第9話 自己紹介
彼女は濁った瞳で床に向けて、重い口を開く。
「貴方がそれを聞きますか……ここにいる貴方が」
ポツリと落とされた言葉。右手で左肘を抱き、縮こまった肩。
見下ろす形になる彼女の姿は細技の様に頼りなく、儚く見えた。
「答えなんて、言わなくても分かっているのでしょう?」
「……分からないな」
投げやりのような、諦めたような響きの言葉に否定を返す。
顔を上げる彼女。
ジロリと、濁った瞳が向けられた。
槍の矛先のような、突き刺すような圧があった。
フッ、と彼女は鼻で笑う。
「面白い冗談ですね」
「本気だ。冗談なんかじゃない」
「なら揶揄っているのでしょうか。中々に不快です」
「それも違う」
会話を交わす毎に細まっていく彼女の瞳。手を伸ばせば届きそうな距離のおかげでよく見える。
ドロリ。そんな音が聞こえそうな程に重々しく、黒が溶け落ちた。
似た瞳を鏡越しに見慣れた僕でも、思わず視線を逸らしたくなる不快感がある。
グッと耐えて、理由を返す。
「お互いに名前すら知らない。僕たちが会ったのもこれで2回目……何を考えているのかなんて、分かりっこないだろ」
「だから確かめる為の質問だったと?……答える必要を感じませんね。何せ貴方は名前も知らない人ですから」
ツンとした声。冷めた表情。
尋ねる理由と同じ、拒絶の理由。意趣返しのつもりだろうか。グサリとくる答えだった。
でも、今は都合がいい。痛みと怯みには努めて無視をする。
「そうだな……確かにそうだ。僕は順番を間違えたみたいだ」
「何を言って──」
「自己紹介をしよう」
単刀直入に、そう言った。
彼女はパチパチと瞬きをすると、フッと肩の力を抜く。
ダラリと、肘を抱いていた腕が垂れ下がった。
「今、ですか」
呆れた声だ。こんな時に何を言っているのかと、そう続きそうな言葉。
僕だって同意見だ。自分で自分に呆れている。
でもそれは彼女とは別の理由で、だ。
どうしてこんな時になるまで後回しにしてしまっていたのか。そんな、足踏みしてばかりの情けない自分への恥が理由だった。
だから引くつもりは無い。
恥は、自覚したときに正さなければ傷になるのだ。
「今だからこそ、かな……名前も知らない相手と、先の話をしたいとは思わないだろ?」
「……」
口を小さく開いて、やっぱり閉じる彼女。
そのままそっぽを向いてしまう。
「嫌かな?」
「別に、嫌ではありません……まるで狙ったような展開にムッとしただけです」
自己紹介に繋げるために会話を誘導したとでも言いたいのだろうか。
思い返してみれば、彼女の主張を利用した言い回しになっていたかもしれない。名前も知らない相手と話はしたくないと拒絶した彼女に、だからこそと自己紹介を提案した僕。
確かにこれは断りにくい。狙ってやったと判断されるのも仕方がないのかもしれない。
でも、この僕が?
