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3.政界の怪物

いかに優れた政治的手腕を用いても、鉛の思想を黄金の行為にごまかすことは不可能である。


――ハーバート・スペンサー

 『シクラメン』の手を取り――その様子は重い荷物を引っ張る、というよりも、どこに行けば良いのかわからない幼子を連れて歩く兄の姿のようだ――、会場に戻ると横から声がかかった。


「ああ、陛下。こちらにいらっしゃいましたか」


 老いた外見――その実年齢を聞けば、余人であればどうしてこうも老いることができるのかと必ず不思議に思うほどに――をした男性だ。元は黒かったであろう髪や髭は白が大半を占め、そのいかめしい顔の額には深いしわが刻まれている。どれも見る人に男性の気苦労を伺わせる。

 それもそのはず、緋色に縁取られた彼のトーガは高級公職者――この国の執政――を示している。

 マルクス・アウレリウス・カト・執政公コンスリウス。この国の政務を執る者である。

 彼はオーレンに手を引かれる『シクラメン』を一瞥する。


「お手を煩わせましたな」

「いや、なかなか面白い話ができた。いい娘を持ったな、執政公」

「過分なお褒めの言葉、痛み入ります」


 軽く一礼し、ところで、と執政公は別の話題を切り出した。


「最近、帝国がまたぞろ不穏な雰囲気になって来ました」


 帝国。インガリア帝国。アモール王国の北に位置し、広大な領地を有する唯一神教の国である。

 その兵数は「人の海」とまで言われるほどに多い。強国と謳われるこのアモールの兵数でさえ、その軍団の十分の一もないだろう。


「では、近い内にアモール(ここ)に攻め込んでくる、と?」

「はい。恐らく二、三週間後には」


 王国は、その帝国と戦争中であった。

 形勢は、圧倒的に不利。帝国は暴力的な物量でもって、瞬く間にアモールの同盟国を陥落させ、ここアモール王国の都市に接近していた。


「帝国の経済は年中イクシーオーンの車輪が突っ込んだような有様です。そしてあの圧倒的な物量を維持するためにかかる戦費は尋常ではない。であれば、帝国は一刻も早く肥沃なアモールを手にし、焼けた“自国の経済”()に水をかける必要があります」


 柵の中によく肥えた羊がいて、その外には飢えた狼がいる。

 柵が破られた今、その腹を満たそうと狼が一刻も早く羊を襲おうとすることは火を見るよりも明らかだ。


「陛下と『シクラメン』――いや、失礼。陛下と王妃様のご成婚は真にもってめでたいのですが――」

「私は女を何人も娶り、何度も出陣する必要がある、と」


 オーレンの言葉で『シクラメン』の手がわずかに強張る。


「はい。帝国を迎撃するのであれば、そうならざるを得ないでしょう。もっとも帝国が文字通りその全兵力を傾けてくる、というのなら話は全く別ですが」

「あそこの兵士は畑から生えてきているようなものだ。よしんば全兵力を消滅させたとしても、帝国が新たに徴兵すれば三年も経たずに元通りだろうな」


 気の滅入る話である。彼は王であったが、それ以前に一人の人間であり男である。

 何人もの女を犠牲にする(めとる)必要があるというこの情勢は、やはり不本意だった。


「『シクラメン』――いえ、王妃様」


 執政公はオーレンの後ろにいる王妃に声をかける。


「帝国を打ち砕き王国を救うため、どうかお役目を遂行下され」


 執政公の表情は、真剣だ。彼の目の前にはもはや娘ではなく、王妃という肩書きの政略の具しかいない。

 それは父に反発を覚える『シクラメン』でさえも――いや、だからこそ――、少なからず彼女の心に傷をつけるものだった。


「……ええ、もちろんです」


 やや間はあったものの、王妃は頷いた。

 ぎゅ、と『シクラメン』の手に更に力がこもったのを感じた。


「……そのために、私は父から生を授かったのですから」


 半ば捨て身の、自虐染みた鋭い口撃。


「王妃様に竜と神々の祝福あれ」

「――――」


 それを、父親は――否。執政公は――表情一つ変えず、最敬礼と共に声高に定型句を謳い上げて会話を締め括ることで受け止め切った。

 『シクラメン』の手から力が抜け、するりとオーレンの手から滑り落ちそうになりそうになる。オーレンは、それをしっかりと繋ぎ止めた。

 “執政公”。それは本来任期制であるはずの“執政官”という役職に長らく留まり、再任され続ける政治界の怪物に対する畏敬と畏怖を込めた添え名(コグノーメン)である。

 国と政治。それが政界の怪物の全てであった。


「さあ、皆様ご傾注下さいませ!」


 唐突に、会場の中心から高らかな声が発せられた。

 曲芸師や演劇などの見世物は既にあらかた消化し終えたはずだ。

 不思議に思ってそちらを見てみると、そこには初老の男性がいた。

 黒髪のアカイア人。学者のメテウスであった。

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