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第8話 再会

2024/11/02 内容変更

 


 ──同日 17時32分



「はぁ……」


 漏れ出たため息を、目の前の錆びついた扉が受け止める。我慢しきれなかった。

 チラチラと視界内が瞬く。扉に張り付くように纏わり付いていた埃が舞っている。フワリと宙に広がったそれは、どこからか漏れ出る光に反射してゆらりと輝いていた。

 ここまで真っ暗な階段を登ってきたせいで、その光は眩しく映った。


 何となく、光が地に足を着けるまで見届ける。

 ヒラヒラと穏やかな川の流れを思わせる動きだ。枯葉の散り様に似ている。

 地に辿り着いた途端、煤と同化するように溶けて消えた。一見幻想的な光景も、正体ははただの塵。

 虚しい。気分は晴れなかった。


 ボソボソとした声が口から漏れる。


「結局、今日も……」


 ここに来てしまった。

 また1人を求めて、この場所を求めてしまった。

 このドアノブも僕を見飽きたのか、握り込めばピリッとした冷たさで反発してくる。痛みにも似た刺激が掌に広がる。でも、腕から先に伝うことはない。痛みはすぐに鈍化していく。

 冷たさも、もう感じない。


 腕に体重を掛ける。扉から抵抗は感じ取れない。とことん感覚が鈍っているようだ。いつもなら一息必要な扉も、スルリと開いた気がしてくる。

 きっと錯覚だ。これまでの経験的に、この扉がそんな優しい性格でないことは分かりきっている。思えば、いつもより道中の階段が長く感じた。

 左膝も、微かに震えている。


「……慣れないことして疲れたか」


 結局、休みが1日潰れることになった試験監視員のボランティア。人生で1度やるかどうかといった具合のレア体験だった。でも、最初に感じていた役得感は、今では消え失せている。

 結局、文字通りの案山子として居ただけだ。やり甲斐も何もない。鳴りそうになる腹を水を飲んで誤魔化し続ける時間は、苦行でしかなかった。

 特別動くことのない時間でも、体はしっかり疲弊するらしい。そのせいか、読み終わった2冊の本の内容もうろ覚えだった。

 無駄な時間を過ごしたという損失感だけが胸に残っていた。


「まぶし……」


 扉を開いた先。景色はオレンジ色を帯びていた。薄いカラーフィルム越しに覗き込んだような、そんな色合いだ。

 暗闇に慣れた目には明るすぎる。手をかざす事で緩和した。

 途中で手を離したせいで、半開きのまま停止する扉。隙間から暗闇が覗いている。埃っぽい空気が鼻にじゃれ付くのが鬱陶しい。

 今更扉を閉める気にもならず、一歩離れる。闇からも光からも顔を背けて、足元をボンヤリと眺めた。少し待てば目も慣れるだろう。


「そっか…もう日の入りか」


 この場所は構造的に西陽が入らない。夕陽の光が辺りに照り返して、ここまで届いているのだろう。

 日の入り前特有の赤みの強い光のおかげで、足元もまだ明るさを保っていた。


 少しして、まぶしさにも慣れてきた。

 手を下ろし、いつものように左を向く。

 やっと1人になれる。そう思った。

 歩き出そうとして──やめる。

 誰かいる。

 奥に立つ人影。女性的なシルエット。照らされた赤みの強い髪。

 見覚えがある。2日前の記憶が呼び起こされた。

 彼女だ。

 再会を期待しながら、もう会うことはないと思い込んでいた彼女が、背を向けて立っている。


「どうして……」


 昨日、彼女はここに来なかった。

 だからてっきり、もう会うことはないだろうと思っていたのに。


 この場所を求める人は2種類に分かれる。毎日足を運ぶようなタイプか、最初が最後になるタイプだ。極端な場所なのだ、ここは。

 だから彼女に会うまで、僕はずっと1人だった。


 当然、僕は前者だ。似ていると感じた彼女もそうだと期待した。だから昨日来なかったことで、もう会うことはないと納得していた。

 でも、どうやら思い違いだったらしい。


 予想外の再会だった。

 どう動けばいいのか、すぐには思いつかない。


 彼女はこちらに背を向けたままだ。

 あのフェンスの側に立つと、外の音が耳を覆ってくる。でも、今日は落ち着いた天気で風も穏やかだ。さっきまでの独り言ならともかく、扉の音には気がついても良さそうなのに。


「……そういうことか」


 さっき扉を開けた時、恒例の錆びついた音が無かった。てっきり疲れのせいで聞き逃したと思ったけど、感じた違和感は正解だったようだ。ここの扉は開ける時はもちろん、閉め切るのにも力がいる。

