統一暦455年、いつかの話
レテス国とディーシス国との和平条約の調印式における聖女の暗殺未遂のあと、ひと月が過ぎた。
聖女を銃撃した人物はすぐに取り押さえられた。
民衆の動揺――特に女神教の信者たちの動揺――は大きかったが、早いうちに神殿から聖女の容体が落ち着いたという情報が出されたことで、和平が後戻りするような空気にはならずに済んだようだった。
とはいえ、相変わらず和平に反対する派閥は両国に存在するため、レテス国側もディーシス国側も残されたものたちで対応を進めていた。
そんな中、回復したという聖女から、レテス国の代表として交渉していた黒髪の青年、ソラールに対して、面会の要望があった。
和平交渉は聖女とともにいた神官の青年と進めており、ソラールには、わざわざ聖女から面会を要望される心当たりはなかった。
ただ、暗殺未遂後に表に出ていない聖女の容体が気になっていたこともあり、ソラールはその申し出を受けて聖女の居る神殿を訪問することにした。
* * *
神殿の中を、先導する神官の案内に従って進む。案内されて入室した場所は寝室のようで、広い寝台の上にその姿があった。
聖女の顔はいつものようにベールで隠されており、その表情はうかがい知れない。
「起き上がっても大丈夫なのか」
寝台の上ではあるが、クッションを重ねたものを背にして起き上がっている姿を見て、思わず言葉が口をついて出た。
「ええ。もう痛みもほとんどないくらいで。本当はこんなところではなく、きちんとした方がよいのでしょうけど――」
「だーめーでーすー。この間まで意識のなかった人が何言ってるんですか。少しでも無理してる様子が見られたらすぐ止めますからね!」
これまでと変わらない様子の声で話す聖女の言葉の途中で、そばに控えていた女性が声を上げる。随分と親しい様子だ。
「ええ、ええ。わかっているわ。ほら、お客様の前だから、ね?」
「む……失礼しました」
聖女のなだめる声で客人の前だということを思い出したのか、まだ少し言い足りないようにしていた女性も身を引いて、そばに控える形に戻った。
「いや、こちらも負担をかけるつもりはないから、すぐに退出する」
ベール越しでは顔色すらもわからず、他人向けに整えられた声では体調の悪さも察せられない。
面会が可能な程度には回復したのだろうが、負担をかけるのは本意ではないため、できるだけ早く退出した方がよいだろう。
「……少し、こちらに来てくださるかしら」
女性と話していたときのやわらかな声とは違う、少し硬い声で発せられた言葉を受け、ソラールは寝台に近づく。
そばに控えていた女性が用意した椅子に座ると、寝台に身を起こした聖女と顔の高さがほとんど同じになった。
とはいえ、相変わらず聖女はベールを被っており、青年が聖女の表情を読み取ることはできそうにもない。
近づいた距離に、気付かれないように少しだけ警戒を強めた。
和平の話は一応の決着をしているし、お互い協力関係にあるとはいえ、まだすべてを信用するには不安定な情勢であることに変わりはなかった。
「……頬に触れてもいいかしら?」
予期しないことを言われ、知らず眉を寄せる。
「……いい、が……」
何をするつもりなのかはわからないが、武器を隠し持っていることもなさそうな手を見て、了承の言葉を返す。
ゆったりとした服の袖が落ち、細い手首が見える。そのまま近づいて来る腕を視線で追っていると、少し冷たい手が左頬に触れた。
「治せなくて、ごめんなさい……」
かすかな声で落とされた言葉はすぐ近くにいた青年にしか聞こえなかっただろう。
「は……?」
言われた言葉と、自分の身に起きている出来事の理解できなさに、ソラールは思わずかすれた声を漏らしていた。
青年の理解が追いつく前に、聖女の腕から力が抜け、ぱたりと寝台の上に落ちる。
「おい」
「聖女様!?」
その様子を見て青年が声をかけるのと、異常を察知した女性が声を上げて駆け寄ってくるのは同時だった。
意識を失ったらしい聖女に女性が声をかける。近くに控えていた医師が診察するために近づいて来たのと場所を交代するようにソラールは寝台から離れた。
そのまま青年は退出する機会を逸してしまい、医師の診察を受ける聖女の様子を見守る。
「眠っておられるだけですな。まだ体力も戻っておられないですし、疲れてしまったのでしょう」
しばらくして医師が告げた診断に女性が安堵の吐息を漏らした。
意識のない聖女に真意を問うこともできず、起きるまで居座るわけにもいかず、女性と医師に退出する旨を伝えると青年はその場を去った。
* * *
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「ああ。いや……」
