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5 崖底の2人

「で、これからどうするよ」


 木村はいつもと少しも変わらない口調でそう言った。


「落っこちてきたのは俺とお前だけ、か。嫌な偶然だな。どうせなら女の子と落っこちたかったわ」


 女の子、と聞いてすぐに思い浮かんだのは、泣きながら電話をかけてきた小瀧の姿だった。実際に見たわけでもないのに、鮮明に思いかんでくる。


 木村はそんな様子に気づくはずもなく、拾った木の枝で辺りの草をかきわけて遊んでいる。


「何、してんだよ」


 良平は少し苛立ったように言う。

 木村は、木の枝で草を抑えたまま、上半身だけ良平に向けた。


「何って、何」


「復帰しようとか思わないのか」


 木村は空を仰いだ。目先にあるのは、ほとんど真上にある、白いガードレール。


「無理じゃん」


 ラムネ瓶を握った手に力が入るのが分かった。血の滲む足とか、擦り傷だらけの腕とか、全然気にならないくらい、良平は、憤っていた。今まで考えていたことが、まるで全部無駄だって言われたような気がした。


「こんなんじゃ、小瀧の涙も浮かばれないな」


 心の内に留めておこうと思っていたのに、言葉になって外に出てしまっていた。

 木村の動きがぴたりと止まった。


「お前、どこまで知ってる」


 木村の勘ぐるような視線に、余計に腹が立った。知っていたら、なんだというのか。


「知ってたらなんだよ。今すぐここから抜け出して1位目指して走るっていうのかよ!」


 良平は声を荒げた。しかし声は乾いた木々や地面に染み込んで、すぐに消えて無くなった。

 木村はうつむき、震えるように自分の手のひらを見つめた。まだこぼれてもいない涙を無理矢理受け止めるかのように。


「怖いんだよ……約束を守れないのが、守れなくなっちまうのが、怖いんだよ!」


 良平は、足の怪我を庇うように、木の幹に捕まって立ち上がり、木村と対峙した。


「だからって、無かったことにするって言うのかよ」


「そうだ。これは事故だ。だから仕方ないんだ……」


 良平の中にあった怒りとか、憤りとか、そんな感情はとうに元の感情を越えていて、やがてそれは失望へと変わっていった。


「そうかい。分かったよ」


 良平は、血を覆い隠すようにテーピングを巻き、木村に背を向けた。正面にあるのは、どこまでも続くかとも思える高い崖。


 木村ははっとしたように良平の背中を見つけると、懇願するように手を伸ばした。


「……悩みを、聞いてほしい」


 良平は、振り返って少し笑った。


「最初から、そう言ってくれればよかったのに」


◇◇◇


 木村は、ずっとため込んでいた何かを吐き出すように、ゆっくりと話し始めた。


「俺は小学校の時、空手を習ってたんだ。特に理由なんてない。家が近かったから通ってた。そのときの、道場の先生の娘が、小瀧だった」


 木村はうつむいたまま話を続けた。


「歳の近かった俺たちは、すぐに仲良くなった。けどある日、俺と小瀧は、入っちゃいけない場所に入っちまったんだ。変電所の、裏庭だ」


 良平たちの住む街の近くには、大規模とは言わないまでも、変電所がある。その近くにある平原は、立ち入り禁止となっているせいか、やや珍しい草花が咲いている。という噂がある。実際に立ち入った者は少ない。


「子供の考えそうなことだよ。でも俺たちは、捕まっちまったんだ。職員にな」


 木村は木の幹に背中をつけ、もたれかかるように体を預けた。


「そりゃあ、怒られるよな。もう2度と小瀧に近づくなって、小瀧の親父に怒られたんだ。でもよ、小瀧のじいさんだけは、許してくれた。そのじいさんとの約束が、『最後の強歩大会で、1番になる』ことだった」


 木村はぎゅっと奥歯を噛んだ。


「それが条件で許して貰った訳じゃない。今思えば、ただの戯れ言だったのかもしれない。でも、そのじいさんは、今年死んだ。家族に看取られて、幸せな最期だったそうだ。それを聞いて、俺は、あの約束は、もう無かったことにしていいんだ、なんて思っちまったんだ。そんな風に思った自分が嫌で、死ぬ気で練習した。それなのに、当日になって、このザマだ。朝倉から聞いたろ、ここの崖の話」


 良平は静かに頷いた。


「それを聞いてさ。ここに落っこちたことになれば、約束を守れなくても仕方ないって、そう思ったんだ」


 木村は顔を覆うようにうずくまると、誰にも見えないように、涙をこぼした。


 木村も良平もまだ2年生だから、強歩大会というイベント事態はもう一度ある。しかし木村は、そこで走ることができないのだ。木村は、体育委員だからだ。おそらく来年木村は、巡視の係になる。つまりこれが、実質最後の強歩体育なのだ。


 良平は、もたつく足を引きずりながら、木村のすぐ側までやってきた。


「これ、多分、小瀧のおじいさんからのプレゼント」


 良平が差し出したのは、青い、空と海の間のような色をしたラムネ瓶。もちろん中身も入っている。なぜだか、ついさっき水から出したみたいに、水滴が輝いている。


「お前、これ……」


 木村にとって、思い出深い品なのかもしれないが。良平はそれをまだ知らない。

 木村はラムネを受け取ると、なれたように蓋を奥に押し込んだ。炭酸の弾ける心地よい音がして、ビー玉が瓶の中に転がった。


「お前がなんでこれを持ってるのかは、今は深くは聞かない。けど、俺がゴールしたら、ちゃんと教えろよ。1番でゴールしてやるから」


 木村は立ち上がり、いつもみたいににっと笑った。

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