「どうやら誤解があるみたいだ」
「それは一体どのような?」
「僕は会話が下手くそだ。コミュ障と言ってもいい。だから君が考えているような会話スキルはない」
なんでこんな情けない宣言をしないといけないんだ。
でも事実だった。
今一度、彼女は鼻で笑う。
「君が考えているような、ですか。まるで、私が何を考えているのか分かったような言い方ですね。さっきは「分からない」なんて言っていたのに」
「……」
うめき声を上げなかった自分を褒めてやりたい。
鋭く抉るような返答だった。耳か痛い。あと心も痛い。
口を開けない僕が面白いのか、彼女は小さく口角を上げた。
「すいません。揶揄いました」
「君の情緒がマジで分からないんだが」
「今回は本音のようですね」
「純度100%にな」
秋の空模様の方がまだ素直で読みやすい。少なくとも、空は僕を笑わないし、揶揄ってくることもない。
勘弁してくれ、と思わず愚痴る。
彼女は手を持ち上げて口元を隠す。
口角は見えなくなった。でも、クスクスと漏れる声は隠しきれていない。
随分と愉快そうだ。
ふぅ、と彼女は一呼吸。
「いいですよ。やりましょうか、自己紹介」
「……いいのか」
「以前、約束しましたからね。次に会ったら自己紹介をしようって」
それは2日前の、初めて会った日の約束。
「覚えてたんだな」
「これでも私、今まで約束を破ったことがないので」
「一度も?」
「ええ。一度も」
暗く、重くなった声音。
自慢しているような文面なのに、誇らしさカケラも感じられない。
むしろ自嘲しているような、そんな感じ。
約束を守るのはいいことだ、なんて。そんな幼稚な感想はとても言えそうになかった。
「そっか」
「疑わないのですね」
「疑っていても始まらないからな」
仮に嘘だったとしても、だからなんだという話だ。
今、守られていればそれでいい。
「そうですか」
「ああ」
そこから、沈黙。
なんとなく小っ恥ずかしい。面と向かって自己紹介をするなんて、いつ以来だろう。
久しく感じていなかった緊張に、心臓が分かりやすく跳ねている。
首元が熱い。
外気で冷めた指先で首を撫でて、孕んだ熱を逃す。
喉元の圧迫感が多少はマシになる。
「じゃあ、改めまして……」
「はい」
僕たちは目を合わせた。
「僕は九重 耀富。鶴高の1年生だ」
「私は成瀬 翼。附属高の1年生です」
同じテンポで交わる自己紹介。定型的な儀式がここに完了する。
名前を知っただけで、グッと距離が近づいた気がしてくる。
覚えのないその感覚が、少しむず痒い。
「……同い年だったのか」
「ですね。てっきり年上だとばかり」
「僕も年下かと思ってた」
「中学生呼ばわりはやめてください」
「いや、ごめん。前会った時は見慣れない制服だったから、どこかの私立中学なのかと思ってたんだ」
「附属高、聞いたことありませんか?」
「あいにくと」
「そうでしたか」
ワンブレス。
彼女──成瀬が深く息を吸う。
「附属高というのは悪通寺市にある女子校の通称です。正式には香川短期大学附属悪通寺女子高等学校。長くて堅苦しいので附属高と呼ばれる事がほとんどです」
カクカクした無感情な口調で、早口気味に言い切る。
急にぶつけられた情報量の多さに、処理するのに数秒を要した。
「……うん。説明ありがとう」
遅れながらもお礼は口にしておく。疑問へのドンピシャりの回答だった。百点満点だ。でも一回で覚えられる気はしなかった。既に正式名称の部分は朧げだ。
とりあえず女子校というのは分かった。そこが分かれば良しとしよう。
なるほど、見慣れない制服の筈だ。香川に女子校があるだなんて、僕は知らなかったのだから。
「これで、自己紹介の約束は守れましたね」
「そうだな」
「それと、ハンカチなのですが」
「……そういえば、返却の予定だったか」
正直、忘れていた。他のインパクトが強くって。
「あいにくと、今日は持ってきていないんです。なのでこの場でというのは難しくって」
「別に良いけど……」
元々、あげるつもりだったものだ。
替えはあるし、そもそもが2枚目。予備のものだ。
手元に返ってこなくても困らない。
「前も言ったけど、返してもらわなくてもいいから」
「いえ、ちゃんとお返しはします。一方的ではあっても、約束は約束です。ただ、本当にまた会えるとは思っていなかったので」
持ち運んではいなかったと。
「なら、3回目を期待してもいいわけだ」
