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第2話 約束

 



『……』


 僕たちは沈黙を選択した。

 他人と話すことも、言葉の準備もしていなかった。完全に気を抜いていたから、口を噤むことしかできない。

 あちらから声が届く様子もない。彼女も僕と同じ状況なのだろう。


 こんな所で人に会うとは思わなかった。それも、まさか女の子が来るとは。

 あの階段を登って来たことがまず信じられない。不気味としか言えない場所なのに、よく8階まで登ってきたものだ。

 秘密の場所の損失感よりも、彼女への興味が勝っていた。


 目を凝らす。入り口付近は壁が西陽を遮ってしまうせいで仄暗い。だから彼女の細かい造形を把握することはできなかった。どんな表情でこちらを見ているのかも、影に覆われてハッキリとしない。でも、シルエットから女性であることは分かる。丸みを帯びた体のラインには、ハッキリとしたメリハリがあった。


 自分が不躾な目を向けていることに、ふと気づく。これはマズイ。

 言い訳が許されるのであれば、不可抗力だと言わせて欲しい。姿の朧げな相手を前にして、情報を得ようとしただけなのだ。「セクハラ」の一言で切って捨てられる未来は勘弁だ。僕が勝てる要素がなくなってしまう。

 でも、僕の方から口を開くことはできなかった。彼女にとって、僕は警戒するべき相手の筈だ。こんな時間にこんな場所で、1人でいる。そんな相手がこちらを見ている。

 そんなの恐怖体験じゃないか。下手に声は掛けられない。変に刺激したくはなかった。


 とはいえ、目を向け続ける訳にもいかない。それはそれで不審だろうし、僕は既に目を逸らしたくなっている。反応の見えない相手を視界に入れているのは、怖いし気まず勝った。

 ゆっくりとした動きを意識しながら、小さく会釈だけをしてみる。敵じゃありませんよアピールだ。気位の高い肉食獣を前にした気分だった。

 焦ったいほどの動きで顔を上げる。コンクリートに制圧されていた視界に、彼女が映る。会釈を返してくれていた。探るような動きではあるけれど、返答があったのは事実。敵対関係にはならないだろう。警察沙汰はゴメンだった。


 一息付くと、後回しにしておいたものが浮上してくる。好奇心だ。

 どんな子なのか。何の為に、人の気配が感じられない場所に足を踏み入れたのか。

 その思いに蓋をして、体を反転させる。初対面の相手にそれを尋ねる外交スキルは僕にはない。何よりそろそろ気まずさがピークだ。彼女には悪いけれど、またあの階段を使ってお帰り頂くとしよう。


 彼女と再会することは無いだろう。不快感と戦って、体力を削りながら登った場所に、僕という先着がいたのだから。きっと、1人で居られる場所を探していたのだろうけれど、これでは何も得られなかったのと同じだ。完璧に徒労に終わっている。

 彼女と話さずに終わるのは、少し勿体無い気もする。似たような行動を取った者同士、何かしら通ずるモノがあるかもしれない。でも、それはもしもの可能性だ。この時間を奪われる可能性の方がもっと大きい。それは困る。いつもの日課だって、まだ消化出来ていないのに。


