薔薇の国の夢の話
夢を、見た。
それは、とても、とても、幸せな夢だった。
市場は活気に満ちていて、この国の豊かさを現していた。
先日行われたこの国の皇太子の結婚式の影響か、市場にはどことなく浮かれた雰囲気が漂っている。
帰国する前にこの国の人々の生活がみたい、そんな我儘が許されたのも、元婚約者であったこの国の皇太子である彼の優しさのおかげだろう。
否、贖罪の一つというべきか。
この薔薇の美しい国の皇太子妃になるために遠路はるばるきたはずが、初めて会う婚約者からでた第一声は「この婚約はなかったことにしてほしい」だった。
彼には愛する人がいて、彼女でなければ駄目なのだと言う。
結局、彼の熱意と祖国の打算の結果、大芝居をうって彼と彼の想い人が結婚したのが一週間前。
彼も彼女も幸せそうだった。
だから、この結果に不満なんてないし、これでよかったと思っている。
隣を歩くのは、案内役兼護衛としてつけられた皇太子の近衛騎士だ。
先日の大芝居の共犯者でもある彼は、皇太子が心許せる数少ない一人なのだろう。
ただの町娘として過ごしたいと言った私の希望通り、案内役兼護衛として彼だけがつけられた。
それは、ただの思いつきだった。
結婚式の日の翌日。
この国にいる間の滞在先として提供されている離宮に、彼は皇太子と皇太子妃となった彼女からの礼状をもって訪れた。
皇太子と皇太子妃からの礼状には、心からのお礼と、直接礼に出向くことができない謝罪が書かれていた。
結婚式は終わったとはいえ、帰国する貴賓への挨拶等、当面の間は公務で忙しいはずだ。
それでも、こうして丁寧な礼状を送ってくる皇太子夫妻だからこそ、皆が彼らに協力したのだ。
何かあれば遠慮なく言ってほしいと書いてあった文面をみて、ふと思いついたことを実行してみたくなった。
皇太子夫妻から是との返事を持ってきた彼は、明らかに不満そうな顔をしていた。
「なぜ、町におりたいなどと」
苦々しげに口にだされたのは、巻き込まれる彼からしてみればしごくもっともなことだ。
場所を憚る話ではなかったけれど、楽しい話でもないので彼を庭に誘う。
今が盛りと咲き誇る薔薇の中、ゆったりと歩きながら独り言のように説明をする。
「わたくしはおそらく、もう二度と他国の土を踏むことはないでしょう」
怪訝そうな顔をしている彼に、そして自分に言い聞かせるために、あらためて説明する。
「双方合意の上、という体裁をとったところで、わたくしが婚約を解消された、瑕疵のある王女であることに変わりはありません。
おまけに、今回の一件で皇太子殿下とわたくしの友情を国同士の繋がりとしたのです。その象徴であるわたくしが、他国に嫁いでは意味がありません。」
「あんたはそれでいいのか」
憮然となげかけられた問いに、驚きと、少しおいて苦笑がもれる。
「いいも何も、わたくしはあの国のものですもの」
はっとした時には、すでに人にぶつかりそうになっていた。
危ない、と思って目を瞑ったが、怖れてた衝撃はこなかった。
変わりに、手と肩に、自分とは違う感覚があった。
「危ない」
抱きしめられる格好になっていて、思わずドキッとする。
「ありがとう」
そう言って離れようとする。
けれど、なぜか手は離されなかった。
「あんた一人じゃ危ないから」
戸惑うが、確かにその通りなので頷く。
右手が熱い。顔も熱くなっている。
けれど、それには気づかないふりをした。
市場はとても賑わっていた。
たくさんの店がでて、とても楽しそうだ。
「たくさん店がでてるのね」
そう言って、キョロキョロとみまわす。
どれも見たことのない店ばかりで、どうしようか悩んでしまう。
「悩んでいるなら、あこはどうだ?」
そう言って声をかけられたのは、揚げ菓子の店だった。
小さな子たちが買っていて、とても美味しそうだ。
頷き返すと、すぐにそこへ向かう。
「はいよ!」
そう言って出されたのは、どうみても一人用だった。
戸惑って彼を見上げると、自分はいいと首をふる。
じゃあ、と言って食べてみる。
「美味しい…!」
今まで食べたことのない味だった。
揚げたてが、こんなにおいしいなんて。
「こんなに美味しいの、初めてですわ!」
そう言って、夢中でかぶりつく。
彼は、笑っていた。
「ここについてるぞ」
そう言って、口のすぐそばをぬぐってくれる。
その時の顔が、とても、とても優しくて。
恥ずかしさで下を向く。
そこに、戸惑いを隠して。
綺麗な商品を売っている店だった。
そこによりたいと言うと、否やと返ってくる。
「なぜですの?」
そう聞いても、「なんでもだ」としか返ってこない。
すこし不満に思い、後ろを振り返る。
すると、少しあだっぽく着飾った女が、男と一緒に入っていくところがみえた。
どちらかというとガサツそうに見える彼の、本来の生真面目さを垣間見て、ふと笑い声がもれた。
その笑い声に憮然とした顔をされて、それが面白くてまた笑ってしまった。
そろそろ帰ろうか、ということになった。
自分で思っていた以上に楽しんでいたらしい。
まだ少し時間は早いが、もう充分だった。
一歩を踏み出そうとした時、腕をとられた。
「あんたは、あの日、自分はあの国のものだと言った」
戸惑いが生まれる。
確かに言った。
たが、それがどうしたというのだろう?
距離が近い。
そう思うのに、彼を押し返そうとする腕に力が入らない。
「だが、今は違う。今は、ただの、町娘だ」
心が震える。
だったら、今だけは。
こんな風に愛を交わしてもいいでしょう?
触れ合った唇が熱い。
そうだ。本当は憧れていた。
ただの町娘のように、自由に誰かを愛することを。
愛されることを。
ずっとずっと、夢見ていた。
そう、これは夢。
夢は、置いていくのだ。
この、薔薇の国の優しいの騎士の元へ。