第7話 便利屋さん
──3月7日 木曜日 12時18分
──丸鶴高校 校舎本館 1年2組の教室
今日も教室で本を読む。野暮ったい黒縁眼鏡を掛けて。
無骨な眼鏡が視界を削る。カメラのフレームを絞るように欠ける外枠。3割減の視野の中には本。大きく腕を広げて僕と対面している。
この状況なら誰かと目が合うことは殆どない。外からの情報量も自然と減るからとても楽だ。おかげで気を張らずに本を読む事ができる。
ベストコンディション、と言いたいところだがそうもいかない。
普段なら、時間の流れも忘れて読書に没頭するところだ。でも今日は1つ、いつもと違って点がある。それが理由でどうにも集中しきれない。
冊子の外枠と眼鏡の縁との隙間から、多少は周りの景色を見ることができる。
ピントの合わないボンヤリとした背景の奥に見える黒板。それが普段見える景色だった。
でも今の視界に黒板はお留守だ。代わりに、規則正しく並んだ席が多数見える。座る彼らの姿も、後ろ姿ではなくコチラに向かったものだ。最後尾から見る普段の景色とはまるっきり逆転していた。
今座っているのは自分の席ではない。
授業の度に顔がすげ替わる場所──教卓。そこにパイプ椅子を添えて作った、文字通りの「即席」。そこに座っている。
パイプ椅子は安っぽい。クッション部分も平べったくて固い。今日座るのはこれで3回目。お尻が痛くって仕方がなかった。
本は2冊目に突入している。それだけの時間が経っている。クッションが潰れるのも納得だった。
だいぶのんびり過ごしている自覚が、僕にもある。
平日の昼間にこんな過ごし方をするのは初めてだ。贅沢、とは思えないけど、無意味な時間とも違う気がする。きっとこれから先、同じ経験をすることは無いだろう。
今日限り、これ限り。
そういう意味では貴重な時間と言えなくも無いのか。
本から顔を上げれば、その考えに確信が持てる。
縦に6、横に5。計30席。見慣れた机が規則正しく並んでいる。いつも以上に几帳面に、きっちりと等間隔に整列している。
状況は満席だ。席同士にも、僕との間にも距離は十分にあるはずなのに圧迫感がある。1対30という構図がそうさせるのだろうか。
男女不規則に座る彼らと目が合うことはない。僕を認識すらしていないだろう。皆んなコチラに頭頂を向けていて、無防備とも言える姿だ。
可愛らしいつむじが丸見えだった。
右巻き左巻き。話には聞いていたけど、人によって違うのは本当らしい。
彼らは深く集中して、目の前にある数枚の用紙と向き合っている。手は動いて止まってを繰り返し、忙しない。
近くに座る女の子の机を覗く。見覚えのある問題文が目に止まった。僕も解いたことのある問題なんだから当然か。
懐かしい。1年分の時の流れを感じる。
まさかこちら側に立つ日が来るとは、思っても見なかった。
今日は高校受験の日だ。
目の前の彼ら彼女らは来年、後輩になるかもしれない人達だった。実際に関わることになるかは別として、ひと足先に後輩達の顔が見れた訳だ。そう考えると、少しだけ得をした気分になる。それに、どこか彼らが可愛くも思えてくる。
一言も喋ったことはないけど、後輩という響きは胸にくるものがある。
頑張れと、心の中だけでエールを送って、本の代わりに今日のスケジュール表を引っ張り出した。
鶴高の試験内容は筆記試験と面接に分かれている。今日が筆記、明日が面接だ。その2つが鶴高校舎で行われるおかげで、両日共に在校生は休みだった。受験生の集中を妨げることを懸念して、部活動も全面禁止。学生には珍しい完全休日だ。
そんな心踊る日にわざわざ学校に現れるのは相当なお間抜けさんだろう。あるいは、僕のようなボランティアのどちらかだ。
こういった催しは学校イメージに直結する。試験会場で問題が起きようものなら将来的にも大損だ。だから手伝いは生徒会や信頼のある生徒が直接依頼されることが多い。
その筈だった。
僕はどちらにも該当しない。立候補なんてもってのほかだ。誰が好き好んで休日を潰したがるというのか。この場にいるのは可笑しい。なのに現実はこうだ。
