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ゴースト・バレンタイン  作者: サトウイツキ
最終章 12月の話
33/43

3 万が一の残りの9999の可能性

 締め切った部屋の明かりは消したまま。キッチンからジャカジャカと何かを炒めるような音が聞こえる。ごま油のいい香りがした。


 良平は勉強机のイスに座り、ベッドの方に向き直った。ベッドには、莉乃がちょこんと座っている。


「気づいたら、横で自分が寝てて。死んじゃったのかな、と思ったんですけど、よく見たらバイタルも普通ですし、みた感じ体は生きてたっぽいです」


「幽体離脱ってことか」


「きっと、そうだと思います」


 体から、魂が抜けてしまう状態。生き霊、なんて言ったりもするが、育美の時と違って

幽体の方に本人としての人格が完全に写り込んでいる。育美の時が分裂だとすれば、今回の場合は分離したと言える。


「戻ってみようとか」


「しましたよ。でも、駄目でした。弾かれちゃったって言うんですかね」


 莉乃は少し寂しそうな顔をしていた。自分の体に拒絶されたのだ。自分自身の否定、あるいはそれが自分でないかもしれないという疑念。混ざり合う2つが、莉乃に悲哀の感情を抱かせた。


「変なこと聞いてもいいか」


「場合によります」


「俺、今まで幽霊に触れられた事無いんだけど、それはやっぱり、莉乃がまだ生きてるからか?」


 莉乃は反射的に自分の胸を隠した。


「いや、あの」


「その質問はアウトです。私の乙女心を著しく乱します。……まあ、多分そうだと思います」


 莉乃はすっと立ち上がり良平に歩み寄る。良平に向かって拳を振りかぶり……


「えい」


 しかし振り下ろされた拳は良平の体の中に入っていった。


「触ろうと思えば触れますけど、そうじゃなければ、こうなります」


 腕を上下に振っているが、どれも感覚はなく、良平の体を通っていくばかりだ。


「ちょっと面白いですけどね」


「いや、駄目だ」


 良平は立ち上がった。


「莉乃はまだそっち側に行くべきじゃない。戻る方法を探そう」


 良平はそのまま部屋を出ると、階段を駆け下りた。


「姉貴、ちょっと出かけてくる」


「夕飯は?」


「ラップしといて、後で食べる」


 姉は一瞬驚いて、やがて笑顔に変わった。


「はいよ。風邪ひかないようにね」


 良平は掛けてあったコートを羽織ると、履きならした靴のつま先で、地面を叩いてかかとを靴に収めた。


「行ってきます」


 良平はそのまま玄関を飛び出した。


 やがて階段を降りてきたのは良平の妹。血まみれの熊がプリントされたシャツしか着ていない。


「兄者、またどっかでかけたのか」


「そうみたいだな」


 姉は鍋を混ぜる手を止めないまま、リビングの方に目をやった。目線の先にあるのは、本当の顔は一度も見たことのない、もう1人の姉の顔。


「弟は、今日も精一杯生きているよ」


「それより姉者。今日の夕飯は?」


「角煮」


「……さっきなに炒めてたの?」


「角煮」


「……わたしもちょっとコンビニいってこよ」


「おい妹」


 今日も長谷川家は平和だ。


◇◇◇


 病院に着いた良平は、時間を確認した。18時30分。面会時間ギリギリだ。

 さっと受付を済ませ、早足で病室に向かった。個室で、テレビと窓しかない、まるで牢獄のような部屋だ。命を逃がさない、牢獄。今回に限っては、その命は今隣を一緒に歩いているのだけれど。


 相楽莉乃、とか書かれたネームプレートが、扉の横に刺さっている。

 滑らかな引き戸をやや強く開けて、莉乃の体に駆け寄る。画面に表示されたバイタルは正常。今朝来た時と何一つ変わらない状態で、莉乃の体はそこにあった。


「なんかちょっと、不思議な気分です。自分で自分を見ているのって」


 ベッドの両脇に向かい合うように座り、意味もなく、自分の体を眺める。触れることもできるし、包帯がぐるぐる巻きにされているというだけで、動かせない訳でもない。ただそれが、どうしても自分だとは思えなくて、そんなやり場に困るような感情が、全身に染み込んでいく。


「これ、万が一戻れなかったら、どうなっちゃうんですかね」


「どうだろうな。それこそ、本物の幽霊になるんじゃないか」


 戻れなかったら。

 それはつまり、魂のない状態での、肉体の死を意味する。今ここで莉乃の胸に刃を突き立てたのなら、その状況はすぐに再現されるだろうが、そんなことは、世界を何度作り直したって有り得ない。


「幽霊って、楽しいんでしょうか。今はなんというか、ふわふわしてるだけですけど。私ってでも、未練とか、そういうのじゃないかえあ、きちんと成仏できるんでしょうか」


「万が一よりも、残りの9999のことを考えよう。その方が、ずっと楽しい」


「ふふっ、そうですね」


 莉乃は、少しの間だけ、本当の自分に戻れたように感じた。体から離脱して、ずっと感じていた違和感。自分が自分でないような、体のことだけではない。精神、つまり幽体である自分でさえも偽物なのではないかという錯覚。

 そんな違和感が、すとんと消えたような気がした。


「そろそろ時間ですね。私はここにいることにします。一応、自分の体なので」


 莉乃は自分の体をゆっくりと撫でた。まるで年老いた猫をさするような仕草だった。


「また明日来るよ。おやすみ」


 良平は病室を出る。横開きのドアが、ゆっくりと閉まった。莉乃には見せなかった表情で、良平は帰路についた。


 ベッドの上で1人になっても、到底答えはでないし、かといって移動しても何かが決定的に変わる訳でもない。

 痛感した。結局、無力なのか、と。


「万が一」


 良平は独りごちる。


「万が一、タイムリミットが、そこまで迫っていたら」


 タイムリミットとは、肉体の死にあたる。

 心と体が離れた状態で、長く持っていられるとも思えないし、そうでなくても莉乃の肉体は危険な状態にある。

 育美の例を挙げて考えるなら、状況はより明らかだ。育美の場合は、真面目な自分と遊びたい自分が分かれ、遊びたい自分が外に出てしまった。莉乃の話によれば、目の下の大きなくまや、慢性的な体調不良がずっと続いていたようだ。魂が半分になってそれなのだから、完全に離れている今、何が起きてもおかしくないのかもしれない。


 急に背筋が凍るような冷たい風が部屋を包んだ。


「君に頼みがある」


 声の主は、さっきまで閉まっていたはずの窓窓枠に腰掛けた男性。

 良平はこの男を知っていた。


 死神だ。

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