第94話 狂乱
その日の朝、地球という星の社会構造は、音を立てて崩壊し始めた。
地球側の権力者たちは、決して諦めてなどいなかった。
一年前、アルカディアとの接続が突如断絶し、ダイバーたちの肉体が消滅したあの日から、彼らは執念深く悪足掻きを続けていたのだ。
世界の主要国は「安全保障上の極秘協定」を締結し、かつて『神域 -Arcadia-』をプレイしていた元ダイバーたちのうち、やむを得ぬ事情で地球に留まった者たちのリストを徹底的に作成した。彼らの自宅には隠しカメラや盗聴器が仕掛けられ、外出時には常に私服治安警察の追跡が張り付いていた。国によっては「国家機密保持」の名目のもと、地下の極秘施設へと密かに収容・拘束されたダイバーすら存在していた。
すべては、異世界への足がかりを、超常の資源と技術の鍵を、再びその手に掴み取るためだけに。
だが、彼らが築き上げた監視と拘束の檻は、ある「一筋の奇跡」によってあまりにも呆気なく打ち砕かれることとなった。
ある大国の治安局が所有する、地下百メートルの極秘隔離施設。
特殊合金と電磁シールドで固められた密室の監視カメラが捉えていたのは、連日の不当な尋問に耐えながらも、静かに目を閉じる一人の青年――かつてアルカディアの大地を愛し、地球へ送還されてなおその誓いを破らなかった元ダイバーの姿だった。
青年の両手が、不意に淡く清らかな白銀の光を帯びる。
異変を察知した警報装置がけたたましく鳴り響き、武装した警備兵が殺到して重厚な扉を打ち破った瞬間――青年の身体は大気の揺らぎと共に輪郭を溶かし、影すら残さず空間から消滅した。
だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
わずか一時間後。青年は、新鮮な山ハーブと濡れた黒土の香りを全身に纏い、その手には地球の現代科学では絶対に再現不可能な、高密度なマナを帯びた未知の薬草を携えて、再び同じ密室へと「出現」したのだ。
青年には、そのままアルカディアの深緑の中に姿を消し、二度と戻らないという選択肢もあった。
だが、あえて一度この場に戻ってきたのは、身を守るための脱亡などではない。地球に残された他の仲間たちやその家族を護るため、そして権力者たちの強欲な悪足掻きに完全な引導を渡すためだった。
もし無言で消え去れば、権力者たちは「どこかに潜伏している」と錯覚し、地球に残る者たちへの脅迫や監視をさらに強めるだろう。
だからこそ青年は、地球の物理法則や国家の暴力装置すらも完全に超越した「結果」を、カメラと国家機構の目の前で証明してみせたのだ。
『我々を繋ぎとめる鎖など、この星のどこにも存在しない。そして、力づくで奪えるものなど何ひとつない』
言葉を交わすまでもない。呆然と銃を構える警備兵たちの前で、青年が手にした異世界の薬草を台座へと静かに置き、再び空間の縫い目へと溶けて消え去った時、国家が築いた拘束の檻は完全にその意味を失っていた。
監視カメラが捉えたその不可逆な物理現象の映像とデータは、国家情報統制の検閲を突き破り、裏ルートを通じて世界中の情報機関や主要メディアへと一気に漏洩した。
『次元転移――生身の肉体を持ったままの、二つの現実の完全な往還』
それが単なるホログラムでも都市伝説でもない「厳然たる現実」として証明された瞬間、地球上のすべての国家、巨大資本、そして社会秩序は、未曾有の狂乱と動揺の渦へと叩き落とされた。
「嘘だ……! こんなの、何かの間違いだろ……っ!?」
雑居ビルの狭い一室で、男がディスプレイに向かって狂ったように怒号を上げていた。
