情景2
自然が芸術を模倣するという。しかし風景画を描くということは、自然の模倣だ。
霧也は写生しながら、仮にそうだとするのなら、それはセザンヌやゴッホのような、その瞬間を切り取り、確かに存在させる境地に達してこそ、はじめていえるのだろうと思った。
鉛の、手汗に黒ずんだ風景。目の前にあるのは、山野と、それを追い越そうとする入道雲だった。
家から少し走ったところ、町外れに、霧也はよく来た。ここは絵の材料の宝庫。季節や天候、時間で表情を変え、その時々を楽しみ、学ぶことができる。
その中で、特に好きな季節はあるかと聞かれれば、秋とでも答えるだろうか。夏は好きか嫌いかと聞かれれば、嫌いじゃない。夏の風景は好きかと聞かれれば、嫌いじゃない。
「じゃあ描くのは?」
と晶子は聞いてくる。薄手のシャツが、日に透ける。吹きつける風をはらみ、揺れていた。
「嫌いだね」
霧也はむべもなくいう。
「見る分にはいいけど、描く分には。なんかごちゃごちゃしている」
「なによ、せっかくわざわざ連れてきてあげたのに」
日曜は役場も休み。よく写生をしに、車で連れて行ってもらっていた。晶子は折りたたみ式の椅子に腰かけ、水彩を手に取る。水彩画はその場で描けるから便利だ。ただ性に合わない。
「霧也は、輪郭を全部とろうとするから、大変なんだと思うよ。どうせ厚塗りしちゃうんだから、大まかにでいいんじゃない?」
「うん」
葉を一枚一枚、丁寧に書いていた頃もあった。鉛筆画なら、そこまではしないまでも、書き込むことで質感をもたせる。油彩なら、厚塗りだから無縁だ。水彩は下絵が浮くので、大まかな輪郭をとり、うっすらと色をのせる。重ね塗りで色合いを出して、風景を描く。
霧也は絵に関しては、姉の助言を聞くが、すぐにできるかといえば、話はべつだ。自分の中に実感が生まれなければ、そのとおりに動けない。
「そういえば、俺が絵を描くのって、姉さんの影響かな?」
「かもね。今みたいに、よく連れ回したっけ。出かけたくないって、ごねてたなぁ」
「だから、いちいち昔の話すんなよ!」
「今じゃすっかり、絵描きになっちゃったね」
「姉さんは反対に、描かなくなったね。仕事忙しいから?」
「かなぁ? なんか描いているより、霧也の絵を見てる方が好きだからかな?」
鉛筆の芯が折れる。
それに晶子は笑う。
「つーか、俺より姉さんのが上手いじゃん。高校の時、コンクールで受賞したじゃん」
「町のコンクールだよ? 百人もいないし、たいしたことないよ」
「俺はそれを目標にしてるよ。水彩じゃ勝てないけど、油彩なら負けない」
「油彩、臭いから嫌いなんだよね」
それに霧也はむすっとする。
晶子は肩をすくめて笑った。
山から吹き下ろす風。いつの間にか雲は、頭上を覆っていた。あたりは暗くなり、風が湿り気をおびていた。
晶子は顔を上げ、
「なんか雨が降りそうね」
「確かに」
車は農道にとめてある。
慌てて片付けている間に、大粒の雨が降り出した。それに晶子は悲鳴をあげ、スケッチブックを抱えながら走る。霧也は椅子まで抱えて、そのあとを追いかける。
そそくさと晶子は車に乗り込む。霧也は遅れて助手席に座った。道具類は後部座席に放る。
「すごい雨」
写生していた場所からここまで、五分足らずの距離。それなのに全身がぐっしょり濡れていた。
フロントガラスの向こうで、強く降る雨は、地面にあたって砕け、霧のように広がる。白い靄に、あたりは灰色になった。