原因はまたしても彼女、桃瀬だった。
昨日の夜、唐突に連絡があったのだ。
「試験監視役に欠員が出ちゃったの。手伝ってくれないかな?」
そんな1文が、メッセージアプリに投下されていた。連絡先を交換した覚えはないのだが、どこかしらから入手でもしたのだろう。
よくもまぁ、あんなことがあった後にお願いを持って来れるなと思った。彼女のツラの皮は相当厚いようだ。
不快感はない。
僕の扱い方としては桃瀬が正しい。多数派が正義であるという意味では、道徳やら心情は容易く押し流されるからだ。この学校で1年過ごして、そのことは身に染みている。
──「お願いを断らない便利屋さん」
僕に対する鶴高内での認識だ。
事実その通り。僕はお願いを断らない。いや、断ってはいけない。そう、中学の頃から意識付けている。いつの間にか、義務とすら感じていた。その証拠に今までの3年間と少し、僕はお願いを断ったことはない。
人の印象は簡単には変わらない。第一印象と日々の積み重ねがモノを言う。中学が同じだった人が多く在籍している鶴高において、僕への認識は頑強だった。
だから、こうしたお願い事はしょっちゅうだ。慣れたものだと僕本人が感じるのだから、周りにとっても当たり前のことだろう。直接頼まずにメッセージで済まさせることや、人伝のお願いも最近は増えて来ている。軽く見られている証拠だった。
断りたい気持ちは、ある。
でも、こうしてこの場にいるのが答えだった。
──頭が、痛む。
「ふぅ……」
誰にも聞こえないように息を吐く。意識を切り替えよう。
ボランティアの内容はシンプルだ。それが救いでもある。
椅子に座る。時々受験生に目を向ける。以上。それだけ。
試験問題の配布や回収は先生方がしてくれる。1番重要な部分だ。学生にさせる訳にもいかないだろう。だから他にやることがない。
監視とも言えない案山子役が今回のお仕事だった。
目的はカンニング対策だろう。ならその場にいるだけ十分。鳥獣から田んぼを守る案山子と、役割は似たようなものだ。
能動的に動く必要はない。ただ存在しているだけで意味がある。誰でも出来る役割だ。おかげで本を読んでいても問題にされることはない。時間的な拘束を度外視すれば楽な仕事ではあった。
でも、流石に飽きた。
教卓の下で腕時計を確認する。一応念のため、頭上にある備え付けのデジタル時計にも目を向ける。2つの時間に誤差はない。
12時24分。3教科目は12時30分で終了だ。そろそろ5分前の予鈴が鳴る頃だった。
──ジジィッ。
機械特有の接続音。電源を入れた音だろう。後を追ってスピーカーが震える。
──キーンコーン……
びくりと小さく震える受験生達の肩。大きな音が急に聞こえたのだから当然だ。きっと背を突かれたような気分だろう。
彼らの行動が2つに分かれる。最初の問題から見返そうとする子と、最後の追い上げに全力を捧げる子。普段ならなんて事のない5分が、今は意味を持っていた。
「……」
なんだか悪いことをしている気がしてくる。
「やっと終わりか」と残りの5分を歓迎する僕と、「もう終わりか」と時間の引き伸ばしを望む受験生。同じ時間の中を生きている様には思えない。小さな罪悪感がチクチクと胸を突く。
だけど仕方がない。早くこの時間が終わって欲しい。それが僕の本心だ。
この3限目が終わればお昼休みが来る。受験生にとっては小休止。対して僕の場合は完全な解放を意味する。
欠員が出ていたのはこの時間まで。ここから先はお役御免だった。
……せっかくだし、外食でもしてみるか。
贅沢な考えが頭を過ぎる。けど少し考えてみると、これまで碌に外食なんてして来なかった。圧倒的な経験値不足だ。
どこに行けば美味しくて財布に優しいお昼が食べられるのか、僕は知らない。自分の無知具合に寂しさすら感じてしまう。今日も変わらず自炊になりそうだ。冷蔵庫には何が残っていただろうか。
──キーンコーン……
本鈴が鳴った。
