1 彼女の未練
2月、少年は降りしきる雪を教室の窓から見つめていた。
「雪すごいねー積もるかな?」
少年の机に駆け寄ってきた髪の長い少女が話しかける。
「……」
しかし少年は窓の外を見つめたままだ。
「雪の日用のブーツ買おっかな。道ツルツルで危ないんだよねー」
少女は、少年が全く話を聞いていないのを気にしていない様子だ。どうやら慣れているらしい。
「えー、問3を……安達、やってみろ」
教卓に立った数学教師が、少年のクラスメートである安達を起立させ、黒板に長々と書かれた数式を解くように命じる。
安達は素直にそれに応じ黒板の前に立つと、黒板にうっすらと答えが書いてあって、それをなぞるかのようにその数式を解いた。「ううむ」と感嘆の声をあげる数学教師を尻目に、安達は自分の席に戻る。
少女は、少年の机に腰掛けそれを見ていた。
「えー、次の問題を……芹澤」
教室中の時間が止まったような気がした。数学教師はそれに気づくと「すまん」と言って、さっき自分で書いたばかりの数式を消してしまった。
この教室には、ひとつ、誰も座っていない席がある。そこは芹澤果穂の席だ。その机には、数学の教科書やノートのかわりに、黄色いフリージアが活けられている。彼女が好きだった花だという。
芹澤果穂は、今から1ヶ月ほど前、交通事故で亡くなった。
短い冬休みの途中、ニュースで流れた、大型トラックと女子高生による死亡事故。交差点で信号待ちをしていた人の群に、凍結した道路でスリップした大型トラックが突っ込んだのだ。重軽傷者多数、死亡、1人。その1人が、芹澤果穂だった。
その事実を告げられたクラスの面々は、誰もが思ったことだろう。
『どうして彼女が死ななければならなかったのか』
芹澤果穂は、活発な生徒だった。
部活にこそ入っていなかったが、地域のボランティア活動や、学校で行われる行事には積極的に参加し、いつも中心となってその場を盛り上げていた。
クラスメートに、芹澤果穂との関係性を訊ねれば、誰もが《友達》と答えるだろう。それくらい、彼女は誰にでも好かれ、その倍以上に誰でも好きになれる人だった。
「ねぇねぇ、なんで無視するのー」
机に腰掛けたままの少女が、足をパタパタさせながら少年に話しかける。しかし少年が返事をする様子はない。
「あんまり無視してると、こうだぞ~」
少女は机に登り仁王立ちになると、制服のスカートの裾を軽く持ち上げてヒラヒラさせ始めた。少年は顔色ひとつ変えない。
それどころか、他の生徒でさえ彼女の行動に興味を示さない。まるで、少女が見えていないとでも言うかのように。
「ほらほら~パンツ見えちゃうぞ~」
少年は小さくため息をついて、ノートの余白に小さく文字を書いた。それを書き終えた少年は、頬杖をついて書いた文字をノックするように指で叩いた。
少女は、スカートの裾を持ち上げたまま視線を落とし、それを読み上げた。
「なになに……『もう見えてる』……ええっ!?」
少女は慌ててスカートを抑えると「えっち」と言って机から降りると、自分の席に戻っていった。黄色いフリージアの活けられた、その机に。
◇◇◇
少年は、昔から彼女のような存在が見えていた訳ではない。加えて、最近になって見えるようになった訳でもない。少年は、彼女、芹澤果穂だけを見ることができるのだ。
芹澤果穂が死んだという話は、冬休みの間に友人を通して聞いていたのだが、実際に登校してみたら、芹澤果穂はそこにいた。
誰も彼女に気づくことはない。少年は、芹澤果穂が幽霊だということは一瞬で理解した。
別にこれといって特別な間柄でもない自分に、なぜ見えるのか考えている内に、彼女と目があった。
それからずっと、こんな調子だった。
昼休み、誰もいない空き教室が、冬休みが明けてからの少年と芹澤果穂の溜まり場になっていた。
埃をかぶった机を軽く払い、そこに腰掛けると少年は言った。
「芹澤、ごめんって」
「やだ」
「カレーパンあげるから」
「……やだ」
「今ちょっと考えただろ」
「考えてない!どうせ食べられないし……」
「そっか、ごめん……」
素直に反省し、少しうつむく少年を、芹澤がなだめるように言う。
「まあまあ。人は間違える生き物だよ。良平君」
「随分と上からな意見だな」
少年の名前は長谷川良平という。成績は中の上くらいで、特に目立って何かしたという功績はない。
良平は笑って言い返すと、カレーパンの袋を開いた。辺りにカレーと油の香りが広がって、空腹を刺激する。そして遠慮なくそれにかぶりつくと、まだカレーのない場所を咀嚼し始めた。芹澤は、それをジッと見ている。
良平はその視線を感じ取って、話題を変えることにした。
「で、思い出したの?なにがしたいか」
「よくわかんないんだよねー」
芹澤はいたずらっぽく笑った。
もし芹澤が幽霊ならば、生前に何か未練があるはずで、その未練が無くなれば、芹澤は成仏できるのではないかと良平は考えたのだ。芹澤本人に話を聞いていろいろ試してはいるのだが、その効果が現れることはなかった。
今日数学の授業の時に芹澤が教室にいたのも「苦手だった数学を克服したら成仏するかも」といった芹澤の願いを尊重したものである。
「まあ何でもいいけどさ。ゆっくり思い出せばいいから」
「そう言われるとなぁ……」
芹澤は口元に人差し指を当ててうーんと唸っている。芹澤は何か考え事をするとき、こうして口元に指を当てる癖があるらしい。良平は芹澤が幽霊になってから気づいたのだが、本人には自覚すらないらしい。
カレーパンが半分ほど無くなった時、芹澤があっと声をあげた。
良平は驚いて、カレーパンを落としそうになるが、なんとかキャッチした。
「なっ、なんだよ」
「バレンタイン……そう!バレンタインだよ!」
「はぁ?バレンタイン?」
怪訝の顔をする良平に、少しもじもじしながら話を続ける芹澤。
「えーっとね、私ね、好きな人がいたの……」
「はぁ、それで?」
「その人に気持ちが伝えられなかったのが、未練なのかなあと思って」
良平は、芹澤にもそういう人がいるのだなと、半ば感心してしまった。芹澤は、その辺のローカルアイドルなんかよりも断然可愛いし、人当たりも良い。クラスメートに限らず、芹澤は人気があったから、そんな芹澤でも誰か特定の相手に対して恋をするのだと思ったからである。
「でも、どうするんだ?お前、チョコ作ろうにも触れないじゃんか」
芹澤は、生前自分が作ったものを除いて、ほとんどすべてのものに触れる事ができない。今座っている机も、触れる事はできるものの、別の場所に移動させる事はおろか、振動させることすらできない。
良平の問いに、芹澤はパッと明るくなったように答える。
「良平君が作ればいいんだよ!」
かくして、2人のバレンタインチョコ作りが始まった。