Ⅰ
古い国と国の境界、海と山に挟まれた村にある、小さな駅。
秋の夜長に虫たちの声がするプラットホームには人影ひとつなく、まばらに立った電灯と、月明かりだけが線路を照らしていた。
これから冬を迎え、雪に閉ざされると陸路が鉄道と海沿いの幹線道路だけになる、その鉄道駅には駅員の姿すらなく、改札口にはもう十年近く使われていないであろう石油ストーブが放置されていた。
ふと、遠くから重く、地に響くような音が聞こえてくる。その音はだんだんと大きくなり、ついに山の陰からのびる線路上に、その姿を現した。
それは、ディーゼル機関車に牽引された普通列車、今日のこの駅の下り最終列車だった。
機関車のヘッドライトがその行く先を照らし、分岐器をかき分けてゆっくりとホームに近づいてきた。時おり車輪とレールが擦れる甲高い音や、レールの繋ぎ目を乗り越える独特の音が聞こえた。
列車はそのまま一番改札に近いホームに入線し、そして、止まった。
客車の扉が開いたが、もう夜も遅い時間帯である事も相俟って、一日に上下合わせても四十本もない列車であるにもかかわらず、この小さな駅で降りる乗客は一人の男を除いて誰も居なかった。虫の声と機関車のエンジン音だけが聞こえるホームの上で、その男は懐から煙草を取り出し、それを口にくわえライターで火をつけた。
男の口元から、煙草の煙が漏れる。
男は黒い外套に黒い帽子という、まるで旅人のようにも見える風貌だったが、奇怪な事にその手に鞄は見当たらず、袖から出た手の肌の色が不気味なほどに白く、彼の衣服とのコントラストをなしていた。
帽子の影に隠れたその顔は、しわもなく端正に整っていて、しかしそれでいてどこか「若さ」が抜け落ちているように感じられた。それは見ようによってはまだ二十代半ばにも見え、逆に既に五十近いと言われても違和感のない、年齢のわかりづらい容貌だった。
列車の行き先のほうの信号機は、いまだに赤い色を煌々と湛え、男が乗ってきた列車の出発を拒んでいた。
男は今まで乗ってきた、そしてこれから隣の街へと向かおうとしている列車を一瞥して、人の気配がしない、それでもいくつかの白熱灯がそこが廃墟ではない事を主張している駅舎へと足を踏み入れた。明治だか大正だかの頃に建てられたらしいその木造の古めかしい駅舎は、運賃表と時刻表、それとポスターが貼り替えられている以外はほとんど建設された当時の姿のまま残されていた。
乗車券を売っていたであろう窓口はその主を失い、村の人の計らいだろうか、大きめの不思議な生き物のぬいぐるみが代わりにその席を占めていた。
男は煙草をくわえたまま辺りを見回し、ひとつのポスターを目にして顔をしかめた。
煙草の煙を大きく吸い込んで、鼻から吐き出す。男は心が乱れた時、今までも幾度となくそうしてきていた。そうすることで、男はなぜか心を落ち着かせることができる気がしていたのだ。
しかし、男は煙草が美味しいと感じた事は一度もなかった。いつ頃からか、この煙草というものの煙たさに自らを預けることが多くなった。
そのポスターには、先ほどまでポスターを眺めていた、その男の顔によく似た、しかしどこか雰囲気の違う男の顔が描かれていた。
ポケットから携帯灰皿を取り出し、だいぶよれて短くなった吸いがらをその中に入れた。吸いがらから出る紫煙にほんの少し煙たそうに眉をひそめ、その男は無人の駅舎をどこか急ぎ足に出た。
その時、男が乗ってきた列車の行き先の方から、再び低い、しかしそれでいて疾走感のあるうなりと風切り音が聞こえてきた。男はその音を耳にして、思わずその音の方向に視線を向けた。
先頭車両に取り付けられたライトがまばゆいほどに光り、列車は速度を落とすことなく駅を通過していく。一瞬停まっている普通列車の陰に隠れ、そしてすぐに姿を現したかと思うと再び山の陰に隠れてしまった。
それは男が乗ってきたような重苦しい機関車の牽引する列車ではなく、どこか軽快さをも感じさせる、気動車と呼ばれる種類の列車だった。
男の視界に黄色がかった光の線を残して過ぎ去っていった列車は、ネオンサインや街灯、行き交う車のブレーキランプできらびやかに輝く、しかしそれでいて殺伐とした雰囲気と無意味で空虚な喧騒に包まれた都会へと急ぎ足に消えていった。東の方へと走り去ったそれは、恐らく今日の上り急行の最終列車だろう。
(都会の何が良いんだか。あそこは人を狂わせすらする)
男はそう心の中で毒づくと、前を向きなおり、再び足を進め出した。