統一暦454年/創世救国暦9年、何も、変わらない
どさりと聖女の目の前の机の上に書類の束を置く。
聖女の執務室内には、目の前の机に座る聖女と、書類をもってきた神官の青年の二人だけだった。
青年も自らの執務机に移動して自分の見るべき書類を確認しようとしたとき、聖女から呼び止められる。
「パハロ。手を」
「……?」
女神教内で聖女と呼ばれている目の前の女性の言葉に、神官の青年は戸惑った顔をしながらも手を差し出す。
差し出された手を取った女性は、しばらくしてからその手を離した。
戸惑った顔をしていた青年は、女性に手を触れられてから段々としかめっ面に表情が変わっていたが、手を離されると大きなため息を吐いた。
そして、女性が何も言わずに手のひらを上にして差し出してきたのを見つめながら、青年は嫌そうに訊ねる。
「……なんですか」
「わかっているでしょう? 医師の診療録とケガしたときの証拠」
当たり前のことだとでもいうように平然と話す女性に、再び大きなため息を吐いた青年が返事をする。
「先に治さないで下さい。記録取ってなかったらどうするんですか」
青年はこれまでも怪我をしてきたことがあった。
聖女に仕える神官はこれまでは長老会の息のかかったものが務めてきたのだが、あるときからこの青年が務めるようになった。
長老会内のどの派閥にも属していなかった青年は、時折、派閥争いに巻き込まれて嫌がらせを受けることがあり、こうして怪我をすることがあるのだ。
「あなたが言わないのが悪いのよ。記録がないなら私が診療録、書くしかないかしらね……面倒だわ」
「……あとで渡します」
悪びれる様子もなく言ってのける女性に、しぶしぶといった風に嫌そうな顔をしながら言葉を返した青年はぼそりとつぶやいた。
「お優しい聖女サマだ」
「あら、嫌み?」
書類仕事に邪魔だからといつものベールを外しているため表情が見える中、片方の眉を上げて面白がるような顔で女性は返す。
「露悪的なのは、あなたの悪い癖ですよ」
「仕方ないわ。こんな時代だもの」
「あなたの場合は、それだけじゃないと思いますけど……」
やれやれといった風に首を振った青年は、聖女を補助する神官としての自身の仕事である書類の整理を再開した。
聖女と呼ばれている女性もまた自分の仕事である書類に目を通し始める。そうしながら、ふと雑談の続きであるように言葉を継いだ。
「そういえば、小鳥は元気かしら」
その言葉を受けた青年は仕事の手を止めずに言葉を返す。
「……ええ。おかげさまで。雛鳥も生まれましたよ」
「あら、そうなのね。…………雛が巣立つ頃には平和にしておきたいわね」
「……そう、ですね」
書類の先を見つめるように遠い目をした女性に、青年も目を伏せて答えた。
* * *
その日、神殿内で行われた定例の会議の場は、いつもと少しだけ雰囲気が違っていた。
レテス国への侵略やレテの民の虐殺を通して順調に領土を広げてきたディーシス国だったが、近年は武装したレテの民からの反撃も多くなっており、また、帝国の圧力もあり、条件付きで停戦の合意をせざるをえないことも出てきていた。
そんな状況は女神教の長老会内部での派閥争いにも影響を与えており、長老会内で最も力をもっているアギラ・カランサ率いる強硬派の最大派閥は、レテの民との停戦の合意を行ったことで、弱腰だと派閥の内外から批判を受けていた。
その批判の先頭に立っているのはアルコン・タバレスという、アギラとは別の強硬派である長老会幹部の一人だった。
これまでも二人は何かにつけて派閥争いをしてきたが、強硬派のものたちからの批判が大きくなってきた今を好機と考えたアルコンが、アギラへの批判を強めていた。
「カランサ殿も、そろそろ引退を考えられてもよいのでは? 今のような弱腰では帝国にも侮られましょう」
アルコンの言葉に、派閥を同じくするものたちが同意するようにうなずく。レテの民との停戦の合意に最後まで反対していたものたちだった。
「はっ。これだから若造が」
