Ⅲ
少女に案内されながら歩いていると、いつの間にか村の外れの山に通じる道路を歩いていた。
ついさっきまで舗装されていたはずの道路は気づかないうちに土を固めただけのものに変わり、車の轍と、それに沿って並ぶ古ぼけた木製の電柱だけがそこが道路であることを主張していた。
村落にいたときよりも、虫たちの声の数が増しているようにも感じられる。電柱三本に一ヶ所程度の間隔で取り付けられた街灯には蛾だけではなく男が名前を知らないような虫たちが群がり、光に吸い寄せられているかのようにその周りを飛び交っていた。
「ずいぶんと山奥まで入っていくんだね」
男はかすかに不安を覚えながら、少女に問いかけた。
「もう、すぐそこですよ」
しかし少女はにこやかに答え、ほんの少し歩調を速める。
それから数十メートルと行かないうちに、男の視界に古風な、しかしだいぶ手入れが行き届いているらしい民家が目に入った。
「こっちです」
少女は一度その民家の門の前で立ち止まって男に声をかけると、何の躊躇もなくその民家の敷地に足を踏み入れた。
「ちょっと君、ここは普通の民家じゃないか!」
男は驚きのあまり、思わず大声をあげてしまった。しかし少女は全く意に介さない様子で庭を横切り、玄関の扉を開けて男を中に招き入れた。
「大丈夫ですよ、ここ、わたしの家ですし、わたしとこの子しか住んでませんし」
少女は戸惑いを隠せずにいる男を脇目に、しれっとそう答えた。
「……」
少女の言葉に、男は言葉を返すことができなかった。やれやれと首を振り、気を紛らすために煙草でも吸おうとポケットを漁る。しかしそこでさっき公園で落としたものが最後の一本だった事に気付き、溜め息をついた。
「……お邪魔します」
仕方なしに、男は少女の後を追うように玄関をあがる。そしてそのまま少女に案内されて、畳敷きの部屋へと通された。
「何か色々とお世話になってしまって……申し訳ない」
男は反射的にそう少女に告げる。「いえ、旅人さんは、優しい人ですから……」
しかし少女はどこかはにかむように言うと、部屋の隅の押し入れを開け、手早く布団を敷いていった。いつの間にか少女の胸に抱かれていた子狐は肩の上に移動し、片足を怪我しているにも関わらず器用にそこにしがみついていた。
「そんなこと、ないさ」
男はそう言いながら外套と帽子を脱ぎ捨て、その場に座り込んだ。布団を敷き終わった少女も、目線を合わせるように男の斜め前に腰を下ろした。
そして再び、男が口を開く。
「僕の心は、途方もなく汚れているさ。黒く、暗く、昏く……」
男は深く、重苦しい溜め息をつくと、でも、と言葉を続けた。
「でも、何でだろうね、君を見ていると、ほんの少し心が洗われるような気持ちになるんだ。そんな事で僕の汚れた、どす黒い過去が消える訳ではないのにね」
男はどこか苦しげに言い捨てる。こんな事を目の前の少女に愚痴ったところで、何も変わらないということは男にもはっきりとわかっていた。しかし、男は自らの口からこぼれ出る言葉をせき止める事はできなかった。
「僕は都会の殺伐とした雰囲気に負けて、いや――それは言い訳でしかないんだろうな。僕は、自分自身の弱さに負けて……」
再び深い溜め息をつき、男は顔を俯けた。
「いいえ、あなたの心は汚れきってなんて、いません」
唐突に少女が口を開き、男の言葉を遮った。男は驚いて頭を上げ、少女の顔を覗き込んだ。
そこにある少女の顔は、今までのようなあどけなさはなりを潜め、かわりに驚くほどの凛々しさを蓄えていた。
その様子は、男の方が少女よりも二倍は長く生きているはずなのにも関わらず、その年齢差を感じられないほど――いや、男よりも少女の方がずっと年上であるように錯覚されてしまうほどだった。語調も今までの少女のものとはうって変わり、男はそんな彼女の変貌ぶりに動揺を隠しえなかった。
男はやっとの事で「だけど」と言い返そうとし、しかしそれを拒むかのように少女は再び口を開いた。
