3 公園とカッターナイフ
莉乃は、昨日と同じ空き教室を訪ねた。
案の定、淳も良平もそこにいた。
「いつもここでお昼食べてるんですか」
「そうだけど」
「友達いないんですか」
「いるわ」
「へぇ」
昨日とあまり変わらないやりとりを交わして、莉乃はイスに座った。それからあまり大きくない弁当箱を広げて「いただきます」と言ってからおかずを口に運んだ。
「淳さん、昨日はありがとうございました。凄い怒られましたけど」
「そうだったんすか。それはお気の毒っす……でも自分ホント何もしてないっすよ?」
良平はぽかんとしていた。
「何、いつの間に仲良くなったの」
莉乃は無視した。淳はいつも通りへらへらしている。
「ところで淳さん、未練、思い出せないんですか?」
「申し訳ないっす……」
「えっと、淳さん、これ、聞いていいかわからないんですけど……」
「交通事故っす」
莉乃の声を遮るように淳が言った。変に莉乃に気を使わせたくなかったのだ。この時の淳はへらへらしていなかった。
「何か他に、憶えていることってありますか」
「自分、確か……そう!猫っす!猫を助けて事故ったっす!」
「猫か……」
良平は呟いてカレーパンを食べきった。お茶を飲んで口の中のカレーを流して、何かを考え始めた。
「猫に、復讐?」
「穏やかじゃないですね」
そんなはずないと慌てる淳に、良平が「冗談だよ」というと淳はほっとしてその場に座り込んだ。莉乃は玉子焼きを咀嚼している。
「まぁ、猫と関連づけて考えるなら、猫にお礼を言ってもらうってのが筋かな」
「自分が助けた猫、色とか全然覚えてないんすよねぇ」
良平も莉乃もうーんと唸ってしまった。その時ちょうど昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴った。
「じゃあ、猫を探してみることにする」
「校門で待ち合わせでいいですか?」
「協力してくれんの?」
「淳さんには借りがありますからね」
良平は「じゃあそれで」と言って先に教室を出た。自分の教室に戻るところで木村に会った。
「また空き教室?……まさかお前昨日のおっぱい大きい子と不純異性交遊を……痛ってぇ!!」
「蹴るよ?」
「蹴ってから言うなよ!ていうか加減しろよ!」
「お前が変なこと言うからだろ」
「いやでもさぁ……順序が逆なんだよなぁ……はー痛い痛い」
木村は蹴られた足を庇いながら教室に戻った。
◇◇◇
「あの、センパイ……」
良平はこの頃ある疑問を抱えていた。本人としては最近、もしかしたらそうかもしれないと思い始めていたのだが、認めてしまっては自分が自分でいられなくなる気がして、そう思うのを防いでいたのだが、もう無理だった。
「その、前に道で見かけてからずっと気になっちゃってて……」
目の前にいるのはさっき初めて会った後輩と思われる女子生徒。と、その仲間たち2人。
「好きです!付き合って下さい!」
自分は割とモテるらしい。
「あ、えっと、気持ちは嬉しいんだけど、ごめんね」
後輩と思われる女子生徒は目に涙を溜め、後ろの2人に抱きついた。仲間たち2人は、子どもをあやすみたいに女子生徒を慰めている。
用があるからと足早にその場を去った良平だが、これから莉乃と猫を探しに行くのだという事を知られたらと思いぞっとした。
校門の脇に莉乃はいて、文庫本を読んでいた。
「ごめん、待たせた」
「いえ、それより先輩、随分おモテになるんですね」
「見てたのか」
莉乃は文庫本をしまいながら小声で「羨ましい」と言った。良平には聞こえなかった。
「じゃあ、淳さんと初めて会った場所に行きましょうか」
校門を抜けて歩道のある幅の広い道に出る。良平が淳と初めてあったのはここより少し行った先の歩道だった。淳はこの辺りで事故に遭い、病院に搬送され、後に死亡が確認されたらしい。
複雑でもないし、開けた道である事から車を運転していた運転手の責任が一時問われたが、目撃者等の証言から、被害者である淳が一方的に道に飛び出したものとなり、事態は収束に向かったようである。
良平たちのいる側の反対側の歩道、つまり事故のあった場所には、いくつか花束が置かれていた。そこに、灰色のパーカーを着た人が立っていた。
