それはありません(2)
ロイド視点*禁忌事項の仄めかしがあるため、ご注意ください
ロイドの世界は、基本的に酷く単純だ。
彼の周りにあるものは、大まかに『食べられるもの』と『食べられないもの』、そして『食べてはいけないもの』に分かれている。
ロイドにとって、『食べられるもの』と『食べてはいけないもの』の区別は、少々難しいものだった。
『食べられるもの』を判断するのはロイド自身だが、『食べてはいけないもの』を決めるのはいつだって他人だからだ。
特に彼の主君は、『食べてはいけないもの』に関して厳しく、ロイドに対して肉体言語で語ることも多い。
主君の判別は、ロイドにとって不可解な基準ばかりだが、ロイドは仕方なく従うことにしている。
——何故なら、ロイドは『王鞘』だ。
そう生きると、他でもないロイドが決めたのだ。
だから、排除対象になる『危険物』と認識されてはいけない。
……王の鞘は、己が主君より先に死ぬことを許されていないのだから。
◆◆◆
警告はなかった。
轟音と共に、分厚い部屋の壁が吹き飛ぶ。
きちんと整えられていた部屋は、一目でもはや使用不可能であることが分かった。
通常ならば、主君が頭を抱える大惨事である。
随分と見晴らしが良くなった部屋を、ロイドの腕の中の女が呆気にとられて見ていた。
何故だか、ロイドの飢えを緩和する芳香を漂わせていた女は、平凡な容貌をしていた。
けれど、昨日一口食べた赤いのよりも、遥かにロイドを惹きつける女だった。
薫りを嗅ぐだけでは物足りたくなり、ほんの少し味見をした女の血は極上という表現でもまだ足りない。
赤いのでも満たしきれなかったロイドの飢餓感が、血の一滴で拭い去られた。
けれど、ロイドの飢えを満たす希少な存在は、酷く脆いらしい。
ロイドにとっては細やかな気温の変化に適応できずに、倒れていたのがその証拠である。
徒人と変わらないだろう女は、きっと少し齧っただけでも、死んでしまうかもしれない。
女の脆弱さに口惜しさを抱きながら、ロイドは女を壊さないよう、慎重に抱き抱えた。
そして、主君の方を見てみれば。
穏やかな笑み。
常日頃主君が纏っている威圧感は、綺麗さっぱり掻き消えて。
——外見だけ、を見れば、実に爽やかな好青年と化していた。
「——いつか、こんな日が来ると、思っていたんだがな」
穏やかな、限りなく穏やかな声。
その瞳に浮かぶ、苛烈な光さえなければ、上機嫌なのだと勘違いしたかもしれない。
……そしていつの間にか、主君の足元にいた赤いのが、主君の背後の壁に張り付いて痙攣していた。
良い判断だ。
どうやら、主君がブチ切れたことを察しているらしい。
主君の家系の特徴なのだが、怒りが頂点に達したとき、彼等は怒りをあらわにするのではなく、穏やかに微笑む。
それを勘違いし、地獄を見た者は数知れない。
ある意味、非常に性質の悪い激昂の仕方だ。
主君は、稚い子供に言い聞かせるように、言葉を紡いだ。
「ロイド、その人を離せ」
「いやだ」
ロイドは、幼子の様に主君の言葉を拒絶した。
ようやく充足を知った今、それをロイドに与えるものを手放せるわけがない。
ロイドは、捕られないように女をしっかりと抱き込んだ。
「……あの、こんなに密着されるのは、ちょっと……」
「拒否する」
離れたら、居なくなってしまうかもしれないではないか。
「拒否したいのは、こっちの方ですよっ!」
「拒否するのは拒否する」
「なんでっ?!」
女はじたばたと暴れるが、ロイドは放す気はない。
二人を見ていた主君は、ふっと優しげに微笑んだ。
二撃目は、ロイドの頭を狙っていた。
神速の突き。
そして、そのまま回避したロイドの首を狙って薙ぐ。
突き。薙ぎ。引き。——変幻自在の攻撃こそが、槍術の真骨頂である。
ロイドは、その柄を蹴ることで槍の軌道を逸らした。
このまま部屋の中で主君と相対し続けるのは、ロイドにとって具合が悪い。
反転した槍の石突が自分に叩き込まれる前に、ロイドは両脚に力をこめ後ろに飛ぶ。
目を点にしている女を抱え、ロイドは壁の穴から戦略的撤退を計った。
城壁に点在する物見台を足場に、狙いを定められないよう何度も跳躍を重ねた末に、ロイドは地面が剥き出しになった場所——城の庭園——に降り立った。
ロイドが感じるのは、地面の下に蠢いている、巨大な流れ。
途方もない大河のような流動を、ロイドは躊躇いなく手元に引き寄せる。
「えっ?」
女の、戸惑うような声。
じわりと、ロイドの肌に血色の流れが幾筋も浮かぶ。
ロイドの髪も瞳も赤銅色のから、塗り替えられるように、深紅に変わった。
大地に流れる地脈の力を直接吸い出すのは、流石のロイドであっても体に負担がかかるのだが、こればかりは仕方がない。
徒人では体が爆散するところだが、ロイドはこうでもしなければ、腹が減って全力が出せないのだ。
ロイドの足元から、ゆっくりと地面が死んでいくのは、地脈の力を吸い出す弊害だ。
因みに、腕の中の女で補充する選択肢はなかった。
そうしたならば、ほんの一時だけこれ以上ないほど満たされるだろうが、後に残るのは、きっとどうしようもない虚ろだ。
何が主君の怒りに触れたのか、ロイドにはさっぱり理解できないが、主君であってもロイドは殺される訳にはいかなかった。
見上げると首が痛くなるような高さから、軽い音と共に主君が地面に降り立った。
穏やかな表情はそのまま。
その気配が空気を変えるわけでもないのに、気を抜けば槍の穂先が自分の心臓を貫く様を幻視する。
「ロイド、残念だ」
静かな視線が、ロイドを射抜く。
「人の味を覚えた獣は、処分するしかない」
もう、共生などできないから。
事実をただ、連ねるだけの言葉。
動きの止まった女を、ロイドは小脇に抱え直した。
ロイドは、主君の言葉を覆す術を持たない。
それでも、主君に殺される気はなかったが。
——だって、ロイドがいなくなったら、誰が主君を殺すのだ?




