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「お帰りなさいリナ。お使いご苦労様」
アボット靴店店主の妻マニエは、店のドアの鐘の音で振り返り、一人娘のリナの姿に微笑んだ。
「遅かったわね。納品書を渡す時になにかあったの?」
まだ九つの娘は歳のわりに賢く聡明で、大人の様な考えをする。そんな娘が何か粗相をするとは思えなかったが、まだまだ子供なのだと忘れてはいけない。
時々、専門家でも知らないような毒草の知識をぽつりとつぶやくが、幼い少女なのだ。
「ううん、ちょっと寄り道してただけ」
その言葉にほっと胸を撫で下ろした。
娘は赤褐色の髪と、ありきたりな青い瞳、凡庸な容姿の親から生まれた事が、信じられないくらいに美しい少女だった。
誘拐騒ぎは未遂を入れたら片手では足りないし、豪商が是非養女にと申し出て来た事もある。しかも多額の支援金を提示されてだ。
体のいい人身売買だ。娘をどうするつもりかなんて、想像するだけで悍ましい。
そういった過去があったので、娘の周辺には敏感になっていた。
それを娘に伝えて、いたずらに怖がらせ行動を束縛する様な事はしたくない。しかし常に側に置いておきたい。そんな葛藤が夫と共に常にあった。
「またフランク学園を覗いていたの?あそこはお貴族様しか入れない学校よ、近づき過ぎたらお叱りを受けるかもしれないわ」
子供が羨望の眼差しで覗いている分には、叱責を受ける事は無いと思うが、何が高貴な方々の逆鱗に触れるか分からない。
「うん、気を付けるね」
リナは弱弱しく頷くと伝票をマニエに渡し、店の奥の住居へ入って行った。
「ん?リナ帰ってきたのか?」
作業部屋にいた夫のニールが、気配を感じて顔を出した。若いながら自分の工房を持つ腕利きの職人で、中流階級以上の富裕層に人気がある職人だ。
「ええ、でも何だか元気が無いの、何かあったのかしら…」
「また不審者にでも会ったのかな。あの子は賢くて優しいから、僕達に心配かけまいとするからね」
手伝いを頼んだニールが後悔を滲ませて言う。
だからと言って、特別扱いは出来ない。
他の子供は、大人と変わらない仕事を既にしている、リナはちょっとしたお使い程度。
他所は他所、うちはうちと言ってはいられない。特別扱いを羨んだ子供達に妬まれて、リナが爪弾きにされてしまうし、今から庶民達の輪に加わり関係を築いていかなければ、将来リナ本人が困るのだ。
「フランク学園を覗いていたみたいなの、そこで何かあったのかしら?咲いているお花が奇麗だって、時間があれば覗きに行ってるの。鬱陶しがられて、怒られてきたのかも…」
「また学園に?うーん…、やっぱり、煌びやかな世界に女の子は憧れるものなのかな。でも僕達の身分や財力じゃ、あの子を入学させてあげる事は出来ないし…」
フランク学園は王侯貴族と、例外的に国に認められた特権階級しか入学できない。必要な入学金、その他の学費寄付金は、庶民の何十年分の年収に及ぶと聞く。どうあがいてもリナが入学する事は出来なかった。
「職業学校に入れば、そんなの考える暇もないだろうけど」
貴族がフランク学園に入学する様に、庶民にも専用の学校がある。
私立公立とあるが、それぞれの職業に特化した学校で、職業にもよるが最低二年制。公立なら殆ど学費はかからない。
このガロリア王国は、他国に比べて庶民の識字率が高いとされている。
将来の生活の為に、職業学校に入る事が義務みたいなものだからだ。通っていないと、どういう事だと眉を顰められる程だ。
しかしそれは、生きるのに必要な限られた知識で、狭く深く専門的で、高等教育と呼べるものではなかった。
「まだ具体的に、何処の学校に通うか話し合ってなかったね。来年度の入学手続きもそろそろだし、今夜あたりにでも話し合おうか」
「そうね。具体的な事を決めれば、憧れにも諦めがつくでしょう。庶民はどうやったってお姫様にはなれないのだから」
少し寂し気にマニエが言う。娘の願いは叶えてやりたいが、それが出来ないもどかしさからだろう。
妻の肩をそっと抱き、ニールは優しく微笑んで慰めた。