聖女のいる部屋から辞して、待たせていた仲間の青年であるベルドールと合流したあと、帰路につく中で尋ねられ、眼帯の青年は常とは違って少しぼんやりした様子で言葉を返した。
「ふーん。聖女サマ、大丈夫そうだったのか? 今あの人がいなくなるとまずいだろ」
和平交渉が一定の成果を上げたとはいえ、聖女を失ったなら、双方の民がどのような行動に出るかはわからない。場合によっては状況が後戻りして、再び戦いが始まる可能性もあった。
声を落として聞かれた言葉に返事をする。
「ああ、それは、おそらく、大丈夫……一応、起き上がることはできるようになっていたから」
最後に意識を失うようにして眠ってしまったことについては口をつぐむ。
「じゃあ、なんでそんな顔してんだ?」
訝し気な様子で問われ、ソラールは言葉に詰まる。
「いや……なんでもない。俺の、個人的な話だ」
「ふーん……? まあ、何かあったら言えよ。お前がいなくなるのも、コトだからな」
かぶりを振って苦い顔をしたソラールに、ベルドールは深く追及することはしなかった。
「俺の代わりはいくらでもいるだろ」
「まーたそういうこと言う。いつも言ってるだろ――」
そうして二人の青年は、軽口を言い合いながら、彼らの組織の拠点へと戻っていった。
* * *
自室に一人、青年は鏡と向き合っていた。
鏡には見慣れた姿の自分――左眼に眼帯を身に着けた青年の姿が映っていた。
そうして意を決したように眼帯を外す。
眼帯を外した下の左眼には、何年も見慣れた傷痕が――どこにもなかった。
そして、ゆっくりと左眼を開く。
色を失っていたはずの眼球が、右目と揃いの色で見返してくる。
「どういう、ことだ……」
しかめられた顔と鏡越しに見つめ合う。
違和感が生じたのは、聖女の手が頬に添えられたとき。
だが、そのすぐあとに聖女が意識を失ってしまったため、問いただすことも、自らの状態を確かめることもできずにいた。
そうしてようやく落ち着いて確認した今、随分と昔に負った傷が、そんなものは最初からなかったかのように完全に治っていたのだ。
先日の和平条約の調印のとき、倒れていく聖女のベールがめくれて、初めて目にした彼女の顔を――その、はちみつ色の瞳を思い出す。
「やっぱり――」
かすれた声は、その名前を音にすることはなかった。
* * *
聖女との面会からしばらく日々が過ぎた。
聖女の暗殺未遂によって双方の民衆の間には緊張が続いていたが、その聖女の容体について回復したとの報が伝えられたことで、町の雰囲気は多少の落ち着きを見せていた。
とはいえ、小競り合いのようなものは今もなおなくなることはなく、ソラールはそのような諍いへの対応と和平後の国づくりに向けた活動に追われていた。
おそらく聖女の力によってだろう、元のように見えるようになった左眼は、これまで通り眼帯で隠していた。
治療した聖女の意図は読めないままだったが、急に眼帯を外せばどうやって治療したのか詮索されることは目に見えていたため、今まで通りを装うことにしたのだ。
長く片目で生活していたため、眼帯のままであっても不便ということはない。
変わったことと言えば、両目が見える状態での自分の身体の動きの確認をするために、人目を避けて自主訓練の時間をつくるようになったくらいだった。
そうして日々を過ごしていたある日、聖女との再びの面会の機会が訪れた。
国としてのやり取りは聖女の側近として動いていた神官の青年が担っており、聖女が倒れている間も問題なく話は進んでいた。
今度の面会は、国同士の話ではなく、個人的なものだった。
左眼を治療した真意と――もう一つ、確認したいことがあった。
聖女が意識を取り戻してから時間も経ち、体調も良くはなっているらしいが、無理をさせないようにと聖女の住む建物内で会うこととなった。
* * *
その日は、聖女に会いに行くのは個人的な用事であるため、同行者はベルドールだけだった。
一人でもよいと言ったのだが、最低限の護衛を兼ねてということと、ソラールと聖女が話している間にベルドールと神官の青年とでついでに今後の話を進めておくという話だった。
「――っ」
出迎えた聖女は、ソラールの姿を見て、かすかに反応をしたようだった。
ソラールはそれに気付いていることを顔に出さないようにして、決まりきった挨拶を交わしながら、さりげなく様子を観察していた。
部屋に通されたあと、人払いを頼み、二人きりになる。
聖女の側近である神官の青年とそばに控えていた女性は渋い顔をしていたが、聖女からもそう指示されたことで、ようやく部屋から出て行った。
応接室のような場所で会うのはおそらく初めてだった。低いテーブル越しに互いにソファーに座り、向かい合う。
