1 未知との遭遇
ここから5章開幕です。
続きが気になるようでしたら、ブクマ評価などしてもらえると、嬉しいです。
それでは、お楽しみください。
「―――うっ、あ、ああああっ?」
手つかずの大自然の中、情けない悲鳴が響く。
ただでさえ不慣れな外歩きの上、そこは人の手の入らない自然のままの悪路。流は見事に足を滑らせ、緩やかな傾斜を転げ落ちた。
途中、大樹の根元に引っかかり、ようやく止まった。
「うう……」
誰に見られるわけでもないが、愚にもつかない失敗がどこまでも恥ずかしい。
と、そこで気づく。仰向けに転がる流の視界いっぱいに、抜けるような青空が広がっていた。
「……すごいな、これは」
初めて目に知る青空に、感嘆の吐息が漏れる。眩むような日の光に目を慣らすのも惜しみ、ただただ一心に空を眺める。夢中になるあまり、いつの間にか身体の痛みを忘れていた。
身体を起こして木の幹に背を預け、草と泥に塗れた体操着を軽く叩く。どうやら手のひらを擦り剥いたらしい。小さな擦り傷に血が滲んでいた。ずきずき、と脈打つたびに軽く痛む。
考えずにはいられなかった。
もしも、滲む鮮血がこのまま止まらなければ……。
もしも、もっと大きな怪我をしたならば……。
「……はは。何だ、簡単じゃねえか」
込み上げてくる笑みとともに確信を得た。
これなら死ねる。いつでもどこでも、時と場所を選ばずに。そう実感して、ようやく自由が戻った気がした。死を身近に置くことで、生きる活力が身体に漲ってくる。
流は今ようやく、生まれながらにして手放していたものの大きさを実感した。
死中に活を見つけるとは、まさにこのことを指すのかも知れない。人間が人間らしく生きるためには、死が不可欠なのだ。
流はやおら立ち上がり、歩き始めた。
晴天の下、日の光に包まれながら、風の音を聞き、草地に足を取られ、時に無様に転びながら、それでも前へ。前へ。
口元は自然と綻び、足取りは軽やかだった。
「おかしなもんだけど、生きてるって感じがする」
不思議と、どこまでだって行けそうな気がした。
――――――――――――――――………………………
数時間が経った。西の空に朱が差し始める中、流は疲労困憊のあまり巨木の根元に座り込んでいた。
「はあ……、はあ……」
苦しげな喘鳴を繰り返し、今にも死にそうな顔を上げて、来た道を振り返る。
樹冠の向こうに高く聳える外壁がはっきりと見て取れた。
「まだあんな近くにあるのか……」
流が一日歩き詰めで進んだのは、十キロにも満たない距離だった。
飲み水も食料もなく、探索に必要な装備の類もない。草地を切り開くのは、その辺で拾った手頃な木の棒のみ。
悪路に加えて合間を這う蔦草は、まさに自然のトラップだ。足に絡んでバランスを崩し、こちらの体力をじわじわ削る。
獣道すら存在しない前人未踏の大地を歩き続けるには、あらゆる準備が足りていなかった。
最も、そんなことは最初から分かりきっていたことだ。
「戻るしかないのか……」
疲労で身体が重くなってきた時点で、既にそうすべきだという考えが脳裏をちらついていた。言うまでもなく、その場の感情に任せて大それたことをすべきではなかったのだ。
「失敗したな……」と弱音を漏らした時点で、流の根負けだった。 それでも、その場で引き返していればまだ立派だったかも知れない。
せめてあと少しだけ、目前に見えるあの木のところまで……。
そんな具合にこんなところまでずるずると怠惰を引きずって歩いてきてしまったとあっては、思慮の浅い間抜けとしか言いようがなかった。
「ええい! 喧しいな、くそ……」
脳内を飛び交う自己嫌悪を振り払い、流は重い腰を持ち上げた。
心にきっぱり区切りをつけて、身体の向きを変える。
「仕方がない、仕方ないんだ。また来ればいい。それが分かっただけでも一歩前進だ」
そうやって自分を誤魔化す他なかった。
既に日没が近い。闇が支配する夜の恐怖は、昨日目の当たりにしたばかりだ。そのただ中を歩くなど、想像しただけで肝が冷える。
