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Etude  作者: 藤原建武
3/5

情景2


 自然が芸術を模倣するという。しかし風景画を描くということは、自然の模倣だ。

 霧也は写生しながら、仮にそうだとするのなら、それはセザンヌやゴッホのような、その瞬間を切り取り、確かに存在させる境地に達してこそ、はじめていえるのだろうと思った。

 鉛の、手汗に黒ずんだ風景。目の前にあるのは、山野と、それを追い越そうとする入道雲だった。

 家から少し走ったところ、町外れに、霧也はよく来た。ここは絵の材料の宝庫。季節や天候、時間で表情を変え、その時々を楽しみ、学ぶことができる。

 その中で、特に好きな季節はあるかと聞かれれば、秋とでも答えるだろうか。夏は好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いじゃない。夏の風景は好きかと聞かれれば、嫌いじゃない。

「じゃあ描くのは?」

 と晶子は聞いてくる。薄手のシャツが、日に透ける。吹きつける風をはらみ、揺れていた。

「嫌いだね」

 霧也はむべもなくいう。

「見る分にはいいけど、描く分には。なんかごちゃごちゃしている」

「なによ、せっかくわざわざ連れてきてあげたのに」

 日曜は役場も休み。よく写生をしに、車で連れて行ってもらっていた。晶子は折りたたみ式の椅子に腰かけ、水彩を手に取る。水彩画はその場で描けるから便利だ。ただ性に合わない。

「霧也は、輪郭を全部とろうとするから、大変なんだと思うよ。どうせ厚塗りしちゃうんだから、大まかにでいいんじゃない?」

「うん」

 葉を一枚一枚、丁寧に書いていた頃もあった。鉛筆画なら、そこまではしないまでも、書き込むことで質感をもたせる。油彩なら、厚塗りだから無縁だ。水彩は下絵が浮くので、大まかな輪郭をとり、うっすらと色をのせる。重ね塗りで色合いを出して、風景を描く。

 霧也は絵に関しては、姉の助言を聞くが、すぐにできるかといえば、話はべつだ。自分の中に実感が生まれなければ、そのとおりに動けない。

「そういえば、俺が絵を描くのって、姉さんの影響かな?」

「かもね。今みたいに、よく連れ回したっけ。出かけたくないって、ごねてたなぁ」

「だから、いちいち昔の話すんなよ!」

「今じゃすっかり、絵描きになっちゃったね」

「姉さんは反対に、描かなくなったね。仕事忙しいから?」

「かなぁ? なんか描いているより、霧也の絵を見てる方が好きだからかな?」

 鉛筆の芯が折れる。

 それに晶子は笑う。

「つーか、俺より姉さんのが上手いじゃん。高校の時、コンクールで受賞したじゃん」

「町のコンクールだよ? 百人もいないし、たいしたことないよ」

「俺はそれを目標にしてるよ。水彩じゃ勝てないけど、油彩なら負けない」

「油彩、臭いから嫌いなんだよね」

 それに霧也はむすっとする。

 晶子は肩をすくめて笑った。



 山から吹き下ろす風。いつの間にか雲は、頭上を覆っていた。あたりは暗くなり、風が湿り気をおびていた。

 晶子は顔を上げ、

「なんか雨が降りそうね」

「確かに」

 車は農道にとめてある。

 慌てて片付けている間に、大粒の雨が降り出した。それに晶子は悲鳴をあげ、スケッチブックを抱えながら走る。霧也は椅子まで抱えて、そのあとを追いかける。

 そそくさと晶子は車に乗り込む。霧也は遅れて助手席に座った。道具類は後部座席に放る。

「すごい雨」

 写生していた場所からここまで、五分足らずの距離。それなのに全身がぐっしょり濡れていた。

 フロントガラスの向こうで、強く降る雨は、地面にあたって砕け、霧のように広がる。白い靄に、あたりは灰色になった。

 霧也は台無しになったスケッチブックを見て、ため息をもらす。安物の用紙は、水にすぐふやけてしまう。高級な水彩用の画用紙なら、水に濡れても、ふやけ具合が少なくてすむ。姉が使っているのがそうだったが、重ねた紙の側面を糊づけし補強したもので、びしょ濡れになった所為で剥がれていた。

