Ⅱ
その村に土地勘があった訳ではなかったが、男はその日の宿を求めて村の中心部へと足を進めていった。これまでも既に数ヵ月の間、大きな街を避け目についた小さな村に滞在するという少し変わった旅を続けていた。それゆえか男は見知らぬ村の中を一人宿を探して歩くという行為が半ば日課になってしまっていた。
時刻はすでに夜九時をまわっていたので、男は恐らく宿が見つからないだろうということはわかっていた。男としてはどのみち一日も滞在しない村なので、手近な公園のベンチで煙草をふかしながら一夜を明かすのも悪くないとすら思っていた。
もっとも、今までも何度か宿がみつからずに公園のベンチで仮眠をとったり、駅の待合室で一夜を過ごしたりといった経験も男にはあったので、列車を降りた時点で宿がみつからないという事も想定はしていたのだが。
村落を軽く一回りしてみたが、宿屋が見つかる気配は全くなかった。男は小さな公園を見つけ、その公園のベンチに深く腰かけた。ふと口元が寂しくなり、煙草を取り出して口にくわえようとした。
しかし手が滑ってしまい、煙草は重力に従って無情にも地面に落ちてしまう。男は一度溜め息をつき、屈み込んでその煙草を拾おうとした。
しかし、そこでふと誰かから見られているような視線を感じ、顔をあげた。男が視線を感じた方へ目を向けてみても、そこには全く人の姿は無かった。しかし代わりに、遊具の陰に隠れて、小さな動物がうずくまったままじっと男の方を見つめていた。
男は煙草を拾うと、まるで吸い寄せられたかのようにその小動物の方へと足を進め、その動物の前で屈み込んだ。先ほどまで暗がりでよくわからなかったが、うずくまっている動物の正体はまださほど大きくもない子狐だった。
腹でも空かしているのだろうか、もしくは足かどこかを怪我しているのだろうか、男がすぐそばに屈み込んだにも関わらずその子狐は男の顔を覗き込むばかりで、その場から動き出す気配を見せなかった。
男はそんな子狐の様子を不思議に思いながらも、そのうずくまっている小動物に手を差し伸べた。それにはさすがに驚いたのか、子狐は小さく半歩ほど後ずさった。
男の視界に華奢な作りの狐の前足が映り込んだ。見ると、その左前足の一部分が本来の金色の毛ではなく、ちょうど血がこびりついたかのように赤茶けた色に変わっていた。
「……見せてみな」
狐に人間の言葉が通じるわけがない、男は頭ではそうとはわかっていたが、そう言葉をかけずにはいられなかった。
そっと手を伸ばし、子狐の足を軽く掴んだ。今度こそ逃げられると思ったが、しかしそれでも子狐はじっとその場を動かなかった。
改めて狐の足を見てみると、やはりと言うべきか、そこは怪我をして血が流れ出ていた。
傷口はさほど深くはない様子だったが、先程近づいても逃げ出せなかったのを見ていると骨が折れているようだったので、男は近くの茂みから手頃な太さの枝を拾い出し、ポケットに入っていたハンカチで副え木のように固定してやった。
「……ほれ。あんまり無茶するなよ」
子狐に言い聞かせるように呟いて、そっとその手負いの小動物を放してやった。
子狐は再びその場に座り込むと、どこか遠く、闇の中に視線を向けた。
男は立ち上がり、溜め息をつくとその場を立ち去ろうとした。
野生動物にとって、怪我はあまりにも致命的すぎる。手負いは仲間や家族からも見捨てられ、食物連鎖上でより上位の生物の餌食になってしまうのが、自然の摂理というものだ。
いくら人間が「かわいそう」となど思って気休め程度の処置をしたところで、その手負いの動物が生き永らえるということは、まず無いだろう。
それを思うと、男は自然の厳しさ、いや、人間社会の甘さというものを痛感せざるをえなかった。
「あっ、いた!」
ふと唐突に、公園に少女の声が響いた。
男は驚きつつも声のした方に視線を向けると、そこには上にこそ長袖のパーカーをかぶっているが、下に穿いているのはホットパンツという、いかにも慌てて家を飛び出したという風貌で、肩にかかるかどうかの長さの髪を向かって右側で纏めた、顔にまだあどけなさの残る少女が公園の入り口に立っていた。
その中学生ぐらいの少女は小走りに男のそばに駆け寄ると、座り込んでいた子狐を抱きかかえた。
「もうっ、探したんだから…」
少女はそう口にしながら抱きかかえた子狐に頬擦りをすると、怪我をした足に視線をやり、続いてその横に立っていた男に目を向けた。
「えっと……あなたが、この子の怪我の手当てを?」
