情景1
開け放った窓。皐月の空の雨がやみ、葡萄色の夕暮れだった。その色さえも、ゆるやかに流転していく。紫から緑へ、黄色から群青へ。雲は燃えるように輝き、雨に濡れたグラウンドの水溜まりが映す。
霧也は見るべくもなく、カンバスに、油で溶いた絵の具を入れる。美術室の中は、テレピン油の臭いが立ち込めていた。
枝を絡ませ合う木々の下絵に、灰色に近い青空が描かかれた。薄く色を入れ、重ね塗りをしていく。分厚くなったら、ペインティングナイフで切り取る。繊細な鉛筆画の苦手な霧也は、油彩が性に合っていた。
美術室にいるのは霧也だけだった。そこへ、甲高い声が何かやりとりしながら、廊下をやってくる。引き戸が、がらがらと音を立てた。そして最初に、
「すごい臭い」
人間の嗅覚は強烈な臭いに、三十秒ほどで麻痺する。慣れというのも怖いもので、霧也はまったく気にならなかった。
「氷上くんだけ?」
先の女子が言う。もう一人はその後ろで様子をうかがっていた。
霧也は筆をとめ、
「うん。俺だけ」
「先生は?」
「職員室じゃないか」
それに先の――高野瑞希は、口をすぼめる。
「えぇ、まだ風景画しあがってないのに」
「勝手に出してやればいいじゃん」
「絵の具とか、どこにしまってあるかしらない」
霧也はため息をもらす。パレットを置き、筆をエプロンに差して、立ち上がる。
「そこの倉庫の中に、クラス別に入ってるよ」
霧也の案内で、瑞希もついてくる。美術室に横付けする形で、所狭しと美術品が収容されていた。その中に、霧也が一年の時につくった、紙粘土のモンスターを見て、気恥ずかしくなる。どうにも立体の才能もない。
「なんかカビ臭いね」
「うん」
霧也はアクリル絵の具をしまってある、ダンボールを引き出す。
「この中に入ってるよ」
「ありがとう!」
瑞希はにっこりと笑った。なんとなく照れくさくなった霧也は、頭をかき、そこで指が汚れていることに気づく。汚れきったエプロンに指をなでつけながら、倉庫を出た。
その後ろから瑞希が、
「氷上くんて、美術部だったんだ」
「うん」
「どうりで絵が上手いんだ」
「そうでもない」
「でも、美術館に展示されたんでしょ?」
「されただけ」
ぶっきらぼうな霧也の態度に、瑞希は呆れたような顔をした。
気を取り直して、カンバスに向かう。瑞希の言葉が響いた。それを否定する。本当に描きたいもの、それをまだ、描くことができない。全然足りなかった。
瑞希はスケッチブックを広げ、授業の課題の、風景画を描く。風景画は時々刻々と移り変わる、一瞬の表情を切り取らねば意味はない。ましてや実物を見ずに描くものではないが、それは霧也にも言えたが、そこらへんは道具の違いだろうと、自分を弁護した。
木の下闇――深い森の中は、夜のように暗い。その中から見上げた空。記憶にある情景の一つ。懐かしさと、その時の想いを込めた。
そんな霧也の心理を知るわけもなく、瑞希は友人と談笑し、霧也の集中を掻き乱した。
霧也は中学の美術部に所属していた。幼い頃から、絵を描いていた。なら好きなのだろうが、一つのことに打ち込むと、好きとか嫌いの前に、その行為が当然のもののように思えてくる。
瑞希に、「絵が好きなんだね」といわれたが、「べつに」と返した。
適当に見切りをつけて下校し、自転車で田園を走る。暗い水面に、背の高い穂がなびいていた。雨上がりの風は涼やかで、土臭さをはらんでいた。
日が長いとはいえ、あまり帰るのが遅くなると、あたりは真っ暗だ。山稜と空が明るくとも、地上に光は届かない。
前に一度、自転車ごと突っ込んだ霧也はこりていた。
静かな町の中、ときおり過ぎる家からは、テレビの音が聞こえてきた。今ごろ、夕食の支度がおわり、働きに出ている父と姉も帰っているだろう。
帰り着いた霧也は、玄関の前に自転車をとめる。駐車場には二台、車がとまっている。
「ただいま」
「おかえり」
居間にいる父が、手酌で日本酒を飲みながら、霧也を振り返る。
「お前も飲むか?」
眼鏡の奥で、いたずらっぽく笑った。
「いいよ。不味いもん」
卓袱台を挟んで、霧也も座る。
「姉さんは?」