「わたしには、分かるんです。いいえ、知っているんです。どうしてあなたがあなた自身をそんなに卑下し、忌み嫌うのか。都会を抜け出て、小さな村ばかり訪れる旅をしているのか」
男は少女に対して何も言い返す事が出来なかった。なぜこの少女が男の過去を知っているのかはわからなかったが、男は彼女の口調からはただならぬ、全智全能な何かを感じた。それはまるで、目の前の少女に神がとりついたようですらあった。
もうこれまでだ、もう自分の過去に犯した罪から逃れることはできない――そんな男自身の声が男の脳内に響き、こだまする。
そんな男の心の内を知ってか否か、少女はさらに言葉を続けた。
「そんな『過去』を知っていて、それでもわたしは、あなたの心はまだ汚れきってなどいない、と断言します。なぜなら、あなたは後悔することができる。他の人や、生き物に憐れみを向けることができる」
丁寧語と断定形の混じる独特な語り口で、少女は続ける。
「だから、自分の犯した罪に向き合って生きていけば、それでいいのです。人間に、神様のようになれ、聖人君子たれと言うのは、あまりにも酷ですから」
そこまで言うと、少女は口をつぐんだ。二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
お互いに、言葉が出ない。少女はあの、子供とは思えない表情のまま全てを語り尽くしたという様子で、男は狼狽え、少女の言葉を飲み込むのが精一杯という様相だった。
「つまり――」
先にその沈黙を破ったのは、少女の言葉だった。
「神様はいつも見ていますから、逃げも隠れも出来ない、ってことです。でも神様は絶対、いいところも悪いところも、全部見てくれてるんですよ」
そう言った少女の顔からは先程までの凛々しさは消え失せ、元の子供らしい無邪気な表情に戻っていた。
「君は、いったい……」
「ふふっ、秘密です」
少女の言葉とその変貌ぶりに呆気にとられていた男だったが、彼はそう言ったきり目の前の少女を見詰めることしか出来なかった。しかしそれに対して、少女はどこかおかしそうに笑うだけだった。
「じゃあ、」
しばらくして、再び少女が口を開く。
「夜も遅いですし、わたしは向かいの部屋にいますので、何かあったら声をかけて下さいね……お休みなさい」
そう言い残すと、少女は肩に乗ったままいつの間にか寝てしまったらしい子狐を胸に抱きなおし、襖を開けて部屋を後にした。
後には、男だけが残され、外で鳴いている虫の声が鮮明に聞こえてきた。何もする事がない彼は、電灯を消してつい先程少女が敷いてくれた布団に横になった。
「いったいあの子は、何なんだ……」
つい一人ごちて目を閉じると、数ヵ月前の記憶、少女の指摘した「過去」が断片的に、しかし鮮明に思い出された。
軸の曲がったゴルフクラブ。割れた花瓶。踏み潰された薔薇。悲鳴。硬く、しかし柔らかい手応え。鉄の臭い。飛び散った、赤というよりは黒の方が近い液体。へこんだ床。散らばった紙の束。何度も振り下ろされる、七番アイアン。ありえない方向に曲がった何か。果物ナイフ。物言わぬ有機物。
「……やめてくれ! もう、たくさんだ!」
いつの間にか、男は布団の中で体を丸め、そう叫んでいた。男の呼吸は荒く、心臓も早鐘のように鼓動を刻んでいた。
「そうだ! いまここでどうこう言ったところで、過去がどうにかなる訳じゃないんだ! だから、もう……!」
男は誰に向かってでもなく喚き、体を起こした。
「……クソッ!」
そこまで喚き叫んで、ようやく男は理性を取り戻した。ゆっくりと立ち上がったが、呼吸は荒いままで、動悸と目眩が男の体を襲った。
――落ち着け、落ち着くんだ。
そう男自身に言い聞かせ、水を求めて男は部屋を後にした。台所に向かい、そこで浴びるように水を飲み、すぐ横の食卓に座り込む。動悸こそ収まったものの、彼の心中はまだ穏やかにはならなかった。