酒と煙草の爛れた匂いが充満する部屋の中で、男は震える拳でキーボードを激しく叩きつける。ネットのニュースサイトのコメント欄やSNSは、文字通り激震に見舞われていた。
『【速報】国際機関、転移能力者「先達」の存在を公式確認』
『各国の極秘収容施設から拘束中の元ダイバーが相次いで消失』
『巨大国家の治安局、転移者への全ての拘束命令を破棄。「対等な対話チャネル」の設立を発表』
『能力の鍵は「真摯な善性」と「世界への愛」――国家権力による獲得は不可能と判明』
流れてくる報道のすべてが、男の理解を遥かに超えていた。
かつて、あの世界が「次世代フルダイブVRゲーム」としてリリースされた当初、男もまた調子よくその世界へと足を踏み入れた一人だった。だが、地道な採掘や手仕事の厳しさに嫌気が差し、「こんなクソゲー、時間の無駄だ」と吐き捨てて早々に投げ出した。それどころか、ネット上で「あの地味な作業ゲーに執着してる奴らは現実逃避の敗北者だ」と散々あざ笑い、叩き続けていたのだ。
「なんで……! なんであんな地味で泥臭い作業ばかりやってた奴らが『渡り鳥』になれて、俺が選ばれないんだよ!!」
男の目には、血走った激しい嫉妬と狂おしい羨望が宿っていた。
男が抱いていたのは、ネット上の軽薄な面白がりや浅薄な強欲さに過ぎなかった。そんな人間に神の恩寵が下るはずなど万に一つもなかったのだ。
地球の経済は、先の接続断絶騒動と世界的な金融不全によって極度に冷え込み、若者の多くは閉塞感に喘いでいた。
そんな中で開かれたのは、無尽蔵の資源、病を癒やす神秘の草木、そして汚染されていない雄大な大地が存在する「本物の異世界」への扉だった。
その価値は、国家予算すら遥かに凌駕する。
たった一人で石油数億バレル分の資源や、不老長寿の秘薬に匹敵する価値を背負って帰ってくることができる存在。地球のどの物理障壁も、どの防犯システムも通用しない、次元の隙間を自由に歩む存在。
彼らが持ち帰る薬草一つ、鉱石一つで、地球の大企業や製薬会社がひれ伏し、膨大な資金が動くのだ。
「ふざけるな……! 追い出されたのはシステムの不具合だろ!? 俺だってあの世界にいたんだ! 俺にもその能力を寄越しやがれ……!」
ネットの暗がりでは、かつて現地で強奪や暴力を働き、システムの絶対防衛機能によって永久追放(BAN)された元プレイヤーたちの悲鳴と怒号が渦巻いていた。
彼らは自らの強欲と残虐さゆえに追い出された事実を棚に上げ、「不公平だ」「特定の人間だけに利権を与える神は邪悪だ」と醜い暴論をぶちまけ合い、自らの手から永久に零れ落ちた「全能の鍵」に血の涙を流して狂悶していた。
だが、神の裁定は絶対だった。
二つの世界を繋ぐ鍵は、どれほど科学技術を注ぎ込もうと、どれほど遺伝子を調べようと、人間の権力や科学では絶対に再現不可能な「魂の善性」と「世界への愛」という絶対の不可視コードによって、固く施錠されていたのだから。
一方、地球の権力構造の頂点においても、凄惨なまでの「価値の逆転」が進行していた。
国際連盟の会議場。
かつて世界の金融や軍事を裏で牛耳り、アルカディアの技術と資源を独占しようと画策し、ダイバーたちの拘束を指示していた巨頭たちが、円卓を囲んで青ざめた顔を揃えていた。
「……監禁している転移者のリストはどうなった」
重々しい声で尋ねたのは、ある大国の元高官だった。かつては一言で法をねじ曲げ、数万の人間を意のままに動かしてきた男だ。だが、その声は微かに震えていた。
