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4 ラムネ瓶

 木村が、あのお爺さんと守れなかった約束。守れなかったから、小瀧に別れを告げたのか、約束を守るために小瀧と縁を切ったのか、どちらにしても、昨夜、紗英が小瀧との電話で聞き取った「おじいちゃん」というのは確からしい。

 紗英がもう少しだけ夜に強かったなら、なんて思うのは怠慢だ。良平は水を浴びた犬のように頭を振って、その考えを振り払った。考える事を放棄してしまっているじゃないか、と。


 知らないうちに、靴のひもが解けていた。あれほど堅く縛ってあったのに。それを結ばないうちに、第2関門に到着した。


「おつかれー。さあ、折り返しだよ。頑張って」


 息を整えて、最後にまるで鉄球を飲み込むみたいにして唾を喉に押し込んで、担当の先生に精一杯の挨拶をした。


「……はい。ありがとう……ございます」


「え、あ、うん」


 なぜか先生は目を反らした。


「良平殿!」


 良平の名前を呼んだのが、同じクラスの女子生徒である朝倉だということは、口調からしてすぐにそれと分かった。


「この先は魔のガードレールがあるのだよ」


 朝倉はさも何かあると言いたげに、昔話に出てくる悪い魔法使いみたいな表情になった。


「ガードレールがあると思ってその側を走れば、奈落にドボン! 棄権は免れないかも」


「へえ。穴でも空いてるのか」


 朝倉は少し面食らったような顔をした。


「君、ボクの話を聞いてくれるのかい」


 本当は一刻も早く第3関門に向かって走り出したいところではあるが、そんな潤んだ目で見られては、拒絶のしようもない。ほぼ無意識に朝倉の話に足を踏み入れたのは良平本人だ。


「ああ。少しなら」


 良平は笑ってみせた。


「ふっふっふ。この先の、自販機を少し越えたところは、すっかり森の中だ。道なりにガードレールが設置されているのだがね、ある一カ所は、ガードレールのこちら側に地面が無いんだ。滑落かなにかでその部分だけ無くなってしまったようだよ。落ちてしまえば一瞬だ。奈落の底……もちろん地面に不時着するわけだが、負傷し、果てには棄権に追い込むのだ」


 朝倉は得意げに語った。

 ただそれはガードレールぎりぎりを走っていて、そのうえ足下を全く見ていない人しかかからないであろうトラップであることは、すぐに分かったから、それ以上の追求をやめた。


「分かった。気をつけるよ」


「う、うむ」


 良平は、そう言って手を振って走り出した。また自販機か、そんなことを思いながら。


「ありゃ、さえちんも惚れるわぁ」


 朝倉はそう一人言ちて椅子に座り直した。


「ねえ先生」


「え、あ、そう、かもね」


 先生はまた中身のない返事をして、顔と机を平行にしてしまった。


◇◇◇


 さっきと同じ道を戻って、分岐点である第1関門までやってきた。


「りょうへいくーん。がーんばーってー!」


 第1関門を囲んでいる生徒たちの群れを抜けて、わざわざ良平に手を振っている。

 良平もそれに答えて、紗英に手を振った。腰から上だけ紗英の方に向けて、下半身は分岐した道に向けてそのまま走っていく。


 順調に走っていくと、大きなカーブを前にして、赤い自動販売機が見えてきた。よく見るタイプだ。


「ここか」


 近づいて見てみる。

 遠くから見た限りでは、特に変な物は無かったのだが、自動販売機の中に、ラムネ瓶が入っていた。まるでついさっき入れたかのように冷えていて、水滴が滴っている。夏祭りの屋台で買ったものが、そのままここにやってきたみたいだ。

 ラムネ瓶のすぐ横に、白い何かが転がっていた。


「テーピング……?」


 運動部がよく持っているやつだ。粘着性のある包帯で、捻挫した時に固定したり、傷の応急手当をするものだ。


 これが、あのお爺さんからのプレゼントなのか。

 体が暑くなってきた頃だったので、冷たいものはありがたい。ただ炭酸となると、喉にひっかかりそうで、すぐに飲もうという気になれない。テーピングはポケットにしまって、ラムネ瓶はその手に握ったまま、良平は走り出した。


 しかしラムネ瓶が濡れていたせいか、手から滑って抜けてしまった。

 手を振り上げたタイミングでそれが起きたものだから、ラムネ瓶は盛大に宙を舞った。


「危ねっ!」


 足をもたつかせながら、なんとかそれをキャッチした良平だったが、上を見ていたせいで、足下の注意が散漫になっていた。

 最初に視界に飛び込んできたのは、蔦のからまった白いガードレール。ラムネ瓶を持っていない方の手を伸ばすが、あと少しのところで手が届かない。


 良平はそのまま、崖へと転がり落ちた。


◇◇◇


「痛ってぇ……」


 全身の痛みに耐えながら、なんとか首を上げると、木々の隙間にガードレールが見えた。ほとんど直角の位置にそれはあって、単純に登るというのは難しそうだった。

 何か植物の匂いが鼻をついた。ただそれよりも、自分の右足から滲む血の匂いの方が強く、それが痛みを助長させているようにさえ思えた。


「なんだ、お前も落っこちてきたのかよ」


 聞き慣れた声がすぐ隣から聞こえた。今までずっと追いかけていた、その声が。


「どうする。復帰できると思うか?」


 木村は、少し諦めたような口調だった。

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