「まぁ、そうだけど」
少女の問いに、男は困惑しながらもそう答えた。男としては、子狐の足に副え木をあてて縛ってやっただけだけの手当てだったので、そんなに大袈裟に言うものでもないと思っていたのだ。
少女の顔が一気に明るくなり、彼女は子狐を胸に抱いたまま半歩下がって深々とお辞儀をした。
「ありがとうございました! うちの子がご迷惑をおかけしたみたいで……なんとお礼をすればいいものか……」
そんな少女の様子を見て男はただ困惑し、狼狽えることしかできなかった。
「いや、気にしなくていいから、顔をあげて……」
男は宥めるようにそう言って、少女に向き直る。
「いえ、わたしだけお世話になるっていうのも申し訳なくて……何か、お礼をさせていただきたいんですけど……」
少女はそこで語尾を濁したが、男は少し面倒臭いことになったかな、と心のうちで思った。この手の言い種は、一見断る余地があるように見えて、実のところこちらが何かをお願いしたりしない限り一歩も後に引いたりしない事がほとんどだ。
しかしふとここが地元らしいこの少女にたずねてみるべき事を思い出し、口を開いた。
「じゃあ、ここら辺で寝泊まりできるような場所って、どこかわかるかな?」
男がそう少女に問いかけると、少女は少し悩むような表情を見せ、質問に質問で返した。
「えっと、ここらでは見かけない顔ですし……旅のかた、ですよね?」
「ああ、そうだけど」
男が答えると、少女の表情から曇りが消えて再び明るい顔に戻り、男の顔をじっと覗き込んだ。その視線は、男の瞳を通して何かを見透かすようですらあり、男は思わず目を逸らした。
少女はそんな男の様子を見て首をかしげ、しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「……なら、心当たりがありますよ。ご案内しますから、ついてきてください」
「あ、ああ」
少女の言葉に男はしどろもどろに答え、足を動かしだした。ついてきて、と言っていたにも関わらず彼女の狐を抱いていないほうの手は、いつの間にか男の腕を掴み、半ば少女が男を引きずるような格好になっていた。
男は先程からこの年下の少女の言われるままに流されてしまっていることに気付き、内心苦笑せざるを得なかった。しかし、女の子に声をかけられるということ自体は正直なところ満更でもなかった。もしこれが同年代の人間だったならば、間違いなく手を振り払っていただろう。
(それにしても、感情が分かりやすい子だ)
男はふと、都会にいた頃を思い出した。人々は皆疑心暗鬼に溺れ、子供も大人も顔面に貼り付いたような暗い表情で他人に心を読まれまいとしているか、もしくはそうやって壁を作る周囲の人間に不信感を常に抱いていた。もう既に数ヵ月前の光景なのにも関わらず、男はそんな都会の様相をまるで今見てきたかのように思い浮かべる事ができた。
それと比べると、目の前の少女が時折見せる屈託のない笑顔が、いかに穢れのないものなのか、嫌というほどに実感できる気がした。
「……田舎は、いいな」
ふと、男の口からそんな言葉が漏れ出た。
「旅人さん、どうかなさいました?」
その言葉に反応して、少女がこちらを振り向いた。
「いや、何でもない」
男ははぐらかすように答え、少女に前を向くように促した。
「……田舎なんて、全然いいところじゃないですよ」
しかし、どうやら男の言葉は少女に届いていたらしく、少女は呟くように言葉を紡ぎ出した。
「スーパーみたいなお店は夕方には閉まっちゃうし、友達と遊べるような場所もないし」
少女は一旦言葉を切り、そして、続けた。
「かわいい洋服を売ってるような店もなければ、ときめくような出会いもないし……それに比べたら、都会は人がたくさんいて、不思議なお店がたくさんあって、光かがやくような看板がたくさんあって……」
少女はそこまで言い切ると、小さくため息をついた。
そんな少女の姿を見ていると、男はこの無知な、そして心に汚れのない少女の事が羨ましくすら感じられた。ただ、実際の都会はこの少女が思い描いているような理想郷とはほど遠い、という事も男は身をもって知っていた。
「実際の都会は、そんなにいいところじゃないよ」
男は少し自嘲的にそう吐き捨てた。男の言葉を聞いた少女は、少し驚いたような表情をし、目を細めたかと思うと口を開きかけ、しかしすぐに口を閉ざした。
少女の胸に抱かれた子狐が、どこか悲しげに鼻を鳴らした。