番外編その八 透石家初代当主・透石清愛義臣(後編)
「ぐおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」
大きな雄叫びを上げながら、私達を空高く跳ね上げたそれは、とてもじゃないが賢そうには見えなかった。人型――猿に近い姿形をしたそれは、毛が炎のように赤く、目は芍薬よりも赤い。
「清愛!受け身を取れ!」
ごうごうと、耳の側を流れる空気の音を切り裂くように、防守の声が聞こえた。
「私は受け身なんてとれません!」
私の強さは、どれだけ贔屓目に見ても素人のそれだ。受け身なんてとったこともなければ、とる必要のない生活を、これまで送ってきたわけで。
「なんてことだ!なぜここに来た!」
「あんたが連れてきたんでしょうが!」
手さえ届けば、殴っていたところだ。――できないが。
「よし。じゃあ、動くなよ?」
彼はそう言って、私の方に右の手のひらを向けた。私は動こうにも動けないわけで、彼に言われるがままに、身体が動かないように気をつける。途端に、私の体の周りを、何かが覆うような感覚があった。
「何をしたんですか?」
「何って……そりゃあ、霊力で体の周りに層を創ったのさ。これが、落ちた時の襲撃を和らげてくれる」
すごいだろ?と言ったふうに、彼は自慢げな表情だ。
「何がすごいのかわからないけど、とりあえずありがとう!」
私は、視線を彼から猿に向ける。ものすごく大きい猿は、松の樹林から松を縦に2,3本ほど積んだくらいの大きさだ。その猿のぎょろりとした赤い目が、きょろきょろとしきりに動いている。
「なにか探してるのかな?」
私は、防守に聞いた。
「大方、我らだろうな」
「!!」
背筋が凍る思いだった。ただでさえ、その異様な大きさによって、強力な存在感を放つあの猿に勝つことを、私は絶望的だとさえ思っているのに、それが積極的に私達を殺そうとしているというのなら、私は正直、今すぐにでも逃げ帰りたい気分ですらある。
「その根拠は?」
私は、彼に恐る恐る聞いてみる。
「根拠と言っては何だが、例の贄を差し出す日だからな。やつが元気よく起き上がったのも、その贄を回収するためだろう」
――そして。
「この村にいる人間は今、我らだけ。あいつは、我らを回収するために起きたのさ」
ははっ、と、防守は笑った。私が、とてもじゃないが面白いとは思えないこの状況を、彼は楽しんでいるようだ。
「まあ、この状況になったからには手伝うけど、こんな状況、二度とゴメンだからね!」
私は、吐き捨てるようにそう言って、もぅ一度猿を見る。
「あ」
計算を間違えたというか、私は勘違いしていた。彼の霊力の層によって、落ちても死ぬことはないと思った。その安心感で、私は忘れていた。私達は落ちているのだ。まっすぐに打ち上げられた私達は、少しズレたところで、あの猿の近くに落ちるに決まっている。私があの猿に何度も視線を向けたように、あの猿も探していたではないか。きょろきょろと、私達を探していたではないか。
その視線が、偶然、目の前に落ちてくる私達を捉えても、何ら不思議なことではないはずだ。
「ああ」
私と猿の視線が、カチリとあった。噛み合った。私の視線が、ゆっくりと上を向く。呼応するように、猿の視線が、ゆっくりと下を向いた。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
「あああ。あああああああああああああああああああああ!」
「叫ぶな!」
彼の警告と同時に、私達は猿によって叩き飛ばされた。猫が飛んでいる虫を叩き落とすように、猿は私達を叩き飛ばした。松の木の枝にぶつかりながら、私達は地面に――私は防守の霊力で守られているから、実際には彼だけ――打ち付けられた。
打ち付けられた時に上がった土煙を吸わないように気をつけながら、私はゆっくり身体を起こす。
「怪我はないか?」
不思議なことに、私と違って霊力に守られていなかったはずの防守が、既に立ち上がってこちらを見下ろしていた。受け身というのは、そんなに素晴らしいものなのだろうか。もしそうなら、ここに来る前に教えてほしかった。そしたらこんなに痛い思いをせずにすんだのに。
「大丈夫。防守は?」
「問題ない。我の身体は傷をすぐに直してくれるからな。骨折までなら大丈夫だ」