 新しい出会いの代わりに秘密の場所は守られた。それで良いじゃないか。


「あの……」

「……えッ?」


 話しかけてくるのか? 警戒心持った方がいいよ君絶対。

 肩をビクつかせながら振り返れば、思ったより近くに彼女が居たことに更に驚く。お互いに手を伸ばせば握手が出来てしまう距離に、彼女はいた。思わず一歩足を下げる。

 多少は距離が稼げた。でもすぐに潰される。彼女がもう一歩踏み込んできたからだ。その勢いのまま彼女は口を開く。


「あなたは、どうしてこんな所に?」

「それは君にも言える事だと思うけど」


 初手にブーメランを投げるのはやめて欲しい。つい咄嗟に、質問を質問を返すだなんてマナー違反を犯してしまったじゃないか。更に一歩足を下げる。

 彼女はその場に立ち止まったまま、視線を逸らす。


「私は……なんとなくです」


 嘘つけ。


「僕も、なんとなくかな」


 僕も嘘つきだった。彼女のことを言えなかった。

 嘘をつき合ったことを、たぶん彼女も察している。こんな場所、何か目的がなければ来ない。誰だって簡単に予想できることだ。

 階段は生理的に受け付けない空気感に包まれているし、ここまで登ってくるのは単純に疲れる。理由がないと途中で心が折れるだろう。お化け屋敷の方がまだ親切だ。


『……』


 再びの沈黙。

 僕が悪いのだろうか。やっぱり質問返しは悪手だった。でもこんなシチュエーションは初めてで、何を返すのが正解だなんて分かるわけもない。対人能力を僕に求めないでくれ。

 次は僕から質問をした方がいいのだろうか。初対面の女の子に何を聞けと?

 頭の中で続く言葉を探す。少しでも会話のヒントを得ようと忙しなく視点を切り替える。見たことのない学生服だ。高校生なのか中学生なのかも分からない。学歴とか気にする人だったら嫌だな。何処の学校とか聞き辛いから。鞄は持っていない。入り口にでも置いてきたのかすごく身軽だ。女子学生は小物を身につけているイメージがあったけれど、偏見だったようだ。イコール会話のヒントが見つからなかった。勘弁してくれ。


 彼女の首筋を、汗が一筋こぼれ落ちていった。


 3月にあの汗はちょっと気になる。ここはフロアの端っこ。風だってよく通る。天気こそ快晴だけれど、空気自体はまだ冷たさを帯びている。汗が熱を奪うのはすぐだろう。

 女の子は体を冷やさない方が良いなんてのは、よく聞く話だ。


「……ちょっと待ってくれ」


 返事は聞かずに床に置いていた鞄に手を伸ばす。鞄ごと持ち上げると埃が舞ってしまうから、腰を落として中身を探る。入れておいた上着が少し邪魔ではあったけれど、目的のものはすぐに見つかった。取り出して彼女に差し出す。


「これ、もし良かったらだけど使ってくれ」

「ハンカチ、ですか」


 彼女は僕の手に視線を落として、じっと見つめている。

 何の面白味のない、清潔さだけが取り柄の布地。持ち歩くようにしている予備のハンカチだった。安物だけれど、これくらいしか差し出せるものがない。


「使っていないから綺麗なヤツだけど、気になるなら断ってくれていい。その汗は、見てて心配になっただけだから」


 しゃがんだままハンカチを差し出したから、僕が見上げる形になる。彼女の顔がよく見えた。

 鎖骨辺りまで伸びた茶髪は、少し赤み掛かっている。その髪を額縁のようにして納められた顔はとても小さいのに、中にある優しげに垂れた瞳は溢れそうな程に大きかった。

 最初は咄嗟だったからちゃんと見ていなかったけれど、かなりの美少女だ。ウチの学校のトップ層といい勝負ができそうだ。ちょっと気になる所があるから、好みはかなり分かれそうだけれど。


「……」


 彼女はただジッとハンカチを見ている。手を伸ばすことも、首を横に振ることもしない。

 僕、別に変なこと言ってないよな。普通に気遣いの範疇だよな。

 手を引き戻した方がいいのと心配になってきたけれど、僕が実行に移す前に、彼女の方から手を伸ばしてくれる。

 静かに、彼女の指先がハンカチに触れる。そこに子猫の頭があるかのように、一度撫でた。ちょっとくすぐったい。


「では、ありがたくお借りします」

「ああ、うん」


 どうしても会話が拙くなってしまう。僕の外交力は本当に低い。漏れそうになるため息を堪えて、顔を外の景色に戻す。彼女がハンカチで汗を拭き始めたからだ。目のやり場に困ったとも言う。


『……』


 後ろから聞こえてくる、布同士が擦れる音。

 次は何を喋ろう。後ろの音は頭から弾き出しながら、締切間近の課題に向き合う。

 どうやら僕は「この先」を期待しているらしい。彼女に、どこか似たものを感じるからだろうか。

 彼女との出会いがキカッケになってくれるんじゃないか。そんな風に、無責任に期待しようとしている。恥ずべきことだ。自分本位で独りよがりな願いは「現実」で振り払うに限る。


 こうも沈黙が頻発する相手と、普通、仲良くなりたいと思うか?

