第6話 微かな繋がり
引越し作業でサボっていました。すみません。
無事落ち着いたので今日から再開します。
──3月6日 水曜日 18時25分
──丸鶴武道館 弓道部 部室
カタッ、と乾いた音が鳴る。小気味のいい、木材同士がぶつかった音だ。
僕が手に持つ弓の先──弦輪を、壁のくぼみに当てがったことで響いた音だった。
何度か手に力を加えて、弦輪が滑らないことを確認する。問題ないことを目視してから弓の持ち手──弓幹に体重を掛けていく。弓は素直なもので、力の向きに合わせてしなやかに曲がってくれた。
腕に伝わる弾力のある反発。その力を片手で押さえ込んで、もう一方の手で緩んだ弦を素早く外す。
これで弓の解体は完了だ。
弓幹は一本の長い杖に姿を変えた。僕の身長を優に超えるのっぽ君だ。乾燥やひび割れを簡単にチェックしてから壁に立て掛ける。
弓幹と同じように緊張から解放された弦は、気が抜けてヘナヘナと萎れている。捩ないように気を付けながら弦巻に巻き取っていく。
弦巻は黒く艶やかなカラーリングで、2匹の赤い蝶が小さく装飾されている。弦とセットで、昨日卒業した先輩の置き土産だった。
最初の1巻きだけで、僕のモノとの違いがよく分かる。
弓の弦は意外と簡単に切れてしまう。冬なら特に。
乾燥した指にパキリとアカギレができるように、糸もふとした動きでブツリと千切れてしまう。杜撰な保管のせいで乾いていれば尚のことだ。
先輩の弦巻は油がじんわりと染み混んでいて、弦を優しく保護している。指の腹で軽く擦れば、弦の保湿が感じ取れた。
弦を巻き取る動きもスムーズだ。引っかかりは感じられない。艶やかで瑞々しかった。
椿油で浸した櫛で梳いた髪は、きっとこんな仕上がりになるのだろう。
この弦巻が丁寧に育てられたモノだと、使えば分かってしまう。あの先輩は欠かさずに手入れをしていたのだろう。
「流石に几帳面だ」
本当に良いものを貰ってしまった。改めてお礼の連絡を入れておこう。
昨日、電話で伝えたお礼の言葉は薄っぺらだったと今なら分かる。全然見合っていない。恥ずかしい限りだ。
「……」
喋る相手も周りには居ない。巻き取る作業だけを続けていく。弦の摩耗具合も確認してみるが、これならまだ持ちそうだ。
弓道において弦は消耗品だ。手入れをしていても急に切れることがある。だから弦を弓に張る前と外した後の確認は必須だ。でないと痛い目を見る。
文字通りの「痛い目」だ。
「……2度目は嫌だからな」
3ヶ月ほど前だ。弦が急に弾けたことがある。それも弓を構えていた時に。
バツンッとパンクしたような音が聞こえたかと思えば、顔に走る鋭い衝撃。布で素早く叩かれたような痛みが遅れて広がった。熱も後を追って湧き出し始める。
矢を前に飛ばす力がそのまま顔にぶつかったんだ。そりゃ痛い。容赦のない張り手だってまだ手心がありそうだ。
恥も外聞もなく、僕の目からは涙が出た。
意識外からの攻撃。あれは痛かった。
あれから弦のチャックは怠らない。大会中に起こった事例もあると聞いている。そういう意味でも、備えておいて損はない。
「よし、大丈夫」
点検し終えた道具を私物のスポーツバックに仕舞い込む。中学で野球をしていた頃に使っていた防水性のもので重宝している。
口を閉めたバックを肩に掛け、部員用の倉庫に向かう。
ガラリッ。砂埃のせいで取手がザラついた扉を開く。
中に人の姿は無い。角の隅で巣を張った蜘蛛が1匹、じっとこちらを見ているだけだ。
「……今日も僕が締め作業か」
バックを指定の位置において、代わりに竹箒を手に取る。
中庭と同居している形の弓道場は落ち葉などが簡単に入り込む。部室も倉庫も例に漏れずだ。毛の細かい箒よりもコチラの方が掃除は楽だった。
砂埃や枯葉を庭に押し出す。目に映る大物から処理していく。
薄く舞う砂埃。これがあるから一向に綺麗にならない。明日には元通りだ。いちいち塵取りに纏めていられない。どうせ月一で業者が清掃に入るのだから、人が歩く所だけが綺麗になっていればそれで良かった。
今まで文句を言われたことはない。きっとこれで問題ないのだろう。
掃き掃除は手早く終わった。3分も経っていない。
