それはありません(1)
息苦しさが、彼女の全身を支配していた。
不鮮明な彼女の視界に、銀色がちらつく。
——ごめんなさい
遠くなる五感の中で、彼女の首にかかる掌の感触が酷く際立っていた。
ごめんなさい……
愛してると、熱に浮かされた囁きの度に、手に込められる力が増していく。
銀色に触れようと伸ばした指先は、ただ空を掻いた。
……死ぬまで共に在りたいと、心の底から望んだことは、真実だったのに。
ごめんなさい。
私は、貴方をおいていく。
***
目が覚めると、レンの顔面すれすれに見知らぬ男の顔があった。
赤銅色の髪と瞳。
容姿は整っているものの、人混みに紛れて際立つほどではない。
どこか無機質な男の表情は、何となく、レンに獣を連想させた。
ぼやけたレンの頭に、閃きが瞬く。
確か、目の前の男は、屋台を開いていた彼女の客だったはずだ。
それで——
……そして?
至近距離にある男の瞳には、レンの知っている光があった。
不意に込み上げてくる既視感に、レンは、ああ、と溜息を吐く。
赤銅色の男は、義母や異母弟、そして、――彼に似ているのだ。
どんなにヒトを真似ても、中身を映すその眼差しは、どうしようもなく異質でしかない。
「めし」
鈍く軋みをあげる頭で、レンは思った。
——何故、自分は今日が初対面の成人男性にのしかかられて、首筋をふんふんと嗅がれているのだろうか、と。
「——ロ イ ド……」
地獄の底から響いてくるような声に、レンはビクッと震えた。
咄嗟に声がした方へ目を向けると、そこにいた男のあまりの迫力に、レンは顔を引き攣らせる。
濃い目の茶色、としか形容の仕様がない髪と瞳の男の見目は、客観的に見れは良いと分類される。
中性的というよりは精悍な男らしい容貌で、笑えば親しみが持てそうなのだが、はっきり言って今は非常に近づきにくかった。
原因は、その身に纏っている威圧感である。
別に悪人面でも何でもないのに、下手なゴロツキよりも余程恐ろしいのだ。
人柄は分からないが、絶対に対人関係で苦労していそうだ。
「お前、いつまでその人の匂いを嗅いでるつもりだ……」
何やら、聞き捨てならない言葉がレンの耳に入ってきた。
いつまで、ということは、赤銅色の男は過去から継続してレンの体臭を嗅ぎ続けていると、解釈できてしまうのだが……。
「レンちゃーん、起きたんか~……」
甲高い、子供の様な声が、床近くから聞こえる。
雰囲気が極悪の男の足元から、ひょっこりと赤いイキモノが顔を覗かせた。
本来円らなはずの瞳は、糸目になっているせいで、その真紅を見ることが叶わない。
——全長60㎝の赤いハムスターは、イファルドという名の生き物の仮初の姿でしかないことを、レンは知っている。
「イファ……大丈夫?」
「……で、できれば聞かないでいてくれた方が、うれしかったねん……」
イファルドの頭部は、毛がごっそりと毟られ、可哀想な見た目になっていた。
キズアトに薄っすらと産毛が生えだしているのが、余計に間抜けさを助長している。
「めし……」
イファルドの頭を丸かじりした男は、レンにのしかかったまま、イファルドをじ~っと見ていた。
「ウチはめしじゃないねんっ!」
イファルドが短い前脚で、禿げた部分を押さえた。
イファルドは以前の丸かじり体験が相当に恐ろしかったのか、前脚で頭部を押さえたまま痙攣をし始めてしまっている。
——そう言えば、自分はどうして寝台の上にいるのだろうか?
レンは記憶が断絶する直前の出来事を思い返してみるも、どうにもイファルドが男に丸かじりされた直後からがさっぱり分からなくなっていた。
「あの……」
自分は何故ここに?という、レンの質問は、男の奇行に阻まれた。
レンの首筋に、生暖かく湿ったものが這う。
「ひっ! ~~~~~~~~~~~~~~~っ?!?!?!?!」
レンは声なき絶叫を上げたが、男はそれを気にした様子もなかった。
咄嗟にレンはもがくが、男は子泣き爺のごとくレンにへばり付いて離れない。
混乱するレンの肌に、湿った吐息と共に、何か硬いものが当たった。
「んっ」
あむあむと、ふざけた異母弟がレンを甘噛みした時と同じ感触と共に、得体のしれない痺れがレンの体を走った。
空白状態のレンの思考をよそに、彼女の五感だけは正常に機能していた。
ほんの皮一枚に傷が入った程度の、むずかゆくさえある痛み。
ほんの少し傷ついた部分をなぞる様に、また濡れた感触がレンの表皮を這う。
「——うまい」
酷く満足気な吐息が、レンの耳朶にかかった。