 思わけがない。気まずく感じているのは僕だけじゃない筈だ。彼女も別に、楽しい会話を望んでいる訳ではないだろう。

 偶然気になる入口を見つけて、ちょうど時間があったから登ってみて、不思議と不快な環境も気にならなくて、なんとか扉を押し開く気力が残っていた。その先で奇遇にも会った相手だから、声を掛けてみたくなっただけに違いない。つまりは好奇心だ。

 最初の声掛けも、恐る恐るだったような気がしてきた。彼女のアクティブさが怖いもの見たさだと考えれば納得できなくも無い。


 いや、本当に納得できるのか?

 偶然に満ち満ちていないか、この現実。


「あの……」

「えッ……あ、ああ、何かな?」


 振り返るとすぐ側に彼女がいた。一歩分も離れていない。つい肩がビクついてしまう。

 デジャブかな?


「このハンカチ、ありがとうございます」


 キッチリと頭を下げてお礼を言いながら、ハンカチを差し出してくる。律儀だ。

 だから近くに来たのか。でもこの距離で頭を下げないで欲しい。接触事故は勘弁だ。

 僕は1歩、フェンス側に足を引いてから返答する。


「ハンカチはあげるよ。帰る時も汗かくだろうし、また使ってくれれば良い」

「いえ、ちゃんと返します」


 彼女は即答してから、また1歩近づいてくる。予想以上に力強い口調だった。頑固なのか真面目なのか。でも悪い気はしない。ただ距離感は気をつけて欲しい。

 僕はまた1歩足を引きながら答える。


「いや、流石に君が使ったものを僕が貰う訳にはいかないだろ?」


 踵に違和感。小さな窪みにハマった感覚があった。フェンス横にある浅い排水溝だ。後ろに下がることはもう出来ない。あと1歩詰め寄られるといよいよ逃げ場がない。なんだこの状況。僕はこのまま突き落とされるのか?


「……確かに、そうですね」


 心配は杞憂だったようだ。彼女は一度瞬きをした後に背筋を伸ばす。納得してくれたらしい。僕の危惧したもう1歩は踏み出さない。


「汚れたままお返しするのは、失礼でしたね」

「僕が気にしてるのは"そこ"ではないんだけど……」

「ではいったい?」

「いや、やっぱりなんでもないよ」


 コテンと首を傾げる彼女。僕は苦笑いを選択した。

 予感があった。もし否定を返していたら、きっと詰め寄られていた。僕に後退を許さずに、事細かい解説を求めてきた筈だ。勘弁してほしい。

 女の子の汗が染み込んだ布を受け取るのは世間態的にちょっと……だなんて、セクハラをわざわざ口にしたくはない。


「まぁ、本当に気にしないで。帰ったら捨てて良いから。同じのまだあるし」

「そんなことはしません。勿体無い」

「ああ、うん、ごめん」

「別に謝罪までしなくても……」

「だよね」


 ちょいちょい語気が強くなるのはなんなのだろうか。せめて表情を連動させて欲しい。本当に怒ってるように聞こえてしまう。思わず謝ってしまった。

 彼女はきっと家庭的なのだろう。僕も貧乏性だから物を大事にする気持ちは理解できる。でも今のはちょっとした気遣いとして受け流して欲しかった。


「まぁなら、気が済むまで使ってあげて。その方がハンカチも喜ぶだろうし」


 コテリ。彼女はさっきとは逆側に首を傾げる。


「いえ、ちゃんと返しますよ?」

「話戻ったね」


 また同じくだりを繰り返すのだろうか。もしそうなら僕は死ぬ。彼女は何かと詰め寄って来たがるし、僕は適切な距離感を保ちたがる。一歩後ろに地面はない。ここのフェンスじゃ僕の体重は支えられないだろう。最初の一歩でまっさかさま。間違いなく即死だ。なんて情けない死因だろう。