鶴高の弓道場は立派なものだ。大会に使用されることだってある。でも隣接する部室はかなり狭い。8畳あるかないか。一人暮らしの部屋レベルだ。
中央に庭が設置されているせいで、人が歩ける場所は端っこしかない。外観や雰囲気を重要視しすぎたせいで、なかなかに不憫な作りだった。
その分、掃除する範囲は狭い。この時ばかりは楽で良い。
竹箒を倉庫に戻す。彼とも随分長い付き合いになった。
「……手に馴染んできたな、この箒」
締め作業の機会は多かった。部内では間違いなくトップだろう。
他の部員が不真面目という訳ではない。弓道部の活動は18時までに終わるのが通例だ。部員の多くが塾の時間に背を追われているのが理由だった。彼らは気楽に居残りができる身分ではないのだ。
今頃、2年次の予習中だろうか。学業成績に傾倒する親を持つのは大変そうだ。
「うん。問題なし」
忘れ物チュックは終わった。部内倉庫の鍵を閉める。
足元に置かれた鉢植を軽く持ち上げて、その下に鍵を隠す。
これで締め作業は終了だ。
「もう少しやりたいけど……まぁ仕方ないか」
1人で的と向き合う時間は好きだ。正直練習し足りない。けど残れない理由があった。
この弓道場は19時以降に一般開放される。しばらくすればゾロゾロと大人達がやってくるだろう。
そこに混ざるのは、あまりしたくない。
荷物を取りに戻りながら、眉頭に寄った皺を揉みほぐす。
これから来る常連のことを思い出すと、どうしても気分が下がってしまう。
入部して1ヶ月ほどだった頃。まだ弓道を始めたばかりで、練習の機会に飢えていた。
だから混ざった。
大人の中に入った、中学上がりの子供が1人。その時向けられた目を忘れられない。
細められた冷たい目。邪魔者扱いを隠しもしない、色の無い瞳。
350円の入場料はそれだけ大きいのだろう。こっちは無料で好き勝手できる学生の身分だ。気に入らなくて当然。
2回目は諦めた。
だから遅くても18時45分までには撤収する。ギリギリまで残って顔を合わせるのも億劫だった。
それに電車の時間とも都合がいい。結果的にはこれで良かったのかも知れない。
「──ッしょ、と」
手早く荷物を抱えて、出口に向かう。
今日もあの場所に行くつもりだ。着いた頃には日も堕ちているだろうけど、問題ない。あそこの階段は24時間真っ暗だ。苦労は変わらない。
いつもの日課、というだけではなかった。
「……あの子、来るのか?」
瞳の濁った彼女。
見間違いで勘違いだったのかも知れない。もしかしたら、仲間を見つけたい僕の願望の可能性もある。
その場合、彼女が姿を見せることはないだろう。
「別にいいか」
再会の約束が破られて、代わりに秘密の場所が復活する。
それだけの話だ。
弓道場に向けて一礼。
「ありがとうございました」
今日も終わり。自覚すると肩が重くなる。
今日も何も、変わらなかった。
「ふぅ……」
入り口は扉を閉めるだけで、鍵は掛けない。最近になって方針が変更されたからだ。一般の利用者が「いちいち鍵を開けている時間がもったいない」とクレームを入れたらしい。
部室内には監視カメラがあるし、何か物がなくなれば犯人はすぐ分かる。私物がある倉庫には鍵が掛かっているから、防犯的に問題はないのだろう。たぶん。
学校側が決めたことだ。僕が心配するのは違うか。
「ッぅお!」
踏み出した足がズルリと前にズレる。裏にコマでも付いたような動きだった。片足が不恰好に伸びて、スケート初心者の失敗のようになってしまった。
足が伸びて股が痛い。
廊下は中庭に隣接しているせいで砂埃まみれ。気を抜くとこうして足を取られてしまう。今回はなんとか、タイル張りの床に叩きつけられるのは免れた。これがかなり痛いんだ。必ず内出血が起こる。
「何でこう、痛いことが多いかな……」
愚痴りながら慎重に態勢を立て直す。
一息ついてから、戦犯である右足を上げる。
じじ臭いスリッパの底。黒く燻み、中の繊維は薄皮1枚で押し留められている。
使い始めて2ヶ月目。もういつ穴が開いてもおかしくない。
「もう限界か」
弓道部のスリッパは短命だ。砂埃のせいで、1ヶ月もすれば底が禿げてツルツルになってしまう。コイツはまだもった方だ。
確か、以前まとめ買いしたセール品がまだ残っていた筈。