「さっき帰ってきて、今着替えてる」
「そう」
八歳上の姉。それだけ歳が離れているのにはわけがあった。霧也と姉はそれぞれ連れ子で、今の父は、母の再婚相手だった。霧也が五歳の頃で、前の父親の記憶はほとんどない。実の父親のようにかわいがってくれて、感謝というよりも、馴染んだ感じだった。義父であることなど、めったに思い出さなかった。
「霧也、おかえり~」
スウェットに着替えた姉が、ほがらかにいう。
「ただいま」
「ちゃんと手、洗った? 霧也も着替えてきたら」
「いいよ。どうせもう飯だろう?」
「でも汗臭いよ?」
霧也は赤面する。
「分かった……」
「あと手も洗いなさいよ。絵の具ついてる」
姉の晶子は、笑いながらいう。姉というよりも、口うるさい母親が、もう一人いるようなものだった。八歳も離れていることから、姉という感じもしない。じゃあ何かと考えれば、それも何か分からない。
晶子は隣町の役場で働いている。車で一時間以上かかる距離だった。
ジャージに着替えた霧也が戻ると、ちょうど配膳がすみ、父方の祖父がきたところだった。
「おう、霧也」
ひょうひょうとしたふうで、実の孫のようにかわいがると同時に、たまにぞんざいな扱いを受ける。「クソガキ」「クソジジイ」と呼び合える仲だった。
もう十年になるのか。そんなことを思っても、感慨はわかない。当然のように過ごしてきたのだから。
夕食のあと、父はテレビを見出す。色の褪せた画面に、ノイズ混じりの映像が流れた。そろそろ買いかえるとかいっていたが、もう半年以上経つ。
あまりテレビを見ない霧也は、団欒の中の、笑う姉の横顔を一瞥して、居間を出る。二階にある、自室に入り、鞄から筆箱を取り出す。勉強机にはスケッチブックが山積みになっており、本棚も似たようなもの。すべてにびっしり描き込まれているわけじゃない。なんとなく描いてたものが、十年かけて堆積したのだ。
新しいページを開き、線画を書く。それは大まかな輪郭に始まって、あまり便利さを感じない十字線を気持ちだけ入れて、徐々に書き入れていく。それは横顔で、髪と鼻と口元を入れると、女性だと分かる。目が難しい。忠実に書き込むと、妙にきつくなる。かといって簡略に書けば、リアリティを損ねる。
苦心しつつ、何度か書き直していると、扉が開く。霧也は驚き、スケッチブックを閉じ、鉛筆を取りこぼす。心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「ノックぐらいしろよ」
「なによ、絵描いてただけでしょ?」
姉は悪びれもせず言った。
「なに描いてたの?」
霧也はどきりとし、
「なんでもないよ」
と意味の分からないことをいってしまう。
「見せてくれてもいいじゃん」
「やだよ」
「なによ。昔はよく見せてくれたのに」
「昔は昔だろ。つーか人に見せるの恥ずかしい」
それに姉は、近くにあったスケッチブックを手にとって、
「確かに、昔の自分の絵見ると、恥ずかしくて死にたくなるよね」
「だろ」
その手からスケッチブックを引ったくる。
姉は肩をすくめて、霧也は構わない。
姉は適当に座り、
「昔はよくお姉ちゃんを描いてくれたのにな。あの絵、まだ飾ってあるよ。友達にもよく自慢したし」
「やめてくれよ、恥ずかしい」
「いいじゃん。たくさんお花描いてくれて、お姉ちゃん可愛いからって。可愛いっていわれたことなかったから、嬉しかったんだから」
霧也は耳まで赤くなる。
「いちいち昔の話すんなよ」
「今じゃどうせ、おばさんですよ。女の子は二十歳までが花なんだから」
むすっとし、体を揺する。
「じっとしててよ」
「えっ?」
「今書いてるから」
座った姉を、クロッキーの要領で、ものの五分で輪郭を取る。ここまでは楽だ。
姉は嬉しそうに笑った。
「可愛く描いてね」
「難しい」
「どういう意味?」
姉はむっとした顔をする。霧也は揺れる心を抑えつつ、より神経を注ぐ。細かく書き入れたあたりで、
「あー、駄目だ。失敗した」
「見せて」
「やだ」
まだ本当に描きたいものは描けない。いつかは花を添えて、そのころころ変わる、彼女の表情を描きたい。