受け身がすごいのではなく、きっと彼がすごいのだろう。受け身をとれたところで、きっと私は彼の霊力の層に頼ったに違いない。
「それにしても、すごくでかいな……想像以上だ。これが怪異じゃなければ、いろいろできるのに」
「いろいろって、なに?」
「例えば、躾して岩とか水路を掘るのを手伝わせたり、毛皮にしたり……とかね」
「怪異はできないの?」
「怪異は基本、人間に対して敵対行動をとるから、そういう事はできない。――死んだら何も残らないしな」
なるほど、それは不便だ。彼は普段、どうやって手柄を証明しているのだろうか。まあ、聞かないが。
「それで、なんか策はあるんですか?最強さん?」
私は、腕を後ろに組んで、彼を下から覗き込むように見る。
「ああ、もちろんだ。まあ、策と言うほどのものでもないが。」
なんだろう。少し不安だ。
「霊能力者にはないが、怪異には感情があるらしい」
「つまり?」
「我が強い攻撃で気を引くから、その間に、あの猿の内側を破壊してくれ!そしたら、あとは我がやる」
なるほど、確かに策と呼べるほどのものではない。
「じゃあ、私はあなたの影に隠れていればいいってこと?」
「そういうことだな!」
「わかった」
猿の体表は、燃える毛に覆われていて触ることができない。そこで私は、近くの松の木に上ってみることにした。もちろん、登る時は彼に投げてもらった。ゆっくりと枝に近づいていく感覚は、自分で登るのとは違った面白さがあった。
「全身さえ見えればいいんだな?」
「うん。全身が一瞬でも見えたら、感情は破壊できる」
確証はと言われると弱いが、それくらいあれば、十分に破壊できると思った。
「では、参る!」
防守はそう言うと、高々と飛び上がり、射られた矢のように、まっすぐに猿の顔に突っ込んだ。反対側を向いていた猿は、ものすごく速く突っ込んできた彼を避けることができず、彼の攻撃を受けることになった。
攻撃はただの殴打である。燃える体表を、防守は素手で殴っていた。殴った衝撃で、燃える体表の一部が剥がれ、猿の骨があらわになった。さらに、少し態勢が崩れたようにも見えた。
猿も負けじと小さな防守を赤く熱された爪で引っ掻こうとしたが、そこに防守はいなかった。猿は空振りに終わった自身の攻撃を不思議そうに見つめた。
防守はというと、落下に任せて猿の左の股を蹴り上げる。猿の身体が、空に打ち上げられた。その攻撃のお陰で、私は猿の全身を捉えた。防守は、得意げにこちらを見た。
「わかったよ。仕方ないなぁ」
私は、猿の身体をじっと見つめる。その瞬間、身体の中の何かが、猿の身体の方へ飛び出ていく感覚があった。
私の目の前には、巨大な猿が持つ、純粋な感情が映し出されていた。職人によって美しく磨かれた、西方の国からの紅玉のように、様々な色合いを見せるその石は、一重に、私を快く迎えてくれた。私はそれを壊さなければいけないことに罪の意識を感じた。誰かに裁いてほしいとも思った。
私がこれからやることを裁ける人間はいないし、怪異も。おそらくは、神裁くことはできないだろう。これは私の傲りではなく、騙ることを宿命付けられた人間の、運命なのかもしれない。私はその美しい宝石に触れる。せめて、私だけでもこの宝石のことを愛そう。この子のことを忘れないようにしよう。そう思いながら、ふっくらとした手触りの宝石を、握りつぶした。
粉々に砕けた感情が、もとに戻ることはない。私は、それを意図的に引き起こしたのだ。
感情を完全に失った者はどうなるか。答えは単純だ。
何もできなくなる。
思考とは、意思とは、感情によって副次的に生み出されるものであり、感情がなければ、思考することもない。
猿は、その後一切の抵抗なく防守に倒された。彼いわく、あの大きさの個体は、急所を消し飛ばすよりも、与えたダメージの回復が速いらしい。だから、抵抗されないように内側を破壊してほしかったそうだ。
私はその後内裏に呼ばれ、大臣より義臣の座を貰った。今後、私は国のために騙ることになるらしい。とりあえず、生活に困らないのなら良しとしよう。
生きるために、私は今日も騙る。国の騙り師・透石清愛として。
霊能物語番外編その八「透石家初代当主・透石清愛義臣(後編)」でした。お楽しみいただけたでしょうか?お楽しみいただけた方は、評価とブックマークもお願いします。それでは、また次のお話で。