顔が見えた訳でもないのに知り合いなような気がして、良平は駆け寄ろうとしたが、目の前を車が通ったせいでそれは直ぐには叶わなかった。しかし車を見送った時にはその人はいなかった。
「相良、今向こうに誰かいなかったか?」
「いました?」
「気のせいなら、いいんだけど……」
車通りを見計らって、事故現場に向かったけど、やっぱり灰色のパーカーの人はいなかった。目当ての猫もそこにはいなかった。淳もどこかで猫を探しているらしいが、どの猫かわからないなら望みは薄いだろう。
シャン
一瞬鈴の音がした。莉乃が振り返ると、そこに猫がいた。
「あ、猫」
良平が振り返るより先に猫はどこかに向かって走り出した。
「追いかけます」
良平は声なく頷いて、莉乃について走った。
「先輩、次の、かど、あっ、公園……多分、そこ、です……」
莉乃が先にバテたので、良平は若干呆れながらも莉乃の言葉を信じて公園に向かった。しかし猫はどこにもいなかった。遅れて莉乃も来た。
「先輩、猫、います……?」
「いや、見当たらないな。それどころか人っ子一人いない……相良大丈夫か?ちょっと休もうか」
「すみ、ません……」
良平は莉乃をベンチに座らせて、自販機に走った。
ふと公園の入り口に目をやると、猫がこちらを見ていた。さっきの猫だった。
莉乃が立ち上がろうとしたその時だった。ベンチの後ろから黒い手が伸びた。黒い手は莉乃の口を抑えると、ベンチを乗り越え、莉乃を押し倒して馬乗りになった。
すぐに気がついた。昨日と同じ人だ。
「ん!んんっ!」
持てる全ての力で拒絶した。こいつに適わなくたって、良平が気づいてくれる。そう願った。
「おい!莉乃から離れろっ!」
莉乃の願いが届かなくたって、良平は気づいただろう。
良平は莉乃に覆い被さっていた誰かを引き剥がすと、そのまま腹部に蹴りを入れた。
「……ッ!」
黒い誰かは後ずさりすると、ポケットからカッターを取り出して限界まで刃を出した。
「卑怯者はそういうの持ってるんだな……」
しかし黒い誰かは良平ではなく莉乃を捉えていた。
すぐにそれに気づいた良平は、素早く莉乃を庇うように立ちふさがった。
だいぶ離れている筈なのに、黒い誰かの息づかいが聞こえる。狂気に満ちたその眼球は充血していて、今にも飛び出しそうだった。
黒い誰かが最初の一歩を踏み出した瞬間、入り口の方で声がした。
「猫なんてどこにも……あっ君たち!なにしてるんだ!」
先に気づいたのは入り口側に向かって黒い誰かと対峙していた良平だった。何かを探してここまで来たと思われる警官がそこにいて、黒い誰かが振り向くや否や組み伏せてしまった。
「君ね、カッターはダメだよ、カッターは」
事情を説明された警官は、トランシーバーに向かって何か言った。すぐにパトカーが来て、黒い誰かを連行していった。詳しい話は後日という事らしい。
ひとまずの危機を乗り越えた2人は、少し冷めた缶の紅茶を飲みながらベンチに座った。
「先輩、さっき私のこと名前で呼びました?」
「あ、マジ?ごめん」
「別にいいですよ。それに、莉乃でいいです」
「じゃあそうするよ。莉乃」
「はい先輩」
豆腐屋のラッパの音が聞こえた。
莉乃は良平の制服を掴んで涙を零した。ただ、良平に顔を見られたくなかったから良平の胸に顔を埋めた。
良平は一瞬困ったような顔をして両手を上げたが、やがて莉乃の頭を撫でた。良平には姉と妹がいたから、こういうとき男は黙っていればいいことは分かっていた。
「凄く…怖かったです……」
「……」
莉乃は、誰にも聞こえないように「ちょっとかっこよかったですよ」と呟いた。
その時、良平の視界を猫が横切った。
「あ、猫」
莉乃も振り返ると、確かにそこに猫がいた。
猫はじっと2人を観察していた。莉乃が立ち上がって猫に寄ろうとすると、猫はどこかに向かって歩き始めた。さっきまでみたいに走るのではなく、時折こちらを振り返っては、ついてきているかどうか確かめるような素振りを見せた。
莉乃も良平も、前を歩く猫について行った。
猫はある木の下で足を止めた。白い小さな花のついた木だった。