一方、前世の記憶を思い出し、内心大混乱で自宅に帰って来たリナは、自室に引き籠りこれからの事を考えていた。
まず、ゲームのシナリオ通りなら、リナは学園に入学し、魅力溢れる貴公子達とあれやこれやの恋愛劇を繰り広げる。
もし何も知らない状態で、自分が乙女ゲームの世界に転生したと気づいたら、それに単純に心躍らせていたかもしれない。
しかし、アウリス達の現状を知ってしまった今、そんな呑気な考えは消え失せた。
転生したヒロインは破滅する。これは鉄板なのである。(当社比)
だがしかしだ。幸か不幸か、いや幸だ。リナは前世の記憶を思い出した。今から対策はいくらでも練れる。
親不孝にも若くして他界してしまって、前世の両親には申し訳ない。友人と同じ大学行きたかったとか、やっぱり将来は薬剤師かなとか。色々と思いは込み上げてくるが、目下の問題を解決しなければ、悲嘆にも暮れない。
「でも、フランク学園に入らなければ、乙ゲー状態にならない…」
だが、これもしかしだ。
『恋する貴公子達』では庶民であり、腕利きの靴職人を父に持つとは言え、フランク学園に入学できる様な家庭ではないアボット家のリナ。
リナの才能に目を掛けた父の顧客が、自分が後見人になるので学園に入らないかともちかけ、高等部から編入する事になるのだ。
この足長おじさんだが、父親の腕を気に入り親方の元から早くに独立させ、工房を持つにあたり多額の出資をしてくれた恩人で、父はちょっと裕福な商人だと思っているが、正体は、人望と容姿に恵まれたリナを使い、我が国は庶民に至るまで高等教育を施していると言う、プロパガンダに利用しようと考えた、宰相閣下なのである。
もう、迷惑以上のなにものでも無い。
そう言うのは他所でやってくれ。
私はモルモットか。サラブレットの中に、驢馬を放り込んだらどうなるか分からんのか。所詮お貴族様には、庶民の苦労が想像出来ないのか。
じゃあ断れよと言う話だが、正体を明かした貴族の言葉は、庶民にとって提案でなく命令である。
むこうは、国の役にも立てて自分も高等教育を学べる、WIN―WINだろ?と思うかもしれない。だが、こっちにとっては圧力をたっっっっぷりかけられ、結果が出せなければどんな罰を与えられるのか、戦々恐々とする日々が始まるだけである。
何せ宰相様だからね。権力有り余ってるからね。因みに攻略対象の父親でもある。そう、ここで一つのフラグが上がるのだ。
「宰相はリナの才能を見込んで後見人になった。て、事は…」
リナは、はっと瞳を輝かせた。
「アホの子になれば…!」
………。
…ごめんなさい違うんです。チョットした現実逃避です。父と宰相の関係を壊さずに、うまく断る方法を思いつかなかっただけです。
ご近所で評判の良い子の私が、突然アホになったら両親を心配させる所か、悪魔憑きを疑われ、精神病院送りにされて治療と言う名の監禁、が冗談でもなくあり得るご時世なので却下である。私もアホな子にできればなりたくない。
ふと前世の名前、『薬子』を思い出した。両親が薬剤師で、大学の薬学部で出会った縁から娘に薬子と名付けた。自分達を結び付けてくれて、薬の様に人の役に立ち、多くの人に必要とされる様にと。
大きくなってから自分の名前を検索してみたら、『藤原薬子・悪女・薬子の変』とヒットして、更に教科書にまで載っていると知り、えっ私歴史に残る悪女と同名なの?苗字も植物系統で何か似てるし、と驚いた。
理系の両親は日本史に疎かった…。いや両親は悪くない。この名前はちゃんと両親の愛が籠っている、素晴らしい名前なのだ。全国の薬子代表として勝手に宣誓します。
しかし今の状況からみると、まるで断罪・破滅ルートを予言していたかの様な名付けで笑えない。
と、また現実逃避はさておき。
このままシナリオ通りに行くなら、フランク学園に入学するのは十五歳。リナは現在九歳でもう直ぐ十歳。
いつ入学の打診が来るか分からないが、来年は職業学校入学の年。数年で学校を卒業し就職されてしまっては、宰相も再び学校に通えとは言いにくいだろう。
職業学校へは入学せず、フランク学園編入へ向けて、準備に専念して欲しいとでも言われるのか?