喉は焼けつくように渇き、腹の虫は一向に収まらない。足の裏の痺れは我慢できないほど痛み、一歩踏み出すごとに頭部をハンマーで叩かれているようだ。
これだけ悪条件が揃っているのに、対処の手段は一つもない。お手上げだった。
いずれにせよ、壁門を開ける術は流の手の中にあるのだ。いつでも好きな時に『都市』の外へ出て、また戻ることができる。そうやって回数を重ねて、少しずつできることを調べていけばいい。
『都市』へ帰ったら、まずはそのための準備を整えよう。
何を用意すればいいだろうか、と早くも次の計画を立て始める。身体は疲労困憊していても、気力は有り余るほどだ。
「必要なものは水と食料、あとは乗り物だけど。まともに動かせるものがあるか、分からないな……。これも調べてみるか」
日中あちらこちらに興味を移し迷いながら進んだ道を、今は真っ直ぐ外壁を目指して歩いていく。
向かう先がはっきりしていれば、道を見失うことはない。やはり何よりも必要なのは、はっきりとした目的地だと思い知る。
「外のこと、どうにかして調べられないもんかな……」
コネクターならば絶対に何か知っていると、流は踏んでいた。
壁門の開閉について隠していたのと同じだ。質問の仕方を変えてやれば、思わぬ話が飛び出てくるに違いない。同じ方法で出し抜かれないようにするには、やはりこちらが主導権を取らなくては。
「何でもいいから武器になりそうなものがあれば……」
右手に握った木の棒を見る。
例えばこれが鉄製で、刃の如く鋭く磨がれていたのであれば立派な刀だ。アンドロイドの薄い外装など、一刀両断にできる。
他にも、戦争時代に使われていた武器の類は、つい先日歴史資料館で目にしてきた。魅力的なのはやはり戦車や大砲。流でも扱えそうなものとすれば、ライフルなんかの銃火器類だ。
「そういうのはやっぱり、文明を見つけないとなさそうだな」
それでは、さらに時代を溯ればどうだろうか。
原始時代の武器といえば石器やこん棒。作りがよりシンプルな分、手に入りやすい。材料なら周りに腐るほどある。生い茂る樹木から太い枝を一本拝借し、手頃な大きさに削り出すくらいは、きっとできるに違いない。
しかし、ただ振り回すだけでは頑丈な調度品と大差ない。殺傷能力を高めるために、もうひと工夫欲しいと頭を捻る。
「手頃そうなのは槍か……。細かい作り方はもう一回資料館に見に行くとして。材料は長い棒と尖った石、もしくは動物の歯か爪があれば……」
はたと立ち止まる。
「そういえば何も見ないな……。おかしくないか……?」
流は怪訝そうに表情を一変させ、警戒心を顕わに再度辺りを見回した。
木々の梢に、暮れゆく空に、茂みの奥に、生き物の気配がまるで存在しない。これだけ無防備にふらついている人間を襲いに来る猛獣は、影も形も見なかった。
地球の環境が今現在どう変化を遂げているのか、流には知りようもなかったが、少なくとも人間が長時間行動できることは間違いない。
であれば、小動物一匹目にしないのはあまりに奇妙だ。
「全部が夜行性ってわけないだろうし……。コネクターたちが何かしているのか?」
その可能性は十分に考えられる。あれだけ外の危険性を訴えていた彼らだ。外敵への対策を怠っているとは考えられない。おそらく、野生動物を寄せ付けない超音波か何かを発しているのだろう。
「それにしたって何にもいないっていうのは、さすがに―――……っ!」
木々が作り出す影の中に生き物の姿を捉えたのは、その時だった。
それは、人の形をしていた。
二本の足で立ち、まっすぐ伸びた背筋の頂点に頭部がある。顔貌からして恐らく女性。年齢は若い。背はすらりと高く、二メートル近くある。
身体は地味な色の布地で覆われ、露出する四肢は枝のように細くありながら、しなやかな筋肉の隆起が見て取れた。
「……」
彼女はアーモンド形の大きな瞳で、木陰の中からこちらをじっと観察していた。