2 一週間と数時間
白、白、赤、白。見渡しても、色なんてそんなもんだった。殺風景な莉乃の病室には、花の1つ生けられていなかった。
「莉乃……」
包帯やらガーゼやら、白い布で覆われた莉乃は、良平の声に答えることはなく、ただ淡々と呼吸を繰り返していた。しかしそれも、酸素マスク無しではままならない。
バイタルを示す装置が、一定のリズムで謳いつづける「まだこの子は生きているよ」と。
包帯に抱かれ、まるでミイラみたいになってしまった莉乃は、生きているのか死んでいるのか、もはや分からない。バイタルを示す装置だけが、それを知っていて、尚且つ、握っているようで、時折どうしようもない破壊衝動に駆られるのだった。
幸い、というべきか、命はぎりぎりつなぎ止めた。現代医療の賜物だ。
しかしあれから1週間経った今でも、未だに意識は戻らず、切迫した状況が続いている。
原因はあの時と同じ、路面凍結によるスリップ。多重事故だったが、軽傷者多数。重傷者1名。莉乃はその1人だった。
この1週間で一通りの現場検証は終了していて、事情聴取も終わった。
莉乃の病室がいやに殺風景なのは、この事故で莉乃が被害者になったことを知っているのが良平と莉乃の家族だけだからだ。まだ、誰にも教えていなかった。自分の気持ちに整理がつくまで、他人に踏み込まれたくなった。
良平は莉乃の横に腰掛け、頭を抱えた。どうしてこんなことになってしまったのか。何かを思い出そうとしても、何も思い出せない。黒いクレヨンで塗りつぶしたように、記憶に靄がかかる。医者には、ショックによる記憶障害だから、落ち着けば治る。なんて言われたが、いつになったら落ち着いたなんて言えるのだろうか。学校が? 警察が? マスコミが?
どうでもよかった。
なにも思い出せない自分が、ひたすらに嫌だった。
背後で、扉の開く音がした。
「もしかして、良平、くん?」
聞き覚えのある声に、顔をあげると、紗英がそこには立っていた。
「誰から聞いた」
優しさなんて1割も無かったかもしれない。最初に出たのはそんな言葉だった。
「えっと、誰からっていうか、親戚のお見舞いにきたんだけど、入り口のところに、莉乃ちゃんの名前あったから……」
いつもの間延びしたような声ではなかった。申しわけなさと、恐怖が混じったような、そんな声だった。
◇◇◇
「この事はまだ、誰にも言わないで欲しい」
病院の中庭で、良平は、重たい扉を開くように言った。
紗英はココアを握ったまま、小さく頷いた。
「あれ、やっぱり莉乃ちゃんなんだね」
「ああ」
不思議と、紗英になら話してもいいような気がした。事故のこと、莉乃がずっと目覚めていないこと、そして、その場にいたにもかかわらず、事故前後の事を、全く覚えていないこと。
「そう、なんだね……」
「だからこの事は……っ」
良平の言葉を遮るように、紗英は良平を抱きしめた。
「大丈夫。誰にも言わない。わたしは、良平くんの味方だよ。莉乃ちゃんは、きっと、よくなる。だから今はわたしたちにできる精一杯のことをしよう?」
自然に、涙が零れた。
紗英のファーコートに、水滴が落ちていく。
「……ありがとう」
消え入るような声で、良平は言った。紗英以外には、聞こえないような、小さな蝋燭のような声だった。
「だって、わたしは……」
良平は首を傾げた。
「ううん。やっぱりなんでもない。一旦戻ろ。風邪引いちゃう」
紗英の潤んだ瞳は、良平の、涙でぼやけた視界では、捉えることができなかった。
◇◇◇
『献身会』と名乗る人が訪ねてきたのは、その日の帰りだった。病院を出てすぐのところで、声をかけられた。白いスーツに、葉っぱにハートが乗ったようなデザインのバッジをしていた。いかにも、紳士といった格好だった。
「長谷川良平様で、いらっしゃいますね」
「そうですが」
「こういう者です」と、名刺を渡してきた。献身会会長 渡辺実、と書かれており、裏面には、活動実績がいくつか書かれていた。
「私どもは、愛する者を失った方々に、もう一度出会えるチャンスを……」
「ふざけないで下さい。俺はこれで」
名刺を握りつぶしてポケットに放り込んだ。走りこそしなかったが、周囲の人よりも何倍も早くその場を立ち去る。
周りの人が少なくなって、帰るべき家がすぐそこに迫っているとき、辺りはすっかり日が暮れていた。
「ただいま」
「あ、良平おかえり。今日あんたに誰か来てたみたいよ。献身会とかなんとか……」
靴を揃えて、家に上がる。
キッチンでは、姉がエプロン姿で夕食の支度をしていた。
「あんた、変な宗教とか辞めてよね」
「断ったよ」
姉は「そう。ならいいわ」とだけ。それ以上何も言わなかった。姉は良平の身になにがあったのか、ある程度は知っている。もちろん、莉乃になにがあったのかも。
良平は階段を上がり、1人暗い部屋に戻っていった。
「失ってなんか、いねえよ」
ベッドに身を投げ、奥歯を噛んだ。
右手を掲げて、空を掴む。しかしそこには永遠に続くような闇が広がるばかり。
意味もなく繰り返しているうちに、右手が何かを掴んだ。おそらくは、実体のある、何かを。
「はにゅん」
聞いた事のある声が聞こえる。
「ちょっ、やめっ」
1週間、全く聞いていない、声が聞こえる。
「い、いい加減に……」
意識的に瞳を開ける。
「こんばんは。先輩。とりあえず手を下ろして下さい」
右手が掴んでいたのは、たわわに実った双丘。
嬉しいような、悲しいような。
彼女がここにいるということは、つまり、彼女が既に、幽霊になっているということに他ならないのだ。
「あ、泣かないで下さい。私、まだ死んでないっぽいので!」




