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ゴースト・バレンタイン  作者: サトウイツキ
8月の話 後編
21/43

9 陽は昇る

 絶叫は、最初の一回だけでなくその後も幾度となく続いた。おかげで場所はすぐ分かったのだが、得体の知れない恐怖が良平の中で沸き上がる。

 草をかきわけ、木々を避けて、従来の道を完全に無視して一直線に叫びの方に向かった。何があるかも分からないのに、急がなければ、そんな衝動に駆られた。


 ただ、この状況の中で、良平は少し違うことを考えていた。それは、心の片隅にある微かな光が自分を導いていてくれるような気がして、これから向かう場所がいかに危険地帯であろうと、良平には余裕があった。


ーー俺、変わったな……


 どこかでそんなことを考えていた。

 少し前までの良平だったら、この事態に真っ先に駆けつけたりはしないだろう。野生動物の遠吠えだとか、暴走族が近くを通ったのだとか、何かと理由をつけて遠ざけただろう。恐怖からではなく、問題に首を突っ込みたくなかったのだ。

 クラスで飼っていたハムスターが死んでしまった時も、友達がいじめが原因で学校に来なくなった時も、クラスメートが手の届かない遠くに行ってしまった時も、関わらないように、関わらないように、ありきたりな感想を並べて、自分から遠ざけた。


 いつから変わったのか、聞かれれば、もはや考えるまでもない。


 芹澤果歩が変えたのだ。


 後で別のクラスメートに聞いたことだが、芹澤果歩は事故にあったあの日、バレンタインに作るチョコの材料を買うために外出したのだという。

 これも別のクラスメートから聞いた話だが、芹澤は、入学した頃から良平のことが気になっていたそうだ。


 当事者意識、という言葉があるが、良平にはこれが無かった。

 もっと早く、気づいていれば、芹澤の気持ちに気がついていれば、あの日いなくなったのは芹澤じゃなかったかもしれない。芹澤の幽霊に触れて、芹澤の幽霊がいなくなって、良平はそんなことばかり考えていた。

 それが自分の我が儘で、今更どう思ったところで何も変わらないことはずっと前から知っていた。


 だから次は、後悔しないように、そう決めた。


 少し昔のことを考えているうちに、目的の場所に辿りついた。

 というより、向こうからやってきた。


「りょ、良平君! 早く、宿の方に帰るんだ!」


 足をもつれさせても走ることを止めなかった徹が、良平の前に膝をついて、目も見ないで叫んでいる。全身に小さなかすり傷があって、あちこちが土や泥で汚れている。


「何が、あったんですか…」


 徹は、何年も油を注していない古いロボットみたいな動きで振り返った。


「怪物が……っ!」


 良平もその方を見る。闇の向こうに、何かが蠢いているのが分かる。とてつもなく巨大な何かが、闇に姿をかくして、もぞもぞと動いている。そのはずなのに、葉が擦れる音ひとつせず、時折聞こえる金属をひしゃげるような音だけが、ひたすらに恐怖を煽っていた。


「あれは……」


 突然、何もいなくなった。

 今まで見ていたはずの暗闇は、ただの暗闇に戻っていた。


 良平の背後で、金属のひしゃげるような音がするまでは。


「gggggkkkkkpprrrrrrrrrrr!!!!」


 怪物の方向が聞こえるのとほぼ同時、良平と徹は宿に向かって走り出した。

 何度も転びそうになって、そのたびに地面をつま先で抉るようにして走り続けた。


 目の前の草が左右に分かれて、宿の光が見えてきた。部屋中の電気がついている。莉乃がそうしたのだろう。


 やっとの思いで宿に逃げ込んだ2人。しかし、そこは、電気がついているだけで、誰もいなかった。


「莉乃ー! 木村ー!」


 何度呼んでも返事はなく、ただ静寂な空気が流れていた。


「どこ行ったんだ…」


 土で汚れた靴を脱ぎ、玄関から廊下に向かう。知らない間に全身にできた傷がひりひりと痛む。


「……くだ……い……」


 奥の方から、微かに声が聞こえる。

 声に導かれるように、ふらつく身体をなんとか起こしながら奥へ奥へ進んでいく。


 こんなところに扉があっただろうか、階段の裏側に、木製の古い扉があった。声は、確かにその向こうから聞こえてくる。声の正体を確かめるために金属のノブに手をかけた瞬間、すぐ隣で音がした。


 カサカサと、虫の這うような音。


 カチャカチャと、金属の擦れるような音。


 良平が目をやった瞬間、そこにいたのは巨大な百足むかでだった。

 無秩序に並んだ幾つもの虫の目が良平をねめつけている。


 鼓動が早い。


 息が荒い


 かろうじて、自分が生きているということだけが分かる。


 やがて、意識は遠くなり、闇に、包まれていく。


◇◇◇


「先輩!起きて下さい!」


 はっと目を覚ました。良平は、玄関でうつ伏せに倒れるようにして動けなくなっていた。


「大丈夫ですか…? 凄いうなされてましたけど……」


 良平は起き上がり、玄関の方を見た。太陽の暖かな白い光が射し込んでいた。


 は必ず昇るのだ。

 闇を切り裂き、光をたずさえて。


 良平は、夢から覚めた。

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