Ⅳ
どれくらい経っただろうか、男は食卓に俯せてただひたすらに彼自身の精神が落ち着きを取り戻すのを待っていた。普段ならば煙草を吸って自身を誤魔化すところだが、生憎その煙草は既に一本も残っていない。
こんなにも発作的に、そして鮮明にあの時の記憶が呼び覚まされたのは、男にとって初めての事だった。やはり自分が間違っている、罪を持っているのは都会ではなく、自分である、表面ではそう理解しているつもりでも、男の中のごく深い部分にある何かがその事実を頑なに拒んでいた。
(戻って、寝よう……)
男は心の中でまるで暗示をかけるかのように呟き、もと来た廊下へ足を運ぶ。
薄暗い廊下に足をつけるたびに、木でできた廊下が軋み、音をたてる。先程少女と話した時はうるさいほどに賑やかだった虫の声は、今はまるでそれが嘘だったかのように静まりかえっていた。静寂の中に響く、木のたわむ音はどこか懐かしく、しかしなぜか男の不安を掻き立てた。
それでも男は歩き続け、ついに廊下を突き当たる。右が男が案内された部屋、左が少女が寝ているはずの部屋だ。
男は、心ある人間が恋しくなった。都会にある、心の死んだ人の形をした何かではなく、つい先程出会った少女のような、「人間」が恋しかった。無性にあの少女に会いたくなった。その少女は男と襖一枚隔てたすぐ先で、子狐と一緒にいるはずだった。たった襖一枚に遮られた数メートル、その距離が男にはなぜか異常に長く感じられる。
思わず、少女の部屋の前の襖で立ち止まる。男の頭の中を、少女が部屋を出る前に口にした言葉がよぎった。
――何かあったら声をかけて下さいね。
(あの子と少し、話がしたい、それはもう、「何か」として十分な理由じゃないか)
男はそんな自己弁護を頭の中で組み立て、そっと襖に手をかける。
中を覗くと、部屋の中は既に明かりが消され、真っ暗になっていた。男が開けた襖の隙間からは決して強いとは言えないが光が差し込み、その光の筋は部屋に敷かれた布団の隅を掠め、暗闇に溶けていっていた。
(せめて寝顔を見るぐらい……)
男は自分に言い聞かせ、少女の部屋に足を踏み入れた。
少女を起こしてしまわないように、静かに布団の横に屈み込む。しかし布団に人間が入っているような膨らみはなく、枕元に狐が二匹――片方はあの、足を怪我した子狐だ――が寝ているだけだった。
そんな光景を見て、男は首を傾げた。彼女は一体どこに行ってしまったのか。部屋を出て廊下を歩いたのならば、男はあの床の軋みの音に気づいたはずだった。
男は改めて二匹の狐に視線を向けた。その二匹は手負いを包むように、あるいは優しく守るように身を寄せて眠っている。怪我をしていない狐のほうが体がわずかに大きい事も相俟ってか、その姿は兄弟か、あるいは親子のようにすら見えた。
「和む、な……」
男は自分でも気付かないうちに、口からそんな言葉が漏れ出ていた。少女の姿は見つからなかったが、二匹の狐の姿を見てどこか安心した男は自室に戻ろうと腰をあげようとした。その瞬間、不意に大きい方の狐の目が開き、こちらを見つめたと思うといきなり走り出した。そしてその狐はそのまま男が開けたままだった襖の隙間から出ていった。
そのあまりにも唐突な出来事に男は驚き、その場から立ち上がることすらできなかった。一体あの狐は何だったのだろうという疑問が今さらのように男の脳裏に浮かんだが、考えたところで何も結論が出ないということはあまりにも自明だった。
小さく溜め息をつき、男が立ち上がろうとしたその時、廊下の方から木の床が軋む音が聞こえてきた。
あっ、と思う間もなく、部屋の襖が開けられた。
「えっと……どうかなさいました?」
そこにいたのは、他に人がいるわけではないので当然と言えばそうなのだが、あの少女だった。
「え、いや……」
男はとっさに体裁を取り繕おうと口を開いた。
「君のほうこそ、どこに行っていたんだい?」
「え、あ……えっと」
少女は困惑するような表情になり、男から視線をそらした。この様子ならばうまく誤魔化せそうだ、と男は密かに心の中に思った。
「女の子に、そんなことを聞くのは、良くないと思いますよ……」
少女は意味深げに、ぼそりと口にした。その顔は暗がりの中だったが、どこか紅潮しているように見えた。
「それと、」
少女が再び口を開く。
「女の子の部屋に勝手に入るのは、あまり良いことじゃないと思いますよ……」
その口調には、不機嫌さというよりも羞恥の色が見え隠れしていた。
「その事は、申し訳ない」
男はそう言って、「ところで」と話題を変えた。少女が何をしていたのかは気になったが、これ以上この話をすると逆に男の方が詮索を受け、先程うまく少女の追及をかわした意味が無くなってしまう。
「ついさっき、枕元にもう一匹狐がいたんだけど……」
そこまで言って、視線で返事を促す。
少女は一瞬困ったような顔をして、しかしおもむろに口を開いた。
「たぶん、あの子のお姉さんです」
そう言いながら、少女は視線を枕元で眠る手負いの子狐に向ける。その視線は、どこか慈しみのある、守るべき年下を見るようなものだった。
そして、少女が再び言葉を紡ぎ出す。
「時々、うちに遊びに来るんです。本当はいまそこで寝てる子も、わたしが飼っている訳じゃなくて、いつの間にかここに居ついちゃっただけなんですけどね」
少女はそこで言葉を止めると、大きく欠伸をした。ふと気になって男が時計を覗いてみると、時刻は既に二時を回っていた。
「そうなんだ……今日はもう遅いし、用事も、うん、明日の朝でいいや。じゃあ、お休み」
男はそれだけ言って立ち上がり、少女の部屋を後にした。
今男にできる彼女への思いやりなど、所詮この程度しかなかった。いや、そもそも用事なんて、彼女の顔を見たいという意味のわからないものだけだったのだから。
「お休みなさい……」
背後から、眠そうな少女の声が聞こえてきた。そんな少女の声を聞くと、不思議なことに男も急激に眠気が強くなる。
貸してもらった部屋に戻り、布団に横になると、男は何も考える間もなく、そのまま眠りに落ちてしまった。