いつの間にか入室していた先生方が、解答用紙の回収を始めている。
「……終わりか」
こうしてみるとあっという間だった。本を鞄に入れながらそう思う。項垂れている何人かの生徒もきっと同じ気持ちだろう。ニュアンスは違うだろうけど。
「ここからは昼休みです──」
学校内での注意事項が周知されて、受験生達はお昼休みに入った。
お弁当を取り出したり、教科書を取り出したり、友人と顔を合わせたり、各々好きなように振る舞っている。その様子をぐるりと見渡してみる。
「……頑張れ」
思わず漏れ出てしまった。誰にも聞こえていない事を祈る。誰ともしれない相手からのエールなんて気味が悪いだろう。訝しげな顔で見られるのは避けたい。
自分の鞄を肩に掛ける。速やかに、かつ静かに退出した。
他人がいるかいないかで心持ちが変わることを、僕はよく知っている。その相手が「先輩になるかもしれない」年上であれば、いっそう複雑だろう。僕がいては気が休まらない子も、中にはいるかもしれない。
やることも終わったことだし、お邪魔になる前に退散だ。
「九重君は、これであがりだっけ?」
教室を出てすぐに声を掛けられた。振り向けばスーツ姿の女性が1人立っている。
こんな人、この学校にいただろうか。
「えっと、お疲れ様です」
「九重君もお疲れ様」
今の声を聞いて気付く。彼女は保健医の愛葉先生だ。全然気が付かなかった。
彼女は答案が仕舞い込まれたクリアケースを右手で抱えるようにして持っている。さっき教室に入ってきた先生の内1人だったのだろう。
彼女はトレードマークの白衣を脱いでスーツスタイルでピシリと決めていた。白が反転して黒に染まっている。まるで別人のようで、普段発している大人の色気とは別ベクトルの気配を放っていた。
「できる女」のイメージが強い。服装でこんなにも雰囲気が変わるものなのか。
「すみません。お先に失礼します」
別れの挨拶と同時に頭を下げる。僕の動揺はうまく隠せているだろうか。
「ええ、助かったわ。ありがとう」
髪を耳に掛けながらの返答。淡々とした、少し素っ気無くも感じる口調。保健室で会った時と何ら変わらない対応だ。きっと社交辞令だろう。
でも、久しぶりに聞いた「ありがとう」という言葉に、胸が跳ねた。
その一言で報われた気がしてくる。感謝されて嬉しくない訳がなかった。
「僕もいい経験ができました。ありがとうございます」
「そう。気をつけてね」
最後にもう一礼して、愛葉先生と分かれる。
帰りにケーキでも買って帰ろう。
自然と、自分へのご褒美が頭に浮かんでいた。
いつもなら、帰路に着く時はあの場所のことを考える。必ずと言って良いほどだ。
けど今日はそれが覆された。小さなことだけれど、それが無性に嬉しく思える。
無性に足が軽い。
「あの店、今日はやってるかな……」
スマホを取り出し、行ってみたいと思っていたケーキ屋さんを検索する。ここのチーズケーキは気になっていた。甘さ控えめでコクが強いのだとか。
ウェブサイトにはお目当てのお店以外にも複数の店舗がピックアップされていて、つい目移りしてしまう。
意味もなくサイトを開いては閉じる。そうしている間に、本館の西口扉を通り抜けていた。日差しが眩しい。液晶画面に反射して目が痛かった。
目的地は今日もしっかりと営業していた。それが分かれば十分だ。役割を終えたスマホの電源を落とす。
この出入り口が自転車置き場に1番近い。残り数分で辿り着ける。僕を待っているのは型落ちのママチャリだ。普段は恥ずかしくて徒歩で通学しているけど、今日のような日にはやっぱり助かる。
おかげでなんとか営業時間内に辿り着けそうだ。
「ただ風がな……」
運転中の寒さを思い出して、マフラーを取り出すために鞄に手を突っ込んだ。
「──おいッ!」
頬を張るような声が前方から叩きつけられる。急なことで、思わず眉に力が入る。
顔を上げれば、こちらに近づいてくるクラスメイトの姿があった。
なんで彼がここにいるのだろう。まさか部活があると勘違いしたお茶目さんか?