「あの、そうではなくて……」


 彼女は眉を少し寄せて、唇をモゴモゴと動かしている。

 表情筋、生きてたんだ。言葉の探索中である彼女をほっぽって、僕は内心で安心していた。

 つまり油断していた訳だ。彼女が箪笥の奥から引っ張り出してきた言葉は、僕の隙をついた。


「また会えた時に返します、って意味です」

「えっ……」


 警戒心はどこに? 僕たちって初対面だよね。


「もちろん、場所はここで」


 また来るのか? ここに? マジかこの子。


「私、今日は帰りますね。ハンカチありがとうございます」


 彼女の中で話は終わったのか、お礼と共に一礼されてしまった。


「どういたしまして……気をつけてね」


 今日は咄嗟の返事ばかりだ。最後に気遣いの言葉を添えるので精一杯だった。


「はい。お気遣いどうも」


 この気遣いは通じるのか。ハンカチの時は通じなかったのに。彼女の中で、線引きはどうなっているのだろうか。

 僕が答えを知る前に、彼女はあっさりと振り返ってしまう。そのまま歩き始めた。出入り口に向かっているようだし、本当に帰るようだ。

 そしてたぶん、本当にまた来るのだろう。いつになるかは分からないけれど、きっと近いうちに僕と彼女は再開する。この場所で。


 気がつけば声を掛けていた。


「次に会った時……」

「はい?」


 彼女は立ち止まって、こちらに振り向いた。

 埃まみれの薄汚れた部屋で、唯一綺麗な1本の道に立つ姿。隙間から差し込む夕陽が、薄く舞う塵と彼女の琥珀色の瞳を照らしていた。

 どうしてか、僕の目は痛みを訴えてくる。眼球の奥、握り込むような力を感じる。熱い。なのに不思議と涙の気配はない。むしろ乾いていくかのようだ。

 目に焼き付く、と言うのだろうか。初めての体験だった。


 一度瞬きをしてから続きを口にする。


「次に会った時、その時は自己紹介をしよう。お互いに」

「……ああ、そういえば」


 自分で言うまで気にもしていなかったけれど、僕たちはまだお互いの名前を知らなかった。ジョン・ドゥ(身元不明の男)ジェーン・ドゥ(身元不明の女)の状態だ。会話が成立していたことがむしろ不思議だった。


 偶然の接触。ただそれだけの関係。最初はそうだった。でも次を期待して良いのなら、自己紹介の約束くらいは許されるだろう。そんな欲が出た。

 今してしまっても良いのかもしれない。時間は掛からない。名前と補足情報を1つ。それだけで済む。30秒も必要ないだろう。

 でも、僕は先延ばしにした。今も此方を向いている「瞳」のせいだろうか。

 彼女の動きに吊られた塵は宙を舞い、夕陽を掠めてチラチラと瞬いている。影に飲まれたような彼女の姿と、その中で浮かぶ瞳。


 期待以上の確信が、僕にはあった。彼女はきっと頷く。


「それも、良いのかもしれませんね」


 一呼吸分の間を置いてから、彼女は微笑んだ。唇に力が入る程度の、形の変わらない笑み。

 約束は成った。もう「さよなら」は不要だろう。


「それじゃあ、また今度」

「はい、また今度」


 体を反転させた彼女は、そのまま振り返らずに退出した。


 ──ギィッ……ギギュッ


 扉の閉まる音が、1人に戻ったことを教えてくれる。

 埃が詰まっているのか、どこか湿った感覚を覚える窮屈そうな音。聞き慣れた音。

 その音が、嫌に大きく響いていた。












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