3 願い
森の中に作られた、無理やり舗装された道を走っていると、ピーヒョロヒョロと鳥の鳴く声が聞こえた。
やや早いペースで走りながら、玉のような汗を拭う。しかし拭った腕も、既に汗だくで、拭えたかどうかと言えばそうでもない。
時折吹き抜ける秋らしい乾いた風が、その役割を担っているようだ。
見上げると、鳶が旋回しながら鳴いている。
自分が疲れているからなのか、本当は元々そういう考えの持ち主なのか、こういうとき、自分に翼があれば、なんて柄にもないことを思ってしまう。
力強い大きな翼で、何にも縛られず、広大で、悠大な空を飛んでいく……
「もし、そこの君」
良平の意識を地面に落としたのは、しわがれた低い声だった。
「え、あ、はい?」
突然のことだったから、生返事になってしまった。
声をかけてきたのは、濃紺の浴衣をきたお爺さんだった。白髪で、サンタクロースに負けずとも劣らない白い髭をたくわえていた。
「どうか、されました?」
本当はこんなことしている場合じゃないと思っていたのはほんの2秒くらいだ。
良平は立ち止まり、息を整える。
「この大会に、拓郎という生徒は参加しているかね」
木村のことだろうか。
「ええ。してますよ」
お爺さんは白い髭を撫でながら目を細めた。重たい口を動かすように、ゆっくりと話始めた。
「彼とは、ある約束をしていたんだがね。彼はそれを果たせなかったんだ」
「は、はぁ」
「彼はその事をとても悔やんでいてね、それをたったひとりで抱え込んでしまった」
もしかして拓郎が小瀧と縁を切ったことになにか関係があるのだろうか。
「そこでだ、君に彼の事を手伝ってほしい。君のこの大会での成績は、保証できないのだが……」
この人は一体何者なんだ。
木村の事に関して重要な情報を知っているんじゃないだろうか。
「おっと、そろそろ追い抜かれてしまいそうだ。わしはここでさよならだ。この先にある自動販売機を見るといい。わしからの餞別だ。拓郎君のこと、よろしく頼むよ」
まだ聞きたいことがある。
それなのに、お爺さんは、ほら行った行ったと言わんばかりに、良平の背中を押していく。
仕方なく、それに乗せられて少し走る。振り返っても、お爺さんの姿は無かった。
ここで良平は重大なことに気がついたのだけれど、追ってきたのは、色の違うジャージを着た先輩だった。しかしその先輩は、自転車に跨がっていた。
◇◇◇
自転車に乗るのは、ルール違反じゃないのだろうか。
「やあ、不思議そうな顔してるね」
さながら自転車競技部といった風貌の先輩は、良平に易々追いつくと、良平の顔を見るなりこう言った。
そりゃあ不思議な顔もするに決まっている。強く歩くと書いて強歩大会なのだから、自転車での参加なんて聞いたこともない。
「僕はね、巡視をやっているんだ。体育委員会の委員長だからね」
良平は更に困惑の表情を浮かべる。
「一応説明があったはずなんだけど、まあ、去年の僕も聞いてなかった訳だから無理もないか。ははは」
委員長だという先輩は、自転車に跨がったまま、勢いだけで良平の横を併走する。競技用で、後ろに向かって曲がっている部分を握り、先輩は前を向いたまま話を続けた。
「ここ数年、ショートカットが多いらしくてさ。救護とか、記録係とかで、巡視の先生ってあんまりいないんだよね。人手が足りなくって、こうして体育委員である僕たちが自転車で見回ってるのさ。ちなみにこれ、僕の私物ね。格好いいだろ」
そう言って先輩は自分の自転車を指さした。赤色をベースに、白や黒のラインが入っている、ロードバイクだ。新しいのか、手入れが行き届いているのか、傷も汚れも、ほとんど見つからなかった。
「今年は、走りたくなかったですか」
「ははは。それ、聞いちゃう」
先輩は少し困った表情を浮かべた。
「なんか、すんません」
「いいよ。まあ、去年もうちょっと頑張っていれば、とか、そういう後悔が無い訳じゃないんだけど、僕が選ばれたのって、僕が自転車競技部だったからっていうのもあるんだよね。つまりこれ、僕にしかできないことだからさ。そういうの、格好いいよね」
そういうものなのかもしれない。
昔のことを、どんなに想ったって変わらない。後悔したって、時間が戻る訳じゃない。それなら、今目の前で、自分にしかできないことを精一杯やるのが、格好いいのかもしれない。
「それじゃあ、僕は行くからさ。頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
先輩は片手を離して、良平に手を振りながら徐々に加速していった。
先輩を追いかけていく風が、ほんの少し痛くて、良平はその場で膝に手を突くようにして立ち止まってしまった。
「後悔したって、時間が戻る訳じゃない、か」
良平は、膝を思いっきり握って、元の体制に戻って息を整えた。
木々の空気が少し新鮮に感じた。
ひとまずは、第2関門まで走りきろう。そう心に決めて、良平は歩調を上げた。




