Ⅴ
次に男の意識が戻った時は、既に日がのぼり、男の居る部屋にも朝日が差し込んでいた。
すぐそこが山だというせいもあってか、虫の鳴き声の他に、鳥のさえずりもが男の耳に入ってきた。
昨晩は男の記憶にある限り、ここ数ヵ月で一番夢見が良かった気がした。いや、正確ではない。ここ数ヵ月まともに眠れていなかったのだ。目を瞑り、眠りに落ちると必ず一度は悪夢にうなされて深夜とも早朝ともつかない時間に目を覚ます、それを繰り返していた。
それが今朝は、少女と会話を交わしたあとは悪夢にうなされる事もなく久方ぶりに熟睡できた気がした。
理由はわからなかったが、今日は普段よりも体が軽い気もする。
立ち上がり、軽く伸びをする。夜の冷え込みさえなければ冷房も暖房も必要ない、この時期特有の空気が男の肺を満たした。
「さて……」
男は呟き、身支度をととのえると部屋の襖を開けて廊下に出る。相変わらず歩くたびに音を立てる廊下を歩き、男は玄関へと向かった。
「あ、おはようございます」
玄関に向かうには、必ず台所の横を通ることになる。そこに足を踏み入れるとほぼ同時に、あの少女が声をかけてくれた。どうしてか、昨日から彼女の澄んだ鈴の音のような声を聞くたびに心が浄化されるような気さえする。
息を大きく吸って、吐いて。男はそうやって自らの意識の調子を整え、そして口を開いた。
「一晩の間だったけど、君には色々とお世話になっちゃったね。何というか、ありきたりだけど――」
そこで言葉を切り、もう一呼吸。少女の表情がほんの少し暗くなる。会って間もない、それも行きずりの関係とはいえ、別れというものは常に悲しみを伴うものだ。
「――ありがとう。僕は君に、なんだか大切な事を教えてもらった気がするよ」
そう言いおき、少女に背を向けて足を前に進める。
「……待ってください!」
男の背中に、少女の声が投げかけられた。男は一度立ち止まり、少女のほうに顔を向けた。
「あの、これ……」
少女はそう言って、男の前に手を差し出した。その手には、ストラップだろうか、紐の先に不思議な光を放つ透明な球と、金色の毛の房がついた飾り物が握られていた。
「……この地域に伝わる、お守りです。苦しいときも、故郷と遠く離れていても、神様はあなたの事を見ていますよ、っていう印だそうです」
少女が差し出したそれを、男は無言で受けとる。手のひらに乗せてみると、何故か懐かしいようなえも言われぬ感覚に襲われた。
男は少女がくれたお守りを改めてまじまじと見つめ、ほんの少しの間逡巡した。しかしすぐに視線を外すとそれをポケットに入れた。
「ありがとう。大切にするよ」
「駅まで案内、しましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
おずおず、といった感じでたずねた少女に男は簡潔に返事をして、再び背を向けた。
「あの……」
その背中に向かって、少女が言葉をかける。
「また近くにいらっしゃる事があったら、ぜひ寄ってくださいね」
男はそれに手をあげるだけで答え、玄関を後にする。そして、民家の敷地を出るところでふと振り向いた。
昨日訪れた時は暗がりで気づかなかったが、庭だと思っていたところは神社の参道で、男が道を反れて民家に入った場所、そのすぐ後ろには少し朽ちかけた鳥居が設えてあった。
よく見ると、表札にも「稲荷神社」の文字がある。男はつい先程に少女に貰ったお守りを取り出しそれを一瞥して、もう一度ポケットに戻した。
「神様はいつも見ている、逃げも隠れも出来ない、か……」
昨日の夜に少女が口にした言葉の一部をひとりごち、噛み締める。
ふと、男は昔の――まだ少年だった頃のことを思い出した。
男が子供の頃、まだ小学校にすら上がらない頃。小さな、古びた神社に、男――少年は母親に連れられて来たことがあった。
――ねえ、神様に、何をお願いしたの?――
母親が少年に、優しく問いかける。
『えー? ボクはね、おかしがいーっぱいもらえますように、っておねがいしたんだ』
そんな子供らしい答えに微笑む母親に、少年は『おかーさんは?』と舌足らずにたずねた。
――お母さん? お母さんはね――
優しさに満ちた表情のその女性は、短い沈黙を挟んで、再び言葉を紡ぎだした。
――私の息子が素直で、いい子に育ちますように、ずっと見守ってあげていてください、って――
「全く、世の中っていう物はよくわからないな。わかったつもりになっていて、これなんだから」
今の今まで忘れていたような事をふと思い出した男は溜め息をつき、やれやれといった風に首を横に振った。
そして一呼吸置き、昨日の夜に降り立った、あの小さな無人駅に向かって足を踏み出した。その男の表情はどこか清々しくもあった。