 先に彼女が入っていて、扉に隙間が出来ていたのだろう。だから擦れることも無く、音が鳴らなかった。


 前回、僕が彼女の登場に気が付いたのは音のおかげだった。

 今この場に、再会のキッカケはないということだ。


 ──耀富(あきと)、お前は、正しい人間であってくれ──


 頭の奥で声がチラつく。変わり映えのしない声。さっきも聞いた、いつもと同じ内容。

 ジンワリとコメカミが熱を持ち、瞳の奥がヒリついた。

 最近はヤケに多い。この声に従って、幾つもの願いを叶えてきた。

 誰かの助けになることは、正しいことだからだ。

 その結果良いように使われていたとしても、僕は声の奴隷を続けている。


 幼い頃は道標だった。中学の頃には行動指針にしていた。

 今では僕にとっての常識だ。出かける時に玄関の鍵を閉めるのと同じくらい、やらないことに不快感や不安を覚えてしまう。


 もう一度彼女を見る。

 煤けたような、薄い背中。ふっと消えてしまいそうなおぼつかなさ。そんな儚さの中に、人を寄せ付けない威圧感が確かにあった。

 近寄るなと、声に出さずに言っている。見つけるなと、沈黙が語っている。


 僕の常識に従うなら、その願いを汲み取るべきだ。

 口をつぐんで、何も見なかったことにして、そっと立ち去るべきだ。

 今日やってきたことと変わらない。ただ流されるだけでいい。

 そうすれば、今日と同じ明日が待っている。


 ザリッ、と砂の擦れる音。

 無意識に、一歩足を引いていた。


「……ダッせ」


 僕は自分の情けなさを自覚している。

 常識から抜け出すための一歩。そのたった一歩を踏み出すだけの勇気も持ち合わせてはいない。

 惰性と自己保身。それが僕の正体だ。

 とっくの昔に自覚しているのに、未だに抜け出せない。

 便利屋がお似合いの底辺な存在。


 でも、そんな僕でも、ここで逃げ帰るのは違う気がした。


 黙って立ち去るのが正解だと分かっている。そうすれば、1人を求めてここに来たのだろう彼女の時間を邪魔せずに済む。

 その判断は正しい筈だ。彼女の背中はそう語っている。


 鞄を床に置く。

 ここがスタート地点だ。

 ここから後ろには、もう下がらない。


「……」


 一歩、彼女に近づく。重い足が靴底を引きずった。

 瞬間、瞳の裏が燃えるように痛む。


 ──耀富、お前は──


「うるさいッ……」


 被せるように呟いて、その勢いでもう一歩を踏み出した。

 ガンガンと頭蓋に響き続ける声を、生まれて初めて無視する。

 足は、重い。


 僕は何も変わっていない。情けないままだ。声に逆らうことに不快感が迫り上がってくる。常識が「やめておけ」と肩を掴む。

 でもここで逃げるわけにはいかなかった。

 だって、この場所に1人でいる寂しさを、僕は誰よりも知っている。


 近寄るなと言っている。側にいられると怖いから。

 見つけるなと語っている。醜いという自覚があるから。


「ああ……だから彼女は」


 あの日、僕に声を掛けたのか。

 不思議と、足は軽くなった。


 距離が縮まることに緊張はなかった。だってこれは恩返しだから。

 あの日あの時声を掛けてくれた彼女に、今度は僕が返す。

 1人を求めているのに、1人を恐れている。

 その思いを同じくする同胞に、1人じゃないと示す。

 ただ、それだけのことだから。


「君!」


 彼女の背中に向かって、ただ声をかける。

 名前を知らないことがこんなに不便だと思ったことない。


「……」


 ゆっくりと振り返った彼女に言葉はなかった。

 まだ彼女とは距離がある。目を細めてこちらを注視しているようだった。そういえばと、前回と立ち位置が入れ替わっていたことを思い出す。

 あそこに立つと入口側は影が濃くて見えにくい。シルエットくらいしか捉えられない筈だ。

 誰か来た、としか分からないだろう。


 彼女は胸の前でギュッと両の手を握り締めている。

 相手が不確かなことへの警戒心が伺えた。

 影と形しか分からない相手に急に声を掛けられたんだ。当然の反応だった。


「いきなりごめん……2日ぶり。僕のこと覚えてるかな?」


 多少の安心材料にはなるかと思って、近づくスピードを落としながら声を掛ける。

 変なナンパみたいになってないだろうか。こんな風に声を掛けるのなんて初めてだ。気恥ずかしい。でも他に言葉がパッと思いつかなかった。


「……」


 返事を貰えないまま足だけは動かしてしばらく。亀の歩みで影から脱する。

 これで顔が見える筈だ。彼女はすぐに思い至ってくれたようで、胸元に手を添えながら返事をくれた。


「ああ……よかった。ハンカチの方ですか」

「そういう覚え方なんだ」

「印象的だったので」

「……まぁ、ろくに話してなかったもんな」


 他に言いようがないのも分かる。僕だって彼女のことを「君」としか呼べない状況だ。「知りません」と言われなかっただけマシだろう。


 彼女は一息吐きながら手を下ろす。

 強張っていた肩から力が抜けていく。多少は警戒を解いてくれたのだろう。

 よかった。ハンカチはいい仕事をしてくれたようだ。


 ある程度近づいてから足を止める。

 大股で3歩。近過ぎず遠過ぎない。そんな距離感。そこで止まる。

 彼女はコテリと小さく首を傾げた。


「……この微妙な間はいったい?」

「人との距離感ってこんなもんだろ」

「そうでしたっけ……」


「遠いような……」と呟く彼女。

 ほぼ初対面の女性に気安く近づけるほど、僕は女慣れしていない。膝や声が震えていないのが不思議なくらいだ。

 気楽に話せる異性はごく少数だし、その相手にだって声を掛けられないと近づくこともしない。

 僕はヘタレだ。


 今、僕が彼女に感じている心の距離はこの程度。

 それを埋めなければならない。でないと、何の為に声を掛けたのか分からない。

 難問だ。

 親しくなるための会話術。そんなの知っていたら苦労はない。他人とのおしゃべりなんて苦手分野だ。

 僕にあるのは心構えだけ。話題の準備はしていない。

 行き当たりばったり極まれりだった。


「そういえば、今日は私服なんだな」


 ひとまず目についた物から話題を引っ張り出す。


 淡いベージュのワンピースで、上から濃いブラウンのコートを羽織っている。首元や袖部分、それとワンピースのスカート先にも白いフリル型の刺繍が施されているのが目を引いた。