霧也は台無しになったスケッチブックを見て、ため息をもらす。安物の用紙は、水にすぐふやけてしまう。高級な水彩用の画用紙なら、水に濡れても、ふやけ具合が少なくてすむ。姉が使っているのがそうだったが、重ねた紙の側面を糊づけし補強したもので、びしょ濡れになった所為で剥がれていた。
「あー、高かったのに」
泣きそうな声でいうと、ぞんざいに後部座席に放る。霧也もそれにならう。
霧也はそこで、雨に濡れて、姉のシャツが透け、下着が浮いているのに気づいた。すぐに顔をそらすが、つい横目で見てしまう。
晶子は気づきもせず、
「風邪引くから、服ぬいだ方がいいよ」
気にした様子もなく、シャツに手をかけ、ヘソまでまくる。。
「な、なにしてんだよ!」
「べつに姉弟なんだからいいでしょ? ついこの間まで、一緒にお風呂入ってたじゃん」
「小六までだよ!」
「つい最近じゃない」
晶子はシャツを脱ぎ、窓をおろすと、外に出して絞る。
霧也は目が釘付けだった。黒い下着、寄せられた胸、着やせするタイプだ。薄暗い車の中、濡れた肌に、息をのんだ。
「ほら、霧也も脱ぎなさいよ。風邪引くよ」
「ああ、うん」
霧也はおずおずと脱ぐ。なんとか姉を見ないでいるのに必死だった。
晶子はシャツを座席にかぶせ、
「乾くまで待ちましょう。途中誰かに見られても嫌だし、こんな格好じゃ帰れないわ」
笑いながら霧也を見る。霧也は不機嫌そうにそっぽを向いた。まともに顔を見られる自信がなかった。
「なに、怒ってるの?」
「べつに」
「どうしたの?」
身を乗り出して、顔を近づけてくる。霧也はその胸に目がいった。そんな自分に苛立ちを感じ、あまりに無防備な姉に、つい頭にきた。
「姉さんは、俺のことを弟としか思ってないのか?」
「当たり前じゃない。弟じゃなかったら何よ?」
馬鹿なことを言ってしまったものだ。それは当然のことなのだが、霧也の心を暗くした。本当の弟と思ってくれるのは嬉しい。だが霧也は、どうしても姉と思えなかった。
晶子は少し寂しそうな顔で、霧也を見ている。「俺だって男なんだ」と言いたかった。だがそれを言えば、すべてが壊れてしまうような気がした。姉にとって自分は弟でしかないし、だからこうして、こんなにも無防備なのだろう。
「ねぇ」
「うん?」
「今度、私描いてよ」
「やだよ」
「なんでよ!」
「難しい」
「だから、それどういう意味?」
まだ描ける実力じゃない。その言葉を呑み込み、反撃に出る。
「なんでそんなに描いて欲しがるんだよ?」
「うーん、記念かな」
歯切れの悪い言い方だった。
「記念ってなんだよ」
「それを見れば、いつでも霧也を思い出せるように」
その言葉が、どうして嬉しくなかったのだろう。いつでも思っていてくれる、という意味なのに。
「どういうことだよ?」
語気が強くなる。寒いからか、体が震えた。不吉な予感がこみ上げる。
晶子は照れくさそうに笑い、困ったような目で霧也を見た。
「今、付き合っている人がいるの。もうすぐ一緒に住むから、その思い出に」
晶子は恥ずかしそうに、顔を隠す。足をばたつかせ、
「あー、やっぱり恥ずかしい。まだお父さんにもお母さんにもいってないのに」
霧也は、口をきくのさえ億劫になった。晶子は唇を結び、ずっと恥ずかしそうにしていた。だから余計な会話もなく、霧也の心中を、知られることもなかった。
降りしきる雨、視界を覆う靄。打つ雨音に、心は掻き乱された。どんなことを言えばいいのだろう。「おめでとう」「よかったね」、それとも本心を打ち明けるべきか。
躊躇いの中、車は走り出す。
「霧也に、一番最初に聞いて欲しかったんだ」
それは残酷さ以外の、何ものでもなかった。