8.転生の夢
アーメン
――「聖書」より抜粋
目覚めると、男の目の前には竜がいた。
周囲には、それ以外何もない。何も見えない。ただのっぺりとした薄暗い闇が延々と続くのみである。
「人の子よ、聞こえているか」
老人のような重々しくも威厳のある声が辺りに響き渡る。
「私を呼ぶのは貴様かね」
異常な状況であるにも関わらず男は虚心坦懐、泰然自若、といった体で問い返す。その姿勢は生への無執着というよりは、むしろ強い自我と自尊心によって成り立っているように見えた。
「然り。我は竜。万の権能を持つ神」
「それは良かった」
そんなことはどうでもいい、とばかりに彼はふんと鼻を鳴らす。
「で、私は現在絶賛死亡中だったはずなのだが」
死んだ。
死因はよく覚えていない――本当に覚えていないのか、それとも思い出したくないのかはわからない――のだが、ただ彼は“自分は一度死んだ”とだけ知っていた。
ふむ、と彼は一つ頷く。
それにしてもこの竜は礼を失している。いきなりこのような場所に人様を呼び寄せ、自分から名乗ることもない。しかもその態度は上から目線の傍若無人ときたものだ。
で、あれば彼がやることはただ一つである。
「――とりあえず一発、殴らせたまえ。話はそれからだ」
苛ついたのでぶん殴る。
圧倒的上位に立つ存在であろうが関係ない。いや、むしろ彼からしてみればそちらの方がより殴りたいとすら思う。
一見すれば狂気の行動である。だが、彼にとっては非常に単純な理屈であった。
どうにもこの竜の態度には腹が立つ。故に殴る。
ただ、それだけである。
彼にも人並みに――あるいはその強固過ぎる自我を抑えるため、人並み以上に――自制心はある。理性もある。知恵も思慮もある。
だが殴る。
相手の反感を買おうが知ったことではない。
一度死んだものは、二度も殺せない。死を恐れて強大な存在を恐れるのなら理屈は通ろうが、彼は既に一度は死した身である。であればどうしてその強大な存在を恐れる道理があるだろうか。
「――――っ!」
次の瞬間には、駆けていた。
踏み込み、竜の腹に掌底を叩き込む。
「……ふむ」
堅い。鉄に一撃を加えたが如き、恐るべき堅さである。
竜の硬度を反芻するように手を開閉する。何か違和感があった。
……竜を殴っているというよりは、何かとんでもなく堅いものを殴っている感じがするな。
外見からして竜も堅いだろうとは思っていたが、堅さの性質が違う。そう、その性質の違いを例えるなら、岩と鉄のような――。
「……釈然としないが、まあ良いだろう。それでは要件をうかがおうか」
思考を打ち切る。今そんなことを考えても致し方ないことだろう。
竜はやや間を置いてから口を開いた。
「汝は汝の生きた世界とは異なる世界へと転生する」
ぐるり、ぐるりと周囲の闇が旋風のように小規模なねじれが生じ、まわり始める。
「汝は我が“祝福”を受け、国王の一人息子として生まれ変わる」
ねじれは次第に大きく、速くなっていく。
「……ふむ、成程。内容については理解したが」
しかし、だ、と彼は続ける。
「納得ができんな」
“理解”と“納得”は似て非なるものである。
“理解”はその理性と知性から由来するものであるが、“納得”はその感情から由来する。
つまるところ、である。
「舐めてんのか貴様」
先ほどからの傍若無人な態度に加え、決定事項を伝えるかのようなこちらの自由意志をまったく無視した物言いに彼は反感を抱いていた。
「私は私だ。私の自由意志を無視してどうこうするなど私が許さん。思い上がるな、爬虫類風情が」
「其は汝。汝は所詮は人の子。我は相対的な、あるいは絶対的強者なり」
「ふん。それを思い上がりと言うのだ。爬虫類」
ねじれが他のそれと衝突し、混じり、融け、そしてねじれは揺らぎとなり始める。竜が顔を上げた。
「時は来たれり」
呟きにも似た竜の言葉に呼応するように、男は浮遊感に襲われた。彼は直感で、強制的に転生されてしまうのだろう、と察した。
「“我らは被造物による被造物”
“我らは人形”
“我は伝え聞かせし者”」
ややくぐもった竜の言葉が、空間に響き渡る。
「“我は宣す”
“汝は王として転生する者なり”」
男の意識は次第に薄れ、竜の言葉は次第に遠く、聞き取りづらくなっていく。
「――“かくあれかし”」
その言葉と同時に、男はこの世界からいなくなった。