と、すると。明日明後日にやって来る可能性だってある。
そうなると私は十五歳まで何をするんだ?家の手伝い?同じ年頃の皆が将来の為に、手に職を付けている時に無職と言う名の家事手伝い、だと?
いや、家事手伝いも立派な仕事だ、うん。でも職人の娘で、「あらリナちゃん、今日もお仕事を手伝って偉いわね~。将来は靴屋の女将さんかしら~」なんて言われてきた私が、そんな状態になったら、ご近所の噂話の主題となってしまう。アボット靴店の風評被害になってしまう。
「もしかしたら、私が知らないだけで、お父さん達がもう、話をつけているかも…」
フランク学園に編入したとしても、転生を自覚して既に恋愛を諦めたリナと、心を入れ替えて只の美しい完璧令嬢となったアウリスとでは、身分違いの恋の三角関係何て起こる確率の方が低い。リナなんて見向きもされないのでは?
「でも、何かあれよ。えーと…、ゲームの強制力とか、うんたらかんたら的な?そういうので気持ちが変化して、断罪破滅ルートまっしぐらの暴挙に出るかも…」
転生と言う不可思議な現象を体験した身としては、絶対ないとは言い切れない。
宰相閣下の目に留まらず、穏便に職業学校に入学し、父の様な職人と結婚して、慎ましく暮らしていきたい。
「宰相の目に留まらない…、目立たない…」
リナは自分の桃色の髪を摘み、うーんと唸った。
「リナ?裏で何かしていたの?」
靴店兼自宅の裏には狭い中庭と井戸がある。帰って来て元気のなかった様子の娘は、暫くして井戸の辺りで何かやっている様子だった。
マニエはいつの間にか自室に戻っていたリナに、夕食の準備が出来たと声を掛けに来ていた。
「ごはん出来たけど、調子が悪いならパン粥でも作ろうか?」
「大丈夫、今行く」
思っていたよりも明るい声にマニエは安心する。踵を返そうとすると扉が開く。
「リナ⁈その頭はどうしたの?」
マニエは自室から出て来たリナの姿に仰天した。
桃色の美しかった髪は、まるで錆の様な色になり、歪な三つ編みのおさげになっている。春の空の様な青い瞳は、分厚い前髪ですっかり隠されていた。
「どうしたの一体⁈髪も濡れているじゃない!」
「染めた後の髪粉を洗い流して、まだ乾いてないから」
「染めた⁈」
マニエが素っ頓狂な叫びを上げると、何事かとニールが慌ててやって来た。
「マニエ、リナに何か…」
絶句している妻を見て、変わり果てた娘を見て、ニールもまた言葉を失った。
まるで花の妖精の化身の様な娘が、一見しては誰かも判別できない容姿になってしまっている。無理もなかった。
「どっ、どどどどどどうしたんだリナっ!」
挙動不審のお手本の様に、ニールが尋ねる。マニエは夫のその様子を見て少し落ちつきを取り戻した。
「そうよ、急にどうしたの?嫌な事でもあったの?」
その両親を前に、リナは小さく呼吸をすると、覚悟を込めた瞳を向けた。
「うん。ちゃんと話すから居間にいかない?」




