3 みほちゃん
よく漫画やアニメで、気配や視線を感じるといった表現があるけれど、そんなものは漫画の中の、いわば超人達がやっていることであって、幽霊が視えるという事を覗いてはおよそ一般人である良平にとっては、それはただの表現に過ぎない。
まだ慣れない畳の匂いが、良平を包んでいる。
「窓を開けよう」
室内から聞こえてきた謎の声、というかおそらく幽霊の声を無視して、良平は一人ごちた。
立ち上がり、窓を開け、海からやってくる潮の香りを全身で感じたところで、良平は部屋の方に向き直った。
「どうも」
「どーも!」
小学校低学年くらいだろうか、朝顔の柄のワンピースを着た女の子が、文字通り壁からひょこっと姿を現した。キラキラした瞳で良平を見ている。
ここに憑いているのは、小さな女の子の幽霊らしい。
「君は、えっと」
良平が、いつもの癖で話しかけようとしたところで、紗英が階段を上がっていった。そのまま部屋に入ってきて「冗談ならそう言ってよねぇっ!」と怒った。
ちなみに女の子の幽霊は隣で紗英を見ている。
「あぁ、ごめんごめん。冗談」
「遅いよぅっ!」
「さ、着替えて海行こうぜ」
紗英ははぁいと返事をして、自室に戻っていった。
「君も」
「うぇ?」
女の子の幽霊は、突然話を振られたせいで、変な声で返事をした。
「俺、着替えるから」
「あ、はーい」
女の子は壁に消えた。
良平は水着を出して手早く着替えると、さっきまで着ていた服を上半身だけ着た。
「よし」
声を聞いてか、また女の子が壁から現れた。今度は顔だけ出している。今写真を撮ったら完全に心霊写真である。
「君、名前は?」
「みほ」
「みほちゃんね。俺は良平。しばらくよろしくな」
良平は荷物をまとめながら言った。
しばらくしないうちに水着にラッシュガードを着た紗英がやってきて、部屋を出て、一緒に階段を下りた。
厨房の前を通ったとき、徹の姿はもうなく、洗い終えた食器が、綺麗に積まれていた。
「とおるさんってさぁ、足、おっきいよねぇ」
玄関に来たところで、ふと思い出したように紗英が言った。玄関には徹の靴が揃えて置いてあり、隣に紗英の靴を並べてみると一目瞭然、紗英の靴がおもちゃみたいに見えてくる。
他のメンバーは、持参したサンダルを履いて海に行ったようで、履いてきたスニーカーやなんかが並んでいた。
良平は、莉乃のサンダルが少し離れたところに置かれて寂しそうにしているのを見つけたので、自分の靴の隣に並べておいた。
◇◇◇
その日は3時頃まで海で遊んだ。
途中、紗英の水着が流される、拓郎が溺れそうになった小瀧を助けるといった事件はあったものの、全員日焼けしたくらいの状態で民宿に戻ってきた。
結局莉乃は来なかった。最後まで気にしていたのは良平くらいだった。
「疲れたーあーあーあー」
「あーあーうるせえよ」
「意味もなく叫んでるダーリンも素敵!もうっ、大好き!」
少し遅れてやってきた光彦が、やや申し訳無さそうに話にまざる。
「お楽しみのところ悪いんだけど、父さんを見なかったかい?海の方にはいなかったし、今見たら靴も無い」
「買い物とかじゃねえの」
早く海水を落としたい拓郎は、適当に答えて浴場の方に行ってしまった。小瀧もそれに付いていく。
後ろから郁美が顔を出してきた。
「先輩、なにかあったんですか?」
「ああ、別に、そういう訳じゃないんだけどね」
「じゃあ今はいいんじゃないですかね。車も停めてありましたし、そのうち帰ってきますよ」
「まあ、そうだね。海に行く前にお風呂は沸かしてあるから。潮を落としてくるといい。長谷川君も来るかい」
「そうする」
「わたしも行くぅ」
「先輩お背中流しますよ!」
「ありがとぉいくみちゃん」
一行は、浴場に向かった。
言ってしまえばよくあるタイプの大浴場で、外に6畳ほどの露天風呂がある。男湯と女湯の露天風呂は、竹でできた壁で遮られており、向こう側の声が聞こえる。
男3人が露天風呂に入ったタイミングで光彦が言った。
「木村君、覗きはいけないからね」
「…しねえよ」
「おい今間があっただろ」
「みーまーせんー」
『そうだよぉ』
女湯の方から声がする。紗英の声だ。
『先輩!お背中流します!』
『ありがとぉ』
それからしばらく紗英のくすぐったいような気持ちいいような声がこだました。男たちは黙っている。
『うわあ、紗英ちゃん、おっきい…』
『こたきちゃん、あんまり見ないでよぉ…』
身体が熱い。おそらくお湯の温度のせいだけではない。
「なあ木村」
「なんだ良平」
「宮城さんって、同級生だよな」
「おう」
『やだ、もぅ、いくみちゃんまでぇ…』
『いいじゃないですかー減るもんじゃないしー』
『そうじゃなくてぇ…んんっ…だめ、なのぉ…』
突然良平は立ち上がった。
「俺そろそろ出るわ」
「おう」
「僕はまだいることにするよ。……他意はないよ!」
良平は、腰にタオルを巻き、浴槽から上がった。それから脱衣場に行って、用意して貰った浴衣に着替えて、浴場を後にした。
なぜ早々に上がったか、というのは、決して恥ずかしくなったとかそういう事ではない。梨乃の事が気になったのだ。どういう経緯で梨乃の事が思い浮かんだのかはさておき、朝からどこか元気が無い梨乃を、単純に心配しているのだ。
部屋にいるかと思い、女子部屋の方をノックしてみるが、返事はない。ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていなかった。躊躇したが、なにかあってはいけないと思い、ドアを開けた。
部屋の造りは男子部屋とほとんど同じで、入ってすぐに板間があり、左側にトイレと洗面台、それから1人用のお風呂などがある。玄関から入って真っ直ぐ奥に行くと、畳の和室があり、15畳ほどのスペースを襖で区切ってある。
中には荷物が置いてあり、ついでに、昼間のみほちゃんがごろごろしていた。先にみほちゃんが話しかけてきた。
「あ、こんにちわ」
「こんにちわ」
それからしばらく考えて、
「お兄ちゃんって、変質者なの?」
「違う。人捜し」
「ふうん。どんな人?」
「髪が短かくて、今回来た人の中で一番背が低い女の子」
「ああ、お母さんみたいな人か」
「お母さん?」
「ううんなんでもない。その人なら、食堂の方にいたよ」
「ありがとう」
良平は、不可解な言葉を頭の片隅に留めつつ、階段を降りていった。
階段を下りたすぐそこに食堂はあるので、来る時に気がつかなかったのだろうかと考えているうちに、食堂についた。
和室に、大きな低いテーブルが2つ置かれている。この宿に泊まれるだけの人が泊まっても少し余るだけのスペースがあるらしい。
良平は、食堂に一歩踏み出してすぐに事態に気がついた。廊下側からでは、テーブルが影になって見えなかったのだ。
「梨乃!」
慌てて駆け寄る。
抱き起こすが、意識はない。
「梨乃!」
テーブルの向こうには、梨乃が倒れていた。