10 彼女の答え
今思えば、とんでもないことをしでかしたのだと思う。
前回のバレンタインデー。たった一人の、親しくもなかったクラスメートの為に、夜の学校に侵入して、チョコレートを作って、涙を流して。彼女が生きていたか死んでいたなんて関係無く、彼女は彼女だった。
暗い廊下を、ゆっくりと歩いていく。
良平一人になってしまった為に、急ぐことよりも見つからない事を優先したのだ。もし見つかれば、今までのように切り抜けられるか分からない。
幽霊に関係のある場所と言われると、あの空き教室が一番最初に思い当たる。学校内に出現した幽霊は、必ずあの教室で留まった。あの場所はおそらく、幽霊を引き寄せる何かがあるのだ。
耳と目をこれまでに無い程に鋭敏に働かせ、ゆっくりとその場所に向かおうとしているときだった。
窓から見える屋上に、少女の影を見つけた。弱い月明かりに照らされ、それが誰であるかさえわかる程に鮮明に、それは良平の瞳に映りこんだ。
少女は、葉山紗英その人だった。
人質に取られた直後、あの割れた窓からグラウンドに飛び降りて逃げ出したのかと思ったが、非常階段を使って屋上まできたのだろう。
紗英は立ったままどこかを見つめていた。しかしそれは、普通の人が見れば、の話だ。紗英が見つめていたのは、もう一人の少女。陰になってよく見えないが、それが生きた人間でないことは良平は直感的に感じ取った。相手はおそらく幽霊だ。
だとすればなぜ紗英もまでもそこにいるのか。紗英にも幽霊が見えたのか?万が一そうだったとしても、それが今屋上にいる理由にはならない。
その真相を確かめる為、良平は反対の校舎に向かい、屋上へ上がっていった。
◇◇◇
屋上への扉は堅く閉ざされている。はずだった。いつも通りなら、金属のチェーンが巻かれていて、びくともしない扉が、今日に限っては、すきま風が冷たいくらいには扉が開いていた。
工具によって断ち切られたであろうチェーンの欠片たちが、辺りに散らばっていた。
氷の塊みたいに冷たい金属のドアノブに手をかけ、人が通れるくらいまでドアを解放する。
強く冷たい風は、触れた物を一瞬で凍り付かせる。良平がそれ以上進んではいけない気がしたのは、そんな冷たい風のせいかもしれない。
目線の先に捉えた紗英は、屋上の高いフェンスに手をかけ、凍える様子もなく風に吹かれていた。
「紗英。こんなところにいたのか」
「うん」
歯切れが悪い。
良平は知っていた。こういうとき、大概の人は隠し事をしていて、そのうちの9割くらいは良平には言えないことなのだ。
しかし今回は違った。
紗英は、重たい何かを飲み込むように、無理やり次の言葉を紡いでいく。
「ばかみたい。みんな、死んじゃうのに」
風が紗英の言葉を連れ去っていく。良平は立ち止まったまま、紗英の声を必死に捕まえる。
「すべて計画どおり。私たちの勝ち。貴方が介入したのは、ほんの誤差にすぎなかった」
「紗英、何を言って……」
良平の言葉が、紗英に届いているのは確かだった。しかし紗英はそれを受け取らない。良平とは、話したくないのだ。良平とは、話してはいけないのだ。
「方舟計画。神話になぞらえた名前。すべての人類の魂を肉体から解放し、真の姿にする計画」
紗英が話すそれは、渡辺の言っていた、大いなる目的、に近い気がして、良平の中で何かが繋がり始めた。
「計画のプロセスに、私はある人を上げた」
良平と紗英の間に吹く風が、紗英の涙をさらっていく。
「利害の一致っていうのかしら。私も彼女もあなたが欲しかった。だから、あの事故を起こした」
トラック事故の事だろう。あの事故は紗英が提案したものなのか。
もう、引き下がれないような気がした。
彼女は今、真実を、全てを話そうとしている。弁解も、擁護も、理解も、同情も、求めてなんていないのだ。ただ、自分の知る限りの真実を伝えようとしている。
小さく息をのんで、紗英に向かって一歩踏み出す。
「来ないで!」
フェンスの鳴き声と共に、紗英は叫んだ。いつもの、間延びした話し方とは大違いだ。
彼女がここに立っているのは、いざとなれば、あるいは全てが終わったら、ここから飛び降りてしまおうという意思表示だった。
そうやって自分を無理やり奮い立たせている。
それは、それはだけは、止めなければ。
「来ないでよ! もう、近づいて来ないで……」
紗英に渦巻くそれは、怒りよりも、悲哀に見えた。
それでも良平は歩みを止めない。
「紗英、落ち着け。まだ何も終わってないだろ」
紗英は、服のポケットから黒い銃を取り出した。グリップを強く握り締め、その銃口は、紛いもなく良平の方を向いていた。
「これ、良平君が持ってるのと、同じだよ。まだ試作品らしいんだけどね」
引き金に指をかけた。
それでも、良平は、進む。
「来ないでって!」
引き金を引いた。
玩具の銃のような音。
刹那に目に映る弾丸は、青白く光り、実体はもはや無いように見えた。外したのか、外れたのかは分からない。ただ弾丸は、良平の頬を掠めて、遙かどこかに消えた。
尚歩みを辞めない良平に、紗英は涙を堪えた。次に聞こえたのは、拳銃が手から放れ、冷たい床に落ちた音だった。
「もう、もう、来ないでよぉ……」
悲痛な叫びだった。
灰色のコンクリートに座り込み涙をこぼす紗英に、良平はなんと声をかけたら良いのか分からなかった。もし声をかけても、友人としてなのか、ふざけたゲームに身を投じている者としてなのか。
冷たい風が、ただ吹き荒んでいた。