「メモっと」
スマホのスケジュールアプリを開く。替えのスリッパを持ってくる旨を書き留めながら帰宅を再開する。
ペタペタと、歩くたびに床を叩く音が響く。滑り止めや衝撃吸収の役割が全く熟せていない証拠だ。完全に寿命だった。
「……よし」
メモを終え、スマホをズボンのポケットに押し込む。
「ん?」
画面から顔を上げたタイミングで、女の子が1人見える。
腰まである赤みの強い茶髪を、淡い緑色のシュシュで緩いおさげに纏めている。
本館の扉を閉めているその後ろ姿には見覚えがあった。
彼女が振り向く。
「あっ」
コチラに気付いたようだ。パチリと瞬きの後、向けられたおっとりとした笑みは温かい。
早歩きで近づいてくる彼女。素早く辺りを見渡して、誰もいないことを確認してから僕も歩幅を広げる。
合流はすぐだった。
「お疲れ、九重くん。今日も練習?」
「少しだけどね。春原も居残り?」
「うん。私も少しだけ」
「そっか。お疲れさま」
春原 結海。同じ中学出身の子だ。1時期は隣の席だったこともあって、こうして顔を合わせた時には少し話をする。
友人、と言っていいかは分からない。彼女は誰にでも穏やかに接する所がある。一緒に遊ぶようなこともないし、友人未満と言ったところか。
「春原がこの時間に居るのは珍しいね。いつもはもっと早いでしょ?」
僕達の中学は学力至上主義だった。幼稚園からの中学までのエスカレート性で、その多くはここ鶴高に入学することを目指している。そんな環境だったから、彼女も例に漏れず塾通い。忙しい身だ。
中学に受験編入で入った外部生の僕とは違って、この時間に見かけるのは珍しかった。
「うーん……」
彼女は顎先に指を添えて、ゆっくりと首を傾げる。
背中のおさげも一緒に揺れた。
「そうかな? そうかも。来年は部長だからね。塾が遅い日はちょっとでも練習しときたいんだ」
「すごいな。来年の薙刀部は安泰か」
少なくとも、弓道部の部員に彼女のような殊勝さはない。
是非見習うことなくそのままでいて欲しい。1人で弓を引く時間は貴重なんだ。
「プレッシャーだからやめてよ、もう」
クスクス。軽い笑い声。トン、と肩を軽く押された。
自然と近づいた彼女の目元は穏やかだ。「ごめんごめん」と軽く謝罪すれば許してくれた。
「九重くんだって次の副部長なんだから、私のこと言えないでしょ?」
春原は軽く頬を膨らませて指摘する。
「いや、僕の場合は……」
来季の弓道部副部長に僕は認定されている。今の2年生、つまり次の3年生は大学入試が控える立場だ。新学校である鶴高の部活において、代替りは早め。この時期には次の役員を1年生から選出することは恒例だった。
でも部長じゃない所がミソだ。長は人気者。サブは便利屋。弓道部において、その力関係は顕著だった。
「オマケみたいなもんだよ。部長と副部長じゃ立場がね。同じだなんてとてもとても」
頭を低く下げて両手は高く上げる。王様を前にしたような大袈裟なジェスチャーで顔を下に向ける。急に浮上してきた不快感はこれで隠せる筈だ。
表情が見えないなら声と態度で判断するしかない。きっと冗談として受け止めてくれるだろう。
「そういうのやめてってば。もうっ!」
狙いはうまく行ったようだ。ただ残念ながら「よいしょポーズ」はお気に召さなかったようで、彼女は声音を少し鋭くさせていた。
コツンと、さっきよりも強めに肩を叩かれた。でもやっぱり痛くない。
声とのギャップが妙に面白い。
「ふはッ」
「普通に笑うよね! なんてヤツだッ」
「ごめッ、これが薙刀部の一撃だと思うとッ」
やばい。ツボに入りかけている。脇腹が攣りそうだ。
「本気で打とうか?」
「骨が折れるからやめて」
彼女の拳から圧を感じる。これ以上は痛い目を見そうだ。彼女の実家は有名な道場なのだとか。その一人娘の一撃を耐えられる自信はなかった。
気合いで笑いを引っ込める。反動で頬が引き攣った。久しぶりに笑ったせいもあってか、表情筋が痛い。
「いつッ……笑いすぎた」
頬を摩る僕を見ながら、彼女は小さくため息を吐く。
「普段は静かな感じなのに、どうして私の時だけそんななの?」
残念だと言いたいのだろうか。
「春原の纏う空気がそうさせるのかな」
