもレアンドロは、納得していないようだった。
押し問答して港街へと急いでいると、先を行った騎士が馬を二頭連れて戻ってきた。馬には簡素な鞍がついている。
「もう一頭にはピオヴァーニ卿がお乗りください」
リュシアーナは降りようとした騎士を制して、彼の後ろへと馬に飛び乗る。ドレスで乗ったため、少々はしたないが仕方ない。
「妃殿下! 無茶です!」
「船着場へ急いでください!」
リュシアーナはレアンドロを無視して、馬を蹴る。前にいる騎士が慌てて制御して、船着場へと走らせた。
運河に沿って下降し、馬はすぐに船着場へとたどり着く。
勢いを緩めさせ、リュシアーナは昨日出会った組合長のハインリヒを探した。大柄な彼はすぐに見つけた。というよりも、リュシアーナが目立つので、向こうからやってきた。
「ハインリヒさん、ちょうど良かったです」
リュシアーナは馬から滑り降りて、裾を直す。あとから、レアンドロが追いついてきた。
「な、何事なんだ?」
切迫した雰囲気の騎士たちにハインリヒは、狼狽える。
「あなた方の協力が必要です。今、この港のどこかにワームの卵があります。そのせいで、港にワームの大群が迫ってきています」
集まってきていた人々は顔を見合わせた。ここにいる人々にとっては、ワーム自体が初耳だろう。
だが、組合長のハインリヒには、話が通っていたらしい。
「何をすればいい?」
「ワームの卵を探し出して、一つの船に集めてください。船を囮に大群を誘導させます。強引な手を使っても、第一皇子殿下の名前を出しても構いません」
「妃殿下!」
「急いでください!」
勝手なことを言うリュシアーナを咎めるレアンドロだが、その声に重ねるようにハインリヒたちを急かす。
この港のことは、ハインリヒたちが一番よく知っている。だから、彼らに任せるのが一番いいだろう。
ハインリヒが仕切り始めて、港で働く男たちが散らばっていく。
「ピオヴァーニ卿、あなたは私兵たちと共に住民たちを頑丈な建物の中に避難させてください。必ず外に出ないように言い含めてください」
そして、リュシアーナは、住民の避難をレアンドロに命じる。いきなりワームの大群を見ると恐慌状態に陥りそうだが、建物の中に隠れていればひとまずは襲われないだろう。
「なりません。まずは妃殿下の安全が先です」
リュシアーナは拒否するレアンドロに苛立った。言い合う時間が無駄だ。
「わたくしが館に戻って、誰がこの領地を守る指揮を取るのですか?」
「それは妃殿下が考えることではありません」
「たしかに本来は騎士の仕事です。しかし、『弱者のために戦い、民のために尽くし、公明正大であれ』との言葉を忘れたあなた方に任せられるわけがないでしょう」
騎士団長が正式に騎士になる者たちにかける言葉だが、白狼騎士団の騎士たちは、後継争いに夢中で忘れている。
「わたくしが考えた方がましだと言っているのです。おわかり?」
冷え冷えとした目を向けると、レアンドロが言葉に詰まった。
「おい、お貴族さま! 鐘を鳴らしてもいいかっ?」
ハインリヒに声をかけられて、リュシアーナはレアンドロから視線を移す。
「鐘とはなんでしょうか?」
「戦時中に使っていた鐘だ! それを聞けば住民は自分で避難するぞ」
「鳴らしてください」
戦場が近かったことで、しっかりと敵襲に備える体制ができていたようだ。すぐに男が一人走って行った。
「他には? 私兵たちの指揮系統はご存知でしょうか?」
リュシアーナはハインリヒに並んで歩きながら問う。
「鐘さえ鳴らせば、そっちも避難優先で自主的に動き始めるはずだ。男爵はどうした?」
「今はカトリン侯爵領に向かっています。今日中には帰ってくるはずでしたが」
「わかった。男爵は不在なんだな」
ハインリヒが答えたところで、ガンガンガン!と、けたたましい鐘の音が港に鳴り響く。聞いただけで緊急事態と分かる鳴らし方だ。
共鳴するように港街のあちこちから鐘の音が鳴り始める。
「今日、運河から入ってきた船を重点的に調べてください!」
リュシアーナは鐘の音に負けないように声を張り上げた。
あの大群は、雑木林の方から向かってきている。そうなると、ワームの卵は海からではなく、運河で運ばれてきたのだろう。
「そっちには人をやった! 俺は足の早い船を準備する!」
リュシアーナは、ハインリヒと別れて、運河に向かう。運河と海の交差地点には、いくつもの船が停まっていた。
リュシアーナの後ろからは、いつの間にかレアンドロが消えていた。馬を引いた騎士が一人、ついてきているだけだ。
(エヴァリストに指示を仰ぎに行ったのね。ついでに港の様子も伝えてくれるといいのだけど)
リュシアーナは停泊している船を観察しながら思った。港にいた男たちが次々と船に乗り込んでいる。すると、どこかから鼻を刺すような悪臭が漂ってきた。
(どこ?)
リュシアーナは船の一つ一つをつぶさに見ていく。すると、一番大きな船で揉めているのが分かった。
「強制的に押し入って構いません! わたくしが責任を取ります!」
リュシアーナはその船の下で叫んだ。しかし、鐘の音で掻き消され、届かない。
「――その言葉、信用していいのか?」
その時、背後から声がかかった。振り返ると、昨日出会った魔法使いがいた。
グリフォン商会のメルデンだ。彼の黄金色の瞳が、まっすぐにリュシアーナを見ていた。
「ええ。第一皇子妃のリュシアーナ・ボナート・ファリーナが責任を負います」
胸に手を当て、リュシアーナは力強く頷く。
その言葉を聞いて、メルデンがにっと口の端をあげて笑った。
「――任せとけ」