アギラはアルコンの言葉を鼻で笑い、吐き捨てた。頭髪は白く、会議の場の誰よりも上の年齢であることがわかる見た目だったが、その灰色の目から向けられる視線は鋭かった。
若造と侮られたアルコンは、柔和な表情の下に苛立ちを隠していたが、口元が引きつっていた。アギラよりも年齢は下だが、白髪まじりの暗い茶髪をしたその姿は会議の場の中では年上の方で、若造と呼ばれるような歳ではなかった。
「ふふ……そうね。引き際って大事よね」
突然口を開いた聖女に、会議に出席していたものたちの視線が集まる。
「おや。聖女様、どうされましたかな。会議中ですぞ」
貼り付けた笑みを浮かべ、アギラが口にした言葉は、言外に口を開くなという意味だった。
いつもは発言を求められたとき――形ばかりの聖女の承認の言葉を得るとき――しか発言しない、つまりは発言が許されていない聖女が自ら口を開いたことに、部屋の中には馬鹿にするような表情を浮かべたものもいた。
「ねえ。これ、見覚えあるかしら」
見下す視線が向けられていることを気にした様子もなく、いつものベール姿の聖女がそう言ってアギラに示したのは、黒い装丁の冊子のようなものだった。
「それ、は……」
訝し気な視線を向けたアギラは、何かに気付いたのか目を見開く。
「横領って罪になるの。知らなかったのかしら?」
「……何を言って」
脂汗を垂らしながら、それでも言い逃れをしようとしたアギラに、手元の冊子をパラパラとめくりながら聖女が話す。
「人望ないのね。使用人の方が快く渡してくれたわ……裏帳簿」
「そんなもの、でっちあげだ。そうだ、そうに決まってる……!」
怒りに顔を赤くして怒鳴るアギラだったが、それに声をかけたのはアルコンだった。
「まあまあ。調べれば、本当かどうかはわかりますよ」
敵対する派閥の中心人物の失脚の可能性を見て、その声には笑いが滲んでいた。
「あら、そんなのんきなこと、言っていていいのかしら」
聖女が今度はアルコンの方を向いて言う。
「……何か?」
その聖女の言葉に、アルコンが警戒したように聖女の方を向いた。
「帝国からの武器の横流しで、懐は潤ったかしら?」
「なっ……何のことだか……」
驚いたようにあげた声をすぐに落ち着かせたが、視線の動きがその動揺を示していた。
「ふふ……そうね。調べれば、本当かどうかはわかるものね」
聖女のその言葉とともに、アギラとアルコンは部屋に入ってきていた武装した兵士たちに拘束された。
口汚く罵りながら部屋の外へと連れ出されていく二人を見送ったあと、部屋の中には沈黙が落ちた。
「さて。これからは、長老会を、正しく運営していきましょう?」
聖女はぐるりと会議の場に出席している人々を見回した。
部屋の中にいる年配の男性たちは、ベールに隠され表情の見えない聖女を、あるものは怒ったように、あるものは不安そうに、そしてあるものは見下した視線で見返した。
「ええ、安心してください。今までと変わりませんよ」
聖女はベールの下で微笑んだ。
「あなた方は、私の言った通りにすればいいだけです。今までと、何も変わらないでしょう?」
穏やかに言う聖女の言葉は真実だった。
表向き、ディーシス国および女神教の方針の決定は聖女が下しているものであり、長老会はその補助をするのが役割だとされていた。
だが、実際は聖女に決定権はなく、「聖女」という存在は長老会が決めたことをディーシス国内外に告知するただの傀儡で、女神教の信者たちへの求心力となるための存在でしかなかった。
それが変わるのだとわかるのは、内部を知っているものだけだった。
対外的には何も変わらない。
長老会は、聖女が決めたことに従う。
そうすることでディーシス国および女神教の運営は行われてきたのだ。
――これまでも、これからも。
聖女の言葉に、反論の言葉は出てこない。
会議の場にいる誰もが、やましいことの一つや二つは身の内にあるのだ。
アギラやアルコンの二の舞にはなりたくないという保身が彼らの口を噤ませた。
そうして女神教内部の権力構造は、表向きは何も変わることなく、静かに変わったのだった。