 良い所のお嬢様に見える。


「え、はい……今日は創立記念日でしたので」


 急な話題の展開にも関わらず、彼女はちゃんと答えてくれた。

 袖口をソッと撫でながら。

 目線も、斜め下を向いている。


 休みに出掛けていた、ということだろうか。それにしてはカケラも楽しそうに見えない。そのまま受け取るのは違う気がした。

 この違和感が、今日ここに来た理由と関係している可能性もある。

 気になる。

 でも、深掘りするのはまだ早い。そう思って無難な回答を口に出す。


「奇遇だな。ウチも高校受験で休みだったんだ」

「学生服のようですが?」

「色々あってね」


 本当に。


「なるほど。教育的指導というやつですか」


 小さく2度頷く彼女。

 勝手に納得しないでほしい。


「僕、不良だと思われてるのか?」

「冗談です」


 口元に手を添えて、クスクスと笑っている。

 小さな笑みだ。表情の変化は瞼が少し柔らかくなる程度。口元が隠れているから分かりにくいが、確かに笑っている。

 意外と茶目っ気があるらしい。


 少しだけ、彼女のことを知れた。

 半歩、足が前に出た。


 ひとしきり笑った後。

 彼女は手を下ろすとポツリと呟いた。


「……また会うなんて、思っていませんでした」


 また、目線を落としている。

 どういう意味だろう。約束を守る気はなかったということだろうか。

 それとも、「絶対に会えなくなる理由」に心当たりでもあるのだろうか。

 もし後者だったら、やっぱり僕は彼女を放って置けない。


「僕も──」


 つい同調の言葉を続けそうになって、やめる。

 取り留めのない話をして、約束を消化して終わり。ハンカチを返してもらって、名前を交換する。

 ただ、それだけで終わる。3回目は、きっと訪れない。

 そんな予感がした。


 何のために彼女に声を掛けたのか。

 今一度考えて、言い直す。


「いや、ごめん。また会うことになるって、実は思ってた」


 片眉をぴくりと跳ねさせて、彼女は顔を上げた。意外な返答だったのだろう。

 一拍を置いて、コテリと首を傾げた。


「どうして、そう思ったのですか?」

「……納得してもらえるかは分からないけど」


 僕だって、勘違いだと、見間違いだと思っていたことだ。

 口にする理由としては、あまりに薄い。


「興味があります。現にこうして私たちは再会していますし……根拠としてはそれで十分では?」

「後からそれっぽく言ってるだけかもよ?」

「え、そうなのですか?」

「いや、違うけど……」

「なら良いじゃないですか」


 だからその警戒心の無さはどこからくるのか。


 ため息が溢れる。首の裏を一度撫でてから、彼女の目を見る。

 言わないと始まらない。

 もう半歩、彼女に近づいてから、言う。


「前会った時に、君の目を見たから」


 今も、見ている。

 2歩分の距離。彼女の表情はさっきよりも鮮明に見える。

 僕の見立ては間違っていなかった。

 もう半歩、足が前に進んだ。


「……」


 彼女は顔に手を這わせている。花弁を撫でるような、儚い所作だった。

 頬の上側、目元の下辺りに指先が触れている。


「私の目、ですか」

「ああ。正確には……」

「……?」


 続けていいのか、迷う。

 これを口にして、彼女は傷つかないだろうか。僕が言われた時はそれなりにショックだった。

 こういう時、口の上手さが欲しくなる。直接的な言葉しか、思い浮かばない。


 でも、口を噤むわけにはいかない。

 彼女がここにいた意味。僕の予想が正しいのなら、沈黙や誤魔化しは悪手だ。