「無駄です。強制収容所に隔離し、足枷をはめていた元プレイヤーたち……全員が、今朝までに消滅しました」
秘書官が、絶望的な報告を口にする。
「彼らは……特殊合金の拘束具も、電磁シールドも、地下の特殊装甲すら嘲笑うかのように、ただ『そこからいなくなった』のです。そして、何人かはすでにアルカディアから戻り、以前から権力者の監視に苦しんでいた知人や家族を連れて、向こう側の世界へ『引っ越し』を始めています」
「な……ッ!?」
「監視カメラの解析では、彼らが空間の縫い目を撫でるだけで、物理法則を無視して次元が歪むのが確認されました。こちらから彼らを止める手段は、物理的にゼロです。銃弾も、毒ガスも、爆撃すら……彼らが転移の意思を持った瞬間、すべて空を切ります」
会議室に、死のような沈黙が落ちた。
これまで彼ら権力者が誇ってきた「力」とは何だったのか。
国家の暴力装置、警察機構、防諜網、法的強制力。そのすべてが、二つの次元を自由に跳躍する『渡り鳥』たちの前では、あまりにも無力で、児戯に等しい紙くずへと成り下がっていた。
彼らがどれほど喉から手が出るほど欲しいと願った「異世界の資源」も、「不老長寿の薬草」も、いまや彼らが「監視し、踏みにじろうとしていた元ダイバーたち」の手の中にしかなかった。
「……探せ」
元高官の口から、掠れた声が漏れ出た。
「地球に残っている『先達』たちを探し出せ。警察も、軍も二度と介入させるな。……頭を下げろ。彼らが望むだけの財でも、地位でも、安全の保障でも与えろ。頼むから……我々を置いて異世界へ逃げ切らないでくれと、彼らのご機嫌を伺うんだ……!」
かつて彼らが「監視対象」「利用すべき手駒」と切り捨て、踏みにじろうとした人々。
その足元に、いまや地球上の最高権力者たちが擦り寄り、媚びを売り、哀願しなければならないという、凄絶なまでの価値観の逆転。
神が下した公平で温かな裁定は、地球という歪んだ社会の仮面を剥ぎ取り、その醜い悪足掻きと狂乱を容赦なく暴き立てていた。
そして、その狂乱の旋風は、東方の過疎化が進む地方都市の路地裏にも届いていた。
古びたアパートの一室。
地球側での徹底した監視の目を掻い潜り、陰で生き抜いていた一人の元ダイバーの青年は、静かに自分の両手を見つめていた。
その両手には、穏やかな白銀の光が宿っていた。
部屋の外では、彼を「危険人物」としてマークし、監視・拘束しようとしていた治安警察の車両が、所在を突き止めて騒々しくサイレンを鳴らし、アパートの階段を駆け上がってくる足音が聞こえていた。
「そこにいるのは分かっている! 扉を開けろ! 拘束命令は撤回された! 交渉だ! 国家との最高レベルの協定を結びたい……!」
ドア越しに響くのは、これまで彼らを追い詰めていた威圧的な命令ではなく、必死に情けを乞うような、悲壮な捜査官の叫びだった。
青年は、小さく苦笑した。
「……遅いんだよ、あんたらは」
青年の胸を占めていたのは、地球の権力闘争や醜い悪足掻きへの怒りではなく、この一年のあいだ片刻も忘れたことのなかった、あの遥かなるアルカディアの空と土の記憶だった。
「僕たちは、もう奪い合うためにその力をつかうつもりはない」
青年がそっと目を閉じ、意識を空間のシームへと向けると、部屋の空気が優しく揺らぎ始めた。
治安警察がドアを破って雪崩れ込んできた瞬間、青年の姿は部屋から影も形もなく消え去っていた。
後に残されたのは、開け放たれた窓から吹き込む爽やかな初夏の風と、かつて地球という籠の中で喘いでいた「心ある者たち」が、ついに大空へと羽ばたいていったという、揺るぎない痕跡だけだった。