「眼の治療、ありがとう」
「……なんのことでしょう」
前置きもせずに礼を言うと、聖女は硬い声で知らないふりをするつもりのようだった。
だが、静かな部屋では、礼の言葉を言ったときに、はっと息を呑む音は聞こえていた。心当たりがあることを明らかに示す挙動だった。
「元通り見えるようになったんだが、急に外すと変な勘繰りを受けるだろうから、しばらくはこれもつけたままのつもりだ」
変わらず左眼に着けたままの眼帯を示しながら話す。
「眼帯で覚えられているんだろうな。外してしまえば、簡単な変装で街の視察もできるようになったし、便利に使っている」
「そうですか。なら、よかったです……あ、いえ、別に私が治療したからということではなく、一般的によかったと、そういう意味で……」
軽くおどけたように話せば、聖女はほっと安堵の息を吐き、安心したような言葉を返した。相変わらず自分の関与は否定するつもりのようで、下手なごまかしを重ねてはいたが。
今日会ったときに戸惑った様子だったのは、治療したはずの相手が眼帯の姿のままだったからで、話した内容で無事に治療できていたことが確認できたから安堵したのだろう。
聖女の言動からソラールはそう考えたが、あくまでも聖女が知らないふりをするつもりのようなので、ひとまずはその下手なごまかしに付き合うことにした。今日の本題はもう一つの方なのだから。
「ベールを取ってもらえないだろうか」
すっと雰囲気を変え、真剣な声で頼む。
「これは聖女として、外せません」
背筋を伸ばしなおした聖女に硬い声で返される。
「今は他に人もいない。俺は、聖女ではない、あんたと話がしたい」
「……」
じっと睨むように見つめ続けると、聖女はしばらく沈黙していたが、やがて根負けしたようにゆっくりとベールを外した。髪を覆う衣装もともに外され、亜麻色の髪が背中に落ちる。
それを見て、ようやくしっかりと顔を確認した青年は、知らず詰めていた息を吐く。
「やっぱり……」
漏らされた声を聞いて、聖女が唇を噛む。
「ルーナ、だよな……?」
「……はい」
青年の視線から逃げるようにルーナと呼ばれた聖女はうつむく。
「生きて、たんだな……」
幼少期、青年が少年だったころに住んでいた家の近くで、時折一緒に遊んでいた少女だった。
ずっと昔に、少女が神殿に引き取られてからは、その消息を聞くこともなかった。
聖女は常にベールを身に着けていたため顔を見ることはなく、青年が聖女と少女を結び付けて考えたのはつい最近で、今ようやく確認できたのだが、少女の方はいつから気付いていたのだろうか。
「っ……ごめん、なさいっ……」
彼女のはちみつ色の瞳は潤み、涙が今にもこぼれそうなのを必死に声を震わせて耐えていた。膝の上では両手で握りしめた服がしわになっている。
「なんで謝るんだ?」
心底不思議そうに青年が問いかけるが、涙をこらえるルーナは唇を引き結んだまま、ただ首を横に振る。
「なあ。そっちに行ってもいいか?」
青年に尋ねられたルーナは息を飲み込むと、覚悟を決めたように一度だけ大きくうなずいた。
うつむく彼女のところまで歩いて行き、その座るソファーの横に隣り合って座る。
二、三人は座れるくらいの広さのあるソファーは、二人で座っても十分余裕があった。
息を詰め、身体を震わせて、必死に涙をこらえている彼女の顔を隠すように、胸元に抱き寄せた。
「大丈夫だ。泣いてもいいんだ」
とんとんとなだめるように背を軽くたたく。
「ちがっ……ちがうのっ……」
身を固くした彼女は泣きそうになりながら――それでもまだ泣いてはいないのだろう――、首を振って震えた声で話す。
「わた、私のせいでっ……おじさんも、おばさんもっ……みんなっ……」
「ああ……」
少女も育ったあの村は、少女が神殿に引き取られていなくなってしばらくしたあと、村ごと滅ぼされたのだった。――女神教の信者と、その指示を受けた帝国の傭兵たちによって。
そのことに思い当たって思わず声を漏らすと、顔を伏せている彼女の肩がびくりと跳ねる。
「ルーナのせいじゃないだろ」
そのころはまだ聖女として公表されてもいなかったはずだ。それに、あのころは自分だって子どもだったのだ。自分よりも年下だった少女に、いったい何ができただろうか。
「ちがっ……だって、わたしがっ……」
「うん。一人でがんばったな」
「っ……」
ようやく泣けたのか、肩を震わせる彼女の髪を撫でる。
嗚咽すら漏らさないように息をひそめて泣く姿に、彼女がずっと置かれてきたであろう状況に思いを巡らせる。
まだ、すべてが解決したわけではない。
青年にも、彼女にも、やらなければならないことは山積みだ。
けれど、今だけは、ずっと泣けなかったであろう彼女の、泣く場所でありたかった。