6 正規品
渡辺は、帽子を取って、さも紳士かのように深くお辞儀をした。白髪交じりのグレーの頭髪が露わになる。
「本当に。奇遇ですね。何をしていたんですか」
良平は、いつもより何割か鋭い声を放った。敵意のある声というのは、きっとこういう声なのだと、聞けば誰でも分かった。
「ここで事故がありましたので、お見舞いを。私めは、直接患者様にお会いに行くことはできませんから」
小さく息を飲み込んだ。
「立ち話はなんです。場所を変えましょうか」
持ちかけたのは良平だ。渡辺は少し驚いたような表情を浮かべ、すぐに元の笑みを張り付けた。
「ええ、そうしましょう」
踵を返して、繁華街の方に歩いていく。
やがて目の前に現れたのは、今にも崩れそうな廃ビルだ。建設途中で、建設業者が倒産して、今でもそのままになっているそうだ。専ら不良の溜まり場になっているが、近づかなければ害はなく、誰も状況を変えようとしない。コンクリートの隙間にしぶとく生きている蔦のような植物が、無理矢理このビルを支えているようにさえ見えた。そんな必要はとうにないのに。ここはまるで、時間が止まっているようだった。
良平が初めてこの場所に来たのは、不良連中に連れ去られた莉乃を助け出すためだった。我ながら無茶なことをしたんじゃないかと思う。ただ、2度目に訪れたのも、周り回って莉乃を助ける為だとは、このビルとはなにか縁があるような気がして、少し感慨深かった。
「おや、ここは」
「ああ。すみません。ついいつもの癖で。ここを通ると近道なんです」
「はあ、なるほど」と、渡辺は納得したようなしていないような。曖昧な返事をして、それでも良平について行く。
しかしとうの良平も、近道、なんて言いながら、至極適当な嘘だよな、と心の中では思っていた。だって目的地は、ここなのだから。
コンクリートが喧噪を遮って、道行く人々の声が遠くなっていくのを見計らって、良平は内ポケットにしまっておいたあるものを、渡辺に突きつけた。
「おやおや、巷に聞く、おやじ狩り、というやつですかな」
白銀のそれをつきだしたところで、渡辺は表情一つ変えなかった。
銀のバレルに、美しい蔦のもようの彫刻。死神からもらった、幽霊トリガー。拳銃だ。
「違います。事故を手引きしたのはあなたでしょう。なにが目的ですか」
「何のことだかさっぱり」
渡辺は両手をひらひらと見せて、おどけている。
「とぼけないで下さい。あのトラックはおそらく、これの弾丸と同じ技術の結晶だ。俺たちの知らない、未知の技術の」
「ほう」
「体と魂を分離するということが、死ぬことだと思っていたんですね。俺も最初はそう思いました。でも違う。分離は一時的なもので、体は死んでいない。しかしあなたはそうとも知らず、俺に接触してしまった。それも、愛する人を失った方々に、なんていう文句もつけて。莉乃はまだ死んでいない」
良平は、急な崖を走り抜けるように、息も絶え絶えに続ける。
「ニュースではまだ、重軽傷者多数としか出ていませんから。死者が出ていると勘違いできるのは、あの事故を意図的に起こし、死者を出そうした人だけ。つまり渡辺さん。あなたです」
それこそ走った訳でもないのに、心臓が千切れそうな程に脈打っていた。
「なるほど、正規品、という訳ですか。それをどちらで」
しらばっくれるのを諦めたようだ。しかしそれでも渡辺の表情は変わらなかった。
「死神に、貰いました」
「そうですか。長谷川様は、我々の目的が何か、とお尋ねになられましたね。残念ながらそれはお教えできません。それから」
渡辺はニヤリと口角を上げた。悪魔のような、邪悪な笑みがそこにあった。
「幽霊になった方々は、我々にはどうすることもできませんよ。そんなもので脅したところで、無理なものは無理でございます」
奥歯を噛み締めて、幽霊トリガーのグリップを強く握った。引き金に、ほんの少し指をかける。
「むしろいいではありませんか! 魂のままであることが、我々の本来の姿なのです! 容姿、寿命、運動能力、神が我々に与えた肉体は、優劣をつけ、我々が神に近づかないように付けられた枷なのです!」
ついさっきまであった憤怒の感情は、心臓の鼓動が正常に戻っていくのと同時にゆっくりと消えていった。
納得した。その考え方にではない。
渡辺の語る、我々、というのが何をしようとしているのか、大方察しがついた。こいつらは恐らく……
「さあ。それで私を撃ちなさい! 私は、この肉体から解放される!」
右手の人差し指は、自然に引き金から離れていった。
「あなたの思い通りになんか、させません」
体を思いっきりひねり、素早く下半身を回転さる。ひゅんっ、と小さく風切り音がして、良平の体が一回転する。遅れてやってきた拳銃を握った右手が、渡辺の顔面に直撃する。
渡辺はよろけ、その場に倒れ込んだ。
「そうですか、それが長谷川様の選択ですか! いいでしょう。これからゲームをしましょう。長谷川様がギブアップするのが早いか、我々がギブアップするのが早いか」
悪魔のような嘲笑は止まらない。
「ですが、私の味方は私一人ではなく、長谷川様の味方も長谷川様一人ではないということを、努々お忘れ無きよう」
渡辺の言っていることが分かった途端、思考が黒く塗りつぶされていくように感じた。幽霊トリガーから伝わるひんやりとした空気でさえ、もう感じなかった。
「これは正規品、そう言ったな」
「ええ」
「お前を殺すのは、少し釈然としないな」
そういって良平は、いとも簡単に引き金をひいた。
命中しても、血は出なかった。幽霊も、魂も出てこなかった。ガラス玉が砕けるような音がして、渡辺は動かなくなった。
毒の混じったヘドロのような空気を残して、良平はその場を去った。