「こんにちは新藤。今日は部活休みだよな?」
彼はハンドボール部に所属している。クラスの副担任である遠藤先生が顧問をしていて、よくクラスの教室内で部活の話をしていた。声が大きいせいで嫌でも耳に入る。覚えてしまった。
今日は例外なく部活は休止だ。ハンドボール部だってその筈。流石にそれくらいは分かっているだろう。
答えはすぐに返ってきた。彼は舌打ち混じりに言う。
「遠藤のヤツが勝手に手伝いを申し込んでたんだよ。おかげで約束してた予定がパァだッ! 峯岸も今日は来るのによぉ……最悪だろホントッ」
「ああ、そう……」
言葉の勢いが激しい。とにかくご立腹なのはよく分かった。けど音が煩くて話の内容が碌に入ってこない。とりあえず遠藤先生が原因なのは何とか理解できた。
今回のボランティアは内申点への加点がある。遠藤先生は良かれと思って彼を推薦したのだろう。新藤くんは先生のお気に入りだから。
何かと贔屓にしている所をよく見かけるのだ。可愛がられている側の新藤君としても、断りにくい頼みではあったのだろう。
「でもお前に会えたのはラッキーだったよ九重!マジで!」
「はぁ?」
嫌な予感がビンビンだ。僕が続きを口にするよりも、彼の方が早かった。
「ッ……」
ガシリと、無遠慮に肩を掴まれた。痛い。
さすがはハンドボール部と言うべきか、平均を軽く上回るだろう握力が僕の肩を軋ませてくる。逃す気はないようだ。
「頼むよ。九重しか頼れないんだ。代わりやってくれないか?」
もう少し頼み方を考えろ。
カケラも悪気のない、見下した顔をしやがって。
「とりあえず手を離してくれ……痛い」
「あ? 悪い悪い。そんな力は入れてないんだけどな」
嘘つけ。
「……それで、新藤はどんな仕事を振られたんだ?」
「つまんねぇ監視員だよ。教師がやれって話だよな!」
その教師の手が足りないから手伝いが必要なのでは? とは思ったが、それを言った所で考えを変えることはないだろう。
反論は頭の中だけで押し留めて、代わりに試験のスケジュール表を引っ張り出す。さっき目を通しておいてよかった。おかげで記憶は鮮明だ。
次の枠からとなると、4教科・5教科目が担当になる。つまり任期は試験の最後まで。時間にすると15時30分に終了となる。
残り3時間……。
お腹をさする。すっからかんだ。音こそしないが空腹は間違いない。
目先の食欲が頭を満たす。それにケーキだって買いに行きたい。お店は15時に閉まってしまう。ここで頷いたら余裕で間に合わない。
「あーと、今日は──」
──耀富。お前は──
コメカミがズキリと痛む。反射的に、口が閉じた。
ジクジクとした痛みが、頭の中に広がっていく。
「今日は、なんだよ?」
きょとんとした顔の新藤。言葉が詰まったことに対しての反応だろう。僕が断るだなんて思ってもいない筈だ。
中学の頃を合わせれば、お願い事をしてくるトップランカーなんだから。
「……はぁ」
手の甲で額を抑える。痛みは既に消えていて、影も形もなかった。
そのことに吐き気すら感じる。
「……分かった。試験官の手伝いだろ? やるよ」
「おッ、さッすが話が分かる!」
バシバシと肩を叩かれる。分かりやすくご機嫌だ。
達成感と期待に満ちた、見下した笑顔。
いつまでも見ていたい顔ではなかった。
「それで、約束の時間は大丈夫か? 急ぎなんだろ」
「おっとそうだな。あと頼んだわ!」
雑に手を振ってから、新藤はとんぼ返りしていく。
かと思えば足を止めて振り返った。
「教師には内緒にしとけよ」
そう圧を込めて念を押しながら、来たとき以上の速さで去っていく。これからの「遊び」がそれほど楽しみなのだろう。再び振り返ることはなかった。
それでいい。またあの顔を見なくて済む。
「またやってるよ。このバカは……」
どうしてこうなるのか。
上手いこと使われているだけなのは理解している。今だって感謝の言葉すらなかった。
手の甲をコメカミに添える。痛みはなくても、じんわりとした熱が残っている。
「……あつい」
原因にはなんとなく察しが付いていた。
変わらないといけないことも自覚している……つもりだ。
でも行動には起こせていない。心の内で文句を垂れているだけだ。その愚痴も、直接口に出す勇気もない。
一歩を踏み出しても良いのか。その先は明るいのか。そんな不安が口を開かなくさせる。心臓が握られたように痛い。首の辺りが硬くなって縮こまる。不調はゆっくりと、でも確かに強くなっていく。
キッカケが欲しかった。
失敗が気にもならなくなる。そんな強さをくれる魔法のようなキッカケさえあればと、自分の弱さを棚に上げて期待している。
情けない話だ。本当に情けなくて、腹立たしい。
「……これは、ダメだな」
瞳が濁っていることは、鏡を見なくても分かった。
──キーンコーン……
弱々しい鐘の音が、内に潜り込んでいた意識を引き上げる。
慌てて腕時計を確認する。今のチャイムは予鈴だ。もう時間がない。もたついている内にお昼が終わろうとしている。
「くそッ」
代わりになると言ってしまった以上、あと5分でさっきの教室に戻らないといけない。
僕が怒られるだけならまだしも、受験生に迷惑を掛ける訳にはいかなかった。
半開きのままだった鞄にマフラーを押し込み、代わりに黒縁眼鏡を取り出す。
それを掛けながら、早足に移動を開始する。
──グゥッ
腹の虫が鳴いている。
今更泣いたって遅い。
遅いんだ。