 一呼吸挟んでから、覚悟を決める。


「君のその、濁った瞳を」


 彼女の瞳は、濁っていた。

 1歩半まで縮まったこの距離なら、見間違うことはない。

 綺麗な琥珀色の虹彩に向けて、黒い瞳孔が溶け落ちている。そんな風に見えた。

 勘違いじゃなかったことに納得して、真実だったことに悲しくなった。予想通りの結果が目の前にあるのに、何故か気分は落ち込んだ。


 それを見つめる。

 瞳は揺れている。彼女は細かい瞬きをしながら顔を逸らしてしまう。目を合わせていられたのは1秒程度の時間だった。

 確かめるのには十分な時間だ。


 僕の目が曇っていなければ、彼女の瞳は濁っている。それも、2日前よりも一層濃く、暗く。

 中途半端に固まったペンキが重力に負けて溢れている。ドロリとした粘性が、以前より強く感じられた。


「瞳……濁りですか」


 噛み砕くように、ポツリポツリと呟く。

 顔を逸らしたまま、彼女は瞼を抑えていた。


「なるほど、確かに納得し辛い理由ですね」

「だよな」

「整合性が無いですから」

「自覚はしてる」

「……本当に、それだけですか?」

「これだけだ。でも、僕には十分すぎる理由だ」


 少なくとも、彼女がまたここに来ることだけは確信できる。

 濁った瞳を持った人がこの場所を知ったからには、そこは間違いない。

 再会できるかだけが運任せというか、賭けに近いところだけど。

 でも、幸運なことに僕は間に合った。だからこうして再会できた。


「そう、ですか……」


 そう言って、彼女は口を噤んでしまった。

 呆れとか図星から来る沈黙でない。彼女の顔を見ていれば分かる。横顔であっても明らかだ。

 何か言いたそうに、彼女の口がまごついている。


「思ってることを言っていい。たぶん、予想通りだから」


 何度も見た本を読み返すような感覚で、彼女を促す。緊張は無かった。

 今この瞬間だけは、僕は未来が見えている。


 少しの間の後に、彼女は顔を逸らしたまま目線だけを寄越して口を開く。

「では失礼して」と、小さな前置きから入る。

 次に続く言葉は、やっぱり思っていた通りのものだった。


「瞳が濁っているのは、あなたも同じでは?」


 ツンとした声で、彼女はそう言った。


 やっぱりだ。

 彼女も、僕の瞳の濁りを知っていた。

 見られたのは、きっと前回。この場所だ。

 あの時は存分に気を抜いていたから、不思議ではない。不意打ち気味に声をかけられた時、咄嗟に振り返った時にでも見られたのだろう。


 彼女が不自然なほどに僕への警戒心が薄い理由に、やっと納得がいった。

 瞳が濁るなんて、普通じゃない。普通に異常だ。

 そんな部分が共通している相手が急に見つかった。それは親近感も湧くだろう。

 同族意識は僕の一方的なものでは無かったらしい。


 彼女は本当に、僕とそっくりだ。


 ──なら、濁りの理由は?

 ──何故そうなって、何故ここにいる?


「君、どうしてここに来たの?」


 気がつけば、僕は口を開いていた。

 最初に会った時に彼女が言ったのと、同じ質問。

 確信がある。

 今度は嘘で誤魔化されることはない。


「……」


 彼女は返事をせずに、逸らしていた顔をゆっくりと戻すだけだ。震えもなければ強張りもない。僕の急な言葉に動じた様子も見られない。

 改めて、目が合わされる。


 瞳の濁りが、より強くなる。

 沈んで、暗くなる。


 ああ、こんな風に見えるのか。

 もう半歩、近づいた。

 彼女は黙って、僕を見上げていた。



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