「あー、高かったのに」

 泣きそうな声でいうと、ぞんざいに後部座席に放る。霧也もそれにならう。

 霧也はそこで、雨に濡れて、姉のシャツが透け、下着が浮いているのに気づいた。すぐに顔をそらすが、つい横目で見てしまう。

 晶子は気づきもせず、

「風邪引くから、服ぬいだ方がいいよ」

 気にした様子もなく、シャツに手をかけ、ヘソまでまくる。。

「な、なにしてんだよ!」

「べつに姉弟なんだからいいでしょ? ついこの間まで、一緒にお風呂入ってたじゃん」

「小六までだよ!」

「つい最近じゃない」

 晶子はシャツを脱ぎ、窓をおろすと、外に出して絞る。

 霧也は目が釘付けだった。黒い下着、寄せられた胸、着やせするタイプだ。薄暗い車の中、濡れた肌に、息をのんだ。

「ほら、霧也も脱ぎなさいよ。風邪引くよ」

「ああ、うん」

 霧也はおずおずと脱ぐ。なんとか姉を見ないでいるのに必死だった。

 晶子はシャツを座席にかぶせ、

「乾くまで待ちましょう。途中誰かに見られても嫌だし、こんな格好じゃ帰れないわ」

 笑いながら霧也を見る。霧也は不機嫌そうにそっぽを向いた。まともに顔を見られる自信がなかった。

「なに、怒ってるの?」

「べつに」

「どうしたの?」

 身を乗り出して、顔を近づけてくる。霧也はその胸に目がいった。そんな自分に苛立ちを感じ、あまりに無防備な姉に、つい頭にきた。

「姉さんは、俺のことを弟としか思ってないのか?」

「当たり前じゃない。弟じゃなかったら何よ?」

 馬鹿なことを言ってしまったものだ。それは当然のことなのだが、霧也の心を暗くした。本当の弟と思ってくれるのは嬉しい。だが霧也は、どうしても姉と思えなかった。

 晶子は少し寂しそうな顔で、霧也を見ている。「俺だって男なんだ」と言いたかった。だがそれを言えば、すべてが壊れてしまうような気がした。姉にとって自分は弟でしかないし、だからこうして、こんなにも無防備なのだろう。

「ねぇ」

「うん?」

「今度、私描いてよ」

「やだよ」

「なんでよ!」

「難しい」

「だから、それどういう意味?」

 まだ描ける実力じゃない。その言葉を呑み込み、反撃に出る。

「なんでそんなに描いて欲しがるんだよ?」

「うーん、記念かな」

 歯切れの悪い言い方だった。

「記念ってなんだよ」

「それを見れば、いつでも霧也を思い出せるように」

 その言葉が、どうして嬉しくなかったのだろう。いつでも思っていてくれる、という意味なのに。

「どういうことだよ?」

 語気が強くなる。寒いからか、体が震えた。不吉な予感がこみ上げる。

 晶子は照れくさそうに笑い、困ったような目で霧也を見た。

「今、付き合っている人がいるの。もうすぐ一緒に住むから、その思い出に」

 晶子は恥ずかしそうに、顔を隠す。足をばたつかせ、

「あー、やっぱり恥ずかしい。まだお父さんにもお母さんにもいってないのに」

 霧也は、口をきくのさえ億劫になった。晶子は唇を結び、ずっと恥ずかしそうにしていた。だから余計な会話もなく、霧也の心中を、知られることもなかった。

 降りしきる雨、視界を覆う靄。打つ雨音に、心は掻き乱された。どんなことを言えばいいのだろう。「おめでとう」「よかったね」、それとも本心を打ち明けるべきか。

 躊躇いの中、車は走り出す。

「霧也に、一番最初に聞いて欲しかったんだ」

 それは残酷さ以外の、何ものでもなかった。


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