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Etude  作者: 藤原建武
4/5

情景3


 庭先で二匹の蛾を見た。ひらひらと、軽やかに舞う。つがいだろうか。

 冬を越せない、儚い命。それでも春になれば、また新しい命が舞う。そうしてつないでいく。



 秋づきはじめた山並み。色彩はせめぎ合い、豊かな表情を呈していた。

 この夏にしたことといえば、一枚の絵を仕上げただけだ。十号、脇に抱えてもあまるほどのサイズ。ビニール紐で縛り、背中に背負う。自転車をこいで、美術館に向かった。

 稲穂は夏の終わりに刈られ、短い稲の残骸が、干上がった水田の中に点在している。

 冷たい風が、世界の色を変えていく。季節の巡りと、その終わりを予感する秋。霧也は、どれ一つ楽しむことができなかった。

 そんな苦労をしてまで運んだ絵は、二週間ほどで落選の通知がきた。

「残念だったね」

 不機嫌そうな霧也に、瑞希が話しかけてくる。

「べつに」

 素っ気ない様子にもめげず、

「どんな絵を描いたの? この前描いてたやつ?」

「木の絵。夏休みの間に描いた。」

「へぇ。インパクトが足りなかったんじゃない?」

「かもね」

 霧也は苦笑した。それに瑞希も笑う。

 霧也の描いたのは、カンバスの中央をぶち抜く、黒い太樹だった。そこに無数の、うろのように、苦悶を浮かべた顔を描き込んだ。血のような赤で塗りたくり、「死霊の木」と名づけた。もし人に見せれば、異常だとかなじられるだろう。自分でも分かっていたから、家族には見せなかった。コンクールに応募したのは、そこに何らかの評価を見出して欲しかったからだ。



 筆がのらないので、美術部には顔を出さなくなった。家に帰っても、そうそうに部屋へ引きこもる。家は静かだった。姉は夏の間に引っ越し、同棲をはじめた。

 奪われ、失われていく。その現実を目の当たりにし、あの日からずっと、半身をもぎとられたような、苦悶に苛まれた。

 テレピン油の臭いの染みついた部屋。霧也はベッドに腰かける。窓から差し込む薄明に、絵筆やパレット、散乱した道具類が、残骸のよう映し出される。

 返却された「死霊の木」は、まだ梱包されたまま。取り出さなくても、その絵は脳に焼きついていた。嫉妬と憎しみ、死んでしまった想い、霧也の死霊を養分にした、怨念の木だった。

 不思議と、それを描いている時は怒りに燃えていたが、描き上がってみれば、心は空虚だった。

「いつでも霧也を思い出せるように」

 白々しさに、怒りさえ覚えたが、今は違うふうに思えた。

 霧也が裏切りと憎むように、愛は形を変えた。姉もいつか、霧也のことを忘れてしまう、そんな不安に、一枚の絵を求めてきたのだろう。



 物心がついたのは、三歳ぐらい。最初の記憶は、電球の吊された天井だった。

 母にいつも、あやされていたのは覚えている。何かしらして、叱られた記憶もある。父の顔だけは思い出せない。

 母が再婚した時、引き合わされた今の父に抱いた感情は、「誰だろう?」といったものだった。抵抗はなく、すんなりと共同生活ははじまった。そして当時中学生の、姉に出会った。「弟ができた」と姉は喜んだ。よく山野につれてかれ、二人して泥だらけになった。

 そんなふうに過ごすうち、姉の部屋で折り紙で遊んでいると、

「ねぇ、絵のモデルになってよ」

 姉は画用紙と鉛筆で、ぼうっとする霧也を書いた。霧也はじっとしていられず、そのたびに叱られ、むっとしたものだった。

「できたよ!」

 自慢げに見せた姉の絵に、それに書かれているのが自分だと分からなかったが、その絵の上手さに感動した。霧也も画用紙に向かって、真似てみた。しかし顔の輪郭は不格好、体のパーツは不揃いだった。

 たちまち不機嫌になる霧也の手を取って、姉は描き方を教えてくれた。

 そうして姉の誕生日、霧也は姉の似顔絵を描いた。大好きな姉のまわりを、不器用な花で囲んだ。

 姉は喜んでくれた。頭をなでてくれたのが嬉しかった。

 成長するにつれ霧也の中には、姉の美しさを、すべて描きとりたいという想いがふくらんでいった。その想いが強いほど、今の自分が姉を描くことに抵抗を感じた。

 その躊躇いの果てに、姉は去った。それはどうすることもできないことだったのだろう。また当然でもあった。それでも霧也は姉を憎んだ。そして憎んだ事実に、いつかはこの想いも消えていくことに気づいた。

 姉も忘れていってしまうだろう。次に会う時は、弟ではなく、他人かもしれない。

 だから、すべての想いが剥がれ落ちていく前に、描き留める。



 描きためたスケッチブックを引ったくった。本棚が崩れる。姉を写した絵を探す。家族写真もあさった。不機嫌そうな霧也と一緒に、笑う姉の写真があった。二人でたくさん遊んだ。いろんなところにも行った。

 次々に涙が込み上げてきた。その雫の一つ一つを、別離と受けとめた。

 「死霊の木」から、麻布を剥がす。そして新しい布に張り替えた。

 この絵もまた、紛れもなく自分だろう。だが同時に、その凶暴な感情と相反する、姉への思慕、祝福の気持ちがある。

 今度はそれを描くんだ。下絵は大まかだった。人間の立ち姿の輪郭と、背景のイメージを書き込む。パレットに絵の具を取り出し、筆を油につける。それで絵の具を溶き、描き入れた。たちまち部屋は、揮発した油に臭くなった。窓を開け忘れていた。それにも関わらず続け、頭痛に襲われたあたりで窓を開ける。清涼な、秋風が吹き込む。夕暮れに、野山は金色に輝いていた。トンボの影が、遠くの田園に見えた。

 季節の花を、贈ろう。そんな想いが生まれた。花に季節の巡りを託す。その中で彼女は笑う。去っていくことを悲しむことはない。また会えるのだから。次の春にも、変わらない笑顔に会える。そのために、この絵を描く。



 夜を徹して、一夜のうちに描き上げた。疲労感より達成感の方が強い。その二つに、霧也は朝の日差しと、鳥のさえずりを聞きながら、泥のように眠った。白いドレスを着た姉。それを囲む春夏秋冬。冬には雪を。雪深い山間の農村を思い、雪の結晶を重ねた。

 もしコンクールに応募しても、落とされるのが関の山だろう。構図も構成もばらばらだ。それでもここにはすべてがある。姉と過ごした季節、彼女の美しさ。

 絵の中から見守る彼女の眼差しは、優しかった。


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