「それ褒めてないよね?」
「いや、結構本気で褒めてる」
「え〜?」
腕を組んで首を傾げている。信じてはくれないらしい。
今言ったことは本心だ。彼女の空気感は本当に独特だった。つい吊られてしまう。
他人に冗談を言うなんて、普段はしないのに。
彼女は初めて会った時から変わらない。木漏れ日を思わせる穏やかな声をコロコロと遊ばせて、いつだって可愛げのある反応をするのだ。幼げと言っても良い。
この辺りがツボにハマるのだろう。他の女子生徒に可愛がられているのをよく見かける。中学の頃からずっとだった。
その気持ちはよく分かる。春原は声や性格に加えて、外見も柔らかい。
太ってはいない。薙刀部もちゃんとした運動部だ。球技のように激しくはないけど、武道系は体幹をしっかりと鍛える。インナーマッスルは、意外と代謝に大きく影響する筋肉だ。
それに彼女の実家だって、弛んだ体は許さないだろう。
彼女の体格は健康的だ。程よく肉が付いていて、未成熟とも大人ぽいとも見れる外見だった。そこに穏やかな所作と天然気味な性格が組み合わさって、彼女への印象は年下か年上のどちらかに割り振られることが多い。
年上だと感じた相手からは頼られ、年下だと感じた相手からはとことん甘やかされる。
彼女の周りはいつも不思議な空気を纏っていた。
だからつい、気が緩むのだろう。
人前で彼女と会わないようしている理由だった。
「あ、ごめん。咲苗ちゃん待たせてるんだった。もう行くね」
春原は思い出したようにそういうと、扉の近くに置かれた荷物を取りに戻る。
咲苗ちゃん。きっと薙刀部員の山吹のことだ。確かそんな名前だった。彼女達は昔からの親友なのだとか。
おおかた鍵閉めと教師への退出報告を分担して、後で合流する形を取ったのだろう。
親友との時間を邪魔する気にはなれない。
「引き止めてごめんな」
「私から声かけたんだから気にしないで! それじゃバイバイ!」
春原は素早く手を振りながらそう言って、小走りで駆け出して行った。
せめてもと、小さく手を振り返す。
「バイバイ。気をつけて」
僕の声が聞こえていたのか、彼女が振り返った。
「九重くんもね〜」と間延びした返事を一度してから、足早に去っていっく。
彼女の姿はすぐに見えなくなった。
「……」
「バイバイ」と手を振るのなんていつ以来だろう。高校生になってからは初めてだ。
今ばかりは弓道部に居残り組がいなくて助かった。流石にこの姿を見られるのは恥ずかしい。
でも、悪い気はしなかった。
「あの子は……」
濁った瞳の彼女。
彼女には、話せる相手はいるのだろうか。
友人は、いるのだろうか。
外見はかなり綺麗だった。間違いなくトップレベル。きっと周りが放っておかないだろう。
でも交流が多いことと、交流が深いことは別のように思える。
僕だって交流は多い方だ。でもその内訳は悲惨だった。桃瀬さんのように「頼ったら断られない便利屋」としてのモノばかり。とても友人とは言えないし、言いたくない。
接点は多くても単発が多い。1人につき1度か2度しか顔を合わせたことが無いなんてのもザラだ。積み重ねたことで生まれる友人関係には程遠い。「0」という数字すら見えてくる。
「それは別にいい」
例えそうであっても納得出来る。動じる理由はなかった。
「それよりも……」
彼女は、どうなのだろう。
僕と同じ濁った目をしていた彼女に、友人はいるのだろうか。
もし彼女が友人と戯れている姿を見ることができたなら、きっと僕は嬉しい。
濁った目のままでも、気を張らずに居られる可能性。それを知れるだけでも、救われた気持ちになれる筈だ。
「……」
彼女に友人がいて欲しいなと、そう思った。
──今日もいつものようにあの場所に行った。
彼女は、来なかった。
再会と、ついでにハンカチ返却の約束は無かったことになったらしい。洗濯して乾かすのには一晩あれば十分だろうから、そういうことだろう。
元々返してもらうつもりではなかった。何も問題はない。
彼女も思い直したのかもしれない。あんな場所で男と会うのは普通じゃないのだから。
濁った目は、きっと僕の勘違いだろう。
彼女は来なかったんだから。
そのことに、僕は安心していた。