「いえ、それは」
「返してくれるってことなら、また会わないと無理だろ」
「……そうなりますね」
「それとも、やっぱり約束は無しにするか?」
成瀬はムッとした顔をする。
「いいでしょう。次会った時にきっちり耳を揃えて返すとしましょう」
「お礼参りみたいな言い方はやめてくれ」
怖いわ。
はぁ、と。
成瀬は顔を逸らし、ため息をこぼす。
「……それで、今日はもう解散ですか」
「やりたかったことはできたから、それでもいいんだけど」
「そんなに自己紹介がしたかったんですか」
「違う。分かってて言ってるだろ」
「……何のことでしょう」
「別にいいけど。ハンカチをちゃんと返してくれるなら」
「……」
矛盾したことを口した自覚はある。でも意外にも、成瀬は沈黙を選んだ。
さっきと言ってることが違う、くらいの指摘はあると思ったのだが。
「やっぱり、分かってるんですね」
「何の──」
「──九重さん」
上から被せるようにして遮られる。
はっきりしろと、そう言外に言われている。
まぁ、もう誤魔化す段階は過ぎたのだろう。確信はないけど、そう判断してもいい気はしていた。
「……これでも、ここの使用歴は僕の方が多いからな」
「それなのに、意味もなく質問を繰り返していたんですか」
「意味はあっただろ。事実、成瀬は「次」を考えてくれた」
「それは……」
反論を飲み込んだ成瀬は下唇を噛んで俯く。
気まずそうに、あるいは悔しそうに。
「質問の答え。まだ先延ばしにするなら、僕が言ってもいいか」
「さっきまでの、のらりくらりとした振る舞いはどうしたのですか? 随分と対応が変わりましたね」
「さっきも言っただろ。やりたかったことはできたからな」
明言を避ける必要も無くなった訳だ。
「……「次」、ですか」
「どういう意味なのかは、言わなくてもわかるだろ」
ただハンカチを返して欲しい訳ではない。
また会うことを約束した。その事実こそが重要だ。
「約束なんて、破ったらそれでおしまいでしょう」
「破るのか?」
「……」
一度も約束を破ったことがないと、そう言ったのは成瀬だ。
約束を守ることに、何かしら執着があるのだろう。理由までは分からないが、今はそれが分かっていれば十分だ。
「次が来るまでに、猶予はできた。僕にしては大金星だ」
「会話が下手だと自己申告していたわりには、随分と人を転がすのがお上手なんですね」
人を詐欺師みたいに言わないでほしい。
多少の自覚がある分、心が痛む。
でも、それ以上に達成感の方が大きい。この爽快感は久しぶりだった。
「僕がコミュ障なのは事実だ。でも、やってやれないことはない。うん。正直不安でいっぱいだったけど、よかったよかった」
自然と、口角が緩む。
気が抜けたと言ってもいい。
成瀬はムスッとした顔で僕を睨む。
「ムカつくので、その笑顔はやめてください」
「その都度見ることになるだろうから、慣れてくれ」
一拍。
「……それは、どういう意味ですか」
不自然なほどじっと動かずに間を置いた成瀬が、そう尋ねる。
風も、止んでいた。
言い逃れも、聞き逃しも起こらない状況が、整っている。
いい加減、はっきりと言葉にしよう。
会話下手なら下手なりに、ちゃんと伝わるように。
「次も、その次も。僕は約束を君に課す」
一歩。
最後の一歩を踏み込んだ。
吐息が聞こえるくらいの、近い距離。
反射的に逃げようとしたのだろう成瀬の体は、背後のフェンスに阻まれる。
想定外の衝撃に、体勢を崩す成瀬。グラリと左に揺れた体を、腰に手を伸ばすことで支える。
あっ、と。薄い唇の隙間から細い声が漏れた。
外気に熱を奪われた布越しに、確かな温もりが掌を伝わってくる。
命の温度。
それが今、こうして感じられることに安堵する。
「つまり成瀬。君を自殺させるつもりはないってことだ」
目の前にある、成瀬の顔。
悔しそうな、腹立たしそうな、泣きそうな。
そしてどこか期待した顔を最後に覗かせて、成瀬は顔を伏せる。
前髪が垂れ、表情を覆い隠した。
これだけ近くにいても、どんな顔をしているのか見えない。でも、成瀬は逃げるような素振りは見せなかった。緊張していた体からも、フッと力が抜けている。
腕越しに熱が伝わってくる。
どんな顔をしてるのか、予想はできた。
「……やっぱり、分かってるんじゃないですか」
悔しそうな、腹立たしそうな、泣きそうな。
そしてどこか、安心したような声だった。




