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それはありません(3)

 ピンと張りつめた空気の中、二人の男が微動だにせず向き合っていた。

 一人は槍を構え、もう一人は小脇に女を抱え、空いた片手にやけに分厚い刃を有する短刀を持っている。

 全身が深紅に染まった男に抱えられている女は、必死になって自分の気配を押し殺していた。

 次にこの場の空気が揺らいだ時に、確実に死人が出る。

 それをおぼろげに理解していた女は、叫び出しそうになるのを耐えていた。


 ……その前触れに、男達は気付かなかった。


 女を抱えている男に弾き飛ばされた黒猫が、壁際に(うずくま)っていた。

 対峙する主従を伺うように、その首は彼等の方に向けられている。

 と、黒猫は男が女を離そうとしないのを見て、その双眸を細めた。

 そして、誰も見ていない場所で、猫の形をしていた闇は、自らの影に沈む。




 ——世界が揺れる。


 ——変質する。




 ただ黙して地面に落とされていた影が、一様に伸び、広がり、重なった。

 黒が深まり、闇になる。

 地面を覆った漆黒は、どこまでも落ちていく奈落を思わせるほど、深い。

 ふつり、と、地脈からの力の供給が断たれ、ロイドの深紅が色を失う。

 咄嗟に動こうとするも、まるで影に縫いとめられたように、足が動かない。

「なっ」「っ」

「おじいちゃんっ?!」

 動揺は一瞬。

 ゲオルクは、躊躇(ちゅうちょ)せず手にした槍を大地に突き刺す。


「——《嘆き裂けろ》っ」


 鍵となる言葉に神槍は応える。

 異様な圧力が、ゲオルクの槍から発生した。


 そして。

 光に(さら)されていた闇が罅割(ひびわ)れた——いや、闇に覆われていた地面が砕けた。


 ——その槍が救世主に止めを刺した時、救世主を喪った嘆きのあまり、大地は裂けてしまったという。


 それが、救世主殺しの槍の権能の一端を表す言い伝え。

 ゲオルクが魅入られた神槍には、大地に干渉する力があった。

 だが、闇もさるもの。

 砕け散った欠片さえ呑み込むように、再び黒が侵食していく。

 跳躍することで大地の崩壊を回避したロイドは、その様子に眉を顰めた。

 一般的に、闇属性とは扱いが難しい。時空属性と並んで、制御が難しい属性からだ。特に日中では、反属性の光に相殺されてしまい、夜間よりも制御の困難さが跳ねあがるのである。

 正直、魔法の面をとっても、精霊の加護の面をとっても、光の中でここまで大規模に闇を操る存在を聞いたことがなかった。

 ロイドはチラリと、腕の中の女を見る。

 この女が先ほど叫んだ「おじいちゃん」には、ロイドに猫パンチを連打していた黒猫しか思い浮かばない。

 あの黒猫も、属性は違えど、赤いのの同類だったようだ。

 ——赤いのではなく、黒猫を味見するべきだったのだろうか。

 赤いのよりも力がありそうな黒猫は、さぞかし濃厚なのだろう。

 想像してみると、なんだか(よだれ)が出てくる。


 ……ロイドが気にしたのは、脅威度ではなく、食欲であった。


 けれど、ロイドの思考に多少なりともゆとりがあったのは、ここまで。


 ずぷり、と。

 黒から闇が、浮き上がってくる。

 鋭い爪。艶のない鱗に覆われた指先。

 それだけが、ロイドの背丈を優に超えている。

 直感のままに、ロイドは垂直に跳んだ。

 直前までロイドがいた場所で、五本の指先が空を掻く。

「お、おじいちゃ~んっ!」

 女が悲鳴を上げていたが、一見すると『おじいちゃん』という言葉から連想される、女と元黒猫の現在五本指のイキモノの血縁関係は見当たらない。種族以前に体格の隔絶が著しすぎる。混血が誕生するには、愛と同じぐらい体格差は重要だ。流石に、人族の倍はある巨人族と手のひらサイズの妖精族の混血など、聞いたことも見たことも無い。

 神槍の力により崩壊を繰り返す大地の上で、跳躍を繰り返していたロイドは、珍しく渋面を浮かべた。

 影を通して干渉されているのか、やたらと身体が重いし、何より地脈との接続が途切れて腹が減った。

 動くとやはり、腹が減るものである。

 そして、ロイドの目の前には、ちょうど良く五本指が存在していた。

 ——五本指を喰ったら、どうなのだろう。

 馴染みのある飢餓感に侵されつつあるロイドの思考は、容易くそこへ行きついた。

 五本指は、ロイドにとって『食べられるもの』である。

 またそれは、『食べてはいけないもの』だと、主君から釘を刺されたものではなかった。


 さあ食べよう。


 ロイドは、飢えを軽減することを優先するあまり、悩むことすら放棄していた。

 何かを感じ取ったのか、ピクリと五本指が震える。

 大地が砕ける音を掻き消すように、地響きのような唸り声が、敷き詰められた闇の奥から響いた。

 ひりつく大気は、ロイドにとって心地の良いもの。

 ロイドの使用目的のためには、そのくらいでなくては十全な機能を発揮できない。

「めし」

「えっ?!」

 ロイドの頭には、最早如何に速やかに五本指を食べるか、ということしかなかった。

 金属を打ち合わせるような音。

 それは、女を抱えていないロイドの右腕から聞こえていた。

 次の瞬間、ロイドの右腕を覆っていた布が切り刻まれ、鈍色に輝く紋様がふわりと虚空に舞った。

 世界の呪詛と呼ばれるそれは、独特の音色を響かせながら、ゆるゆるとロイドを取り巻く。

 めしのことで頭がいっぱいのロイドは、抱えていた女の衝撃を受けた表情に気が付かなかった。

 唸り声が、大きく、低くなる。

 ロイドの口元が、ゆるりと裂けた。

「——やめてっ」

 悲痛な叫びをあげて、女はロイドの腕に掴みかかる。

 虚を突かれたロイドが引き離す間もなく、王鞘以外のあらゆるものを切り刻む呪詛に、女の手が触れた。


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