1 クラスメート
6月、雨の降っている日だった。
教室の中にいる莉乃には、降り続けている雨の音よりも、騒いでいるクラスメートの声の方がよく耳に届いた。締め切られた窓の向こうではグラウンドに形のない雨が降っていた。
一学期中間テストが終わり、気分転換に、と行われた席替えが、莉乃にとって好機となった。くじ引きによって勝ち取った席は窓側の後ろから2番目。別に、授業を安眠音楽にしたい訳でもないし、それすら無視してグラウンドを眺めたい訳でもない。隅っこというのが、なんとなく落ち着く。まあ後ろに1人いるので厳密に隅っこ、とは言えないのだが。
このところ続いている雨の湿気のせいでうまくまとまらない髪を弄りながら、莉乃は勝ち取った席で文庫本を読んでいた。音楽にサビがあるように、物語にも盛り上がるところがある。ちょうどそこにさしかかった辺りで、莉乃の背中がつつかれた。当たっただけかと思ったがどうやらそうではないらしい。
莉乃は少し前に買って貰った栞を文庫本に挟み、そっと机に置くと、後ろを向いた。
窓側の一番後ろという競争率の高い場所を幸運によって手に入れた彼女がそこにいる。
「どうかした?」
「消しゴム、落としちゃったの。取ってくれない?」
彼女が指差す方向を見ると、ちょうど莉乃の足下に片側だけ角の使われていない消しゴムが転がっていた。
莉乃が消しゴムを取ろうと屈んだ瞬間、莉乃の背中で金属が弾けるような音がした。
「むっ!?」
莉乃が変な声を出して机の下で一瞬だけ暴れた。後ろの席の彼女の筆箱が床に落ちて中身が散乱する。
「あっ、ごめんなさい!」
つい先ほど発生したとある事情により、急に起き上がることのできなくなった莉乃は、本来の目的である消しゴムの回収だけ遂行して、ゆっくりと起き上がった。
後ろの席の彼女は慌てて筆箱の中身を広い集めている。
莉乃は後ろの席の彼女が筆箱の中身を広い集めるのを待ってから、消しゴムを差し出した。
「はい、これ」
「あ、ありがとう」
後ろの席の彼女は差し出された消しゴムを百人一首の大会みたいに奪い取ると、それを筆箱にしまって、教室を出て行ってしまった。
取り残された莉乃は、まず彼女の名前を確認した。それから、何事もなかったかのように、文庫本を開いた。一瞬だけ、雨の音が教室の騒がしさを越えたような気がした。
この日、莉乃の下着のホックは、他ならぬ莉乃によって破壊された。
◇◇◇
「先輩、上に着るもの持ってます!?」
良平がカレーパンを買っていつもの空き教室に行くと、珍しく莉乃が先に来ていて、腰をかがめたようなおかしな姿勢で迫ってきた。
「どした、寒いのか?」
「いや、そうじゃない、ですけど、そういうことで!」
6月に入ったということは、実は衣替えの期間なのである。ブレザーを着なくてはならない期間から、シャツだけであったり、指定の半袖シャツでの生活が許されるようになるのだ。
良平も莉乃も、長袖のシャツだけだった。雨が運んできたのは湿気と温度だった。
「まあ、分かった。持ってくる」
なぜか追い出されるように空き教室を出た良平は、なぜ莉乃が上着を欲しがっているのか考えながら自分の教室に戻った。
お昼時の教室はいつもの通り騒がしくて、耳を済ませば学校中の噂話が聞こえてくるようだった。良平はそれらを避けて自分の席まで行くと、カバンに押し込まれた紺色のカーディガンを取り出して、一度時間を確認した。お昼休みはまだ長い。
良平はカレーパンとカーディガンを抱えると、小走りで教室を出た。その背中を見つめる視線にも気付かないまま。
空き教室に戻ると、莉乃はやはりおかしな体制でお弁当をついばんでいた。一口が小さい割に箸が速いので尚そう見える。
「はい、カーディガン」
「どうもです」
莉乃はそれを受け取ると、ボタンが付いているにも関わらず頭からそれを被って着用した。
しばらくもぞもぞとしてから、ようやくカーディガンは収まるところに収まった。しかし当然の事ながら、袖が大分余っている。袖の太さも莉乃の腕に比べると大きいので、捲ろうにも滑って落ちてきてしまう。袖に関しては、ちびっ子博士のようにしなくてはならない。これが萌え袖云々なんて莉乃は知らない。
「じゃあ先輩、これありがとうございます。お昼ご飯『お一人で』ごゆっくりー」
莉乃はそのまま軽い足取りで教室を出て行った。
莉乃にもようやくと言っていいのか、友達が出来たらしく、良平がこの空き教室でお一人様で購買のパンをかじっているのを、皮肉るようになってきた。しかし良平はそれを気にする様子もなく、積まれた机たちの開いた場所に腰掛けた。
「残念ながら、お一人様じゃないんだよな」
良平がパンの袋を開けると、奥の暗がりから人影が1つ、こちらにやってきた。
しかしそれは生きる者のそれではなく、既に、命の終わった者の、未練を残して終わっていった者の、魂の欠片であろう。良平は、そんな者たちとここで何度も会っている。
「いやー、危なかったっしょ。あの子視える子っしょ?危ない危ない」
それにしては軽い口調で話す彼女の肌は褐色で、眩しいばかりの金色の髪。長く煌びやかなまつげ、様々な装飾が施された長い爪が意味するのは、いわゆる『ギャル』である。
「別にいいじゃないか。見られたって」
「ああいうタイプの子ってアタシらみたいなの好きじゃないっしょ」
長い爪を全く気にする様子もなく、恐らく通常の3倍くらい盛られた髪を弄っている。
「好感度とか気にするのな」
「そりゃあねぇ、大事っしょ」
良平は、カレーパンを食べ終えると少し真面目な表情に戻った。
「で、名前は」
「覚えてなーい」
「なっ」
「でもね、やりたいことは、ちゃーんと覚えてるから」