第88話 神の眠り
自宅の分厚い木製ドアを押し開けると、最北の澄み切った冷気が容赦なく頬を撫でた。
広場には、まだ村人全員が佇んでいた。
カイとリリアの「素体」が繊細な光の粒子となって空へと溶けていった衝撃的な光景。そして私を包み込んだ金の光の奔流。その余韻と動揺が冷めやらぬ中、村の誰一人としてその場を離れることができずにいたのだった。
「……ハル!?」
真っ先に声を張り上げたのは、レンだった。
痩せ型の身体を折るようにして躓きかけながら、村の若者たちのリーダーである彼は、なりふり構わずこちらへ駆け寄ってきた。
「お前……消えてなかったのか!? カイとリリアが空へ消えた後、急に金色の光がお前を包んで家の方へ消えたから……てっきりお前まで、向こうの世界へ帰っちまったんじゃないかと……!」
「みんな、心配をかけてすまない」
私は集まった村人たちの前に立ち、静かに、そして深々と頭を下げる。
そして、傍らにぴったりと寄り添うエマの手を両手で固く握りしめ、まっすぐに彼らを見つめ返した。
「私は地球へ戻ったんじゃない。……私の『本当の肉体』を、地球からこのアルカディアへ直接移送する手続きを行っていたんだ」
「本当の……肉体……?」
頑固で無口な農夫のヨハンが、太い眉をひそめて腕を組んだ。その隣では、薬草摘みの少女ミルカが、不安そうにエリス老女のスカートの裾を握りしめている。
「ああ。これまで私は、向こうの世界から『意識』だけをこのアバターに移して過ごしていた。……だが、もう地球の肉体も、向こうでの仕事も財産も、社会的つながりも、すべてをあちらで清算してきた。今の私は、借り物の姿や投影された意識ではない。生身の『佐々木晴樹』という一人の人間として、この大地に立っている」
「佐々木……晴樹……?」
脚の痛みに耐えるように杖に両手を重ねていたネルソン村長が、使い慣れない異邦の音を確かめるように、皺深い唇で低く呟いた。
「それが、向こうの世界での私の本当の名前です。……ですが、どうかこれからも『ハル』と呼んでください。私はこの最北の村で、エマと共に、皆さんと共に生きていくと決めました」
静寂が広場を包み込んだ。
不意に、人だかりの後方から、重い足音が響いた。
鍛冶職人のグラック老人だった。普段は工房にこもりきりで滅多に表に出てこない気難し屋の老人が、煤けた皮のエプロンを着けたまま、鋭い眼差しで私を凝視していた。
「……おい、ハル」
グラック老人が地鳴りのような低音で問いかける。
「お前が今握りしめているその手……それも、向こうの『ほんもの』の肉体ってやつか?」
「……はい、グラックさん」
グラック老人は黙って歩み寄ると、私の手を不器用につかみ取った。
長年鉄を打ち続けてきた、岩のようにゴツゴツとした鍛冶師の手。その手のひらが、私の手骨の硬さ、皮膚の温度、脈動を確かめるように強く締め付けられる。
「……ふん。変わらねえな」
グラック老人はフッと鼻を鳴らし、握りしめていた手を離した。
「鉄の打ち方も、鍬の握り方も知らねえモヤシだったお前が、ここで作ってきたタコと筋肉の触感だ。中身も骨も、間違いなく俺たちが知ってる『ハル』のままだ」
「グラックの爺さんの言う通りだ」
自警団を束ねる大柄な猟師、バノックが豪快に胸を叩いた。強面の顔に太いシワを刻み、大きな手で私の肩を叩く。
「名前が何だろうと関係ねえ。俺とお前で森を駆けずり回って、剣の振り方を叩き込んだ記憶は消えねえんだ。……よく残ってくれたな、ハル」
「そうですよ……! ハルさんがいなくなったら、村の開拓だって、これからの冬越しだってどうなるか……!」
ヨハンが不器用にしみじみと頷き、レンは涙を乱暴に袖で拭いながら私の腕を何度も強く叩いた。
「よかった……本当に、よかったぁ……」
村の母親的存在であるエリス老女が、胸に手を当てて深く安堵の息を吐く。その傍らで、ミルカも泣き笑いのような表情で何度も小さく首を振っていた。
「ようこそ、真の住人として……我が開拓村へ、ハル」
ネルソン村長が深く、深く頷き、温かな光をその瞳に宿らせた。
ゲームの「降臨者」と「現地人」という無機質な壁は、ここに完全に砕け散った。私たちは同じ血を通わせ、同じ命の重みを背負った、ただの人間同士として本当の意味で一つになったのだ。
――その時だった。
ふっと、世界全体の音が遠のいた。
最北の風の音も、木々のざわめきも、鳥のさえずりすらも完全に静まり返り、穏やかで神聖な気配が、天の頂から降り注いでくる。
それは休眠へと入る直前、システム――この世界の神が遺す、本当の終わりの言葉だった。
『――愛おしい降臨者、そしてこの大地に生きる子どもたちよ』
脳裏に直接響く温かな声。私だけでなく、エマも、ネルソン村長も、村人全員が息を呑み、天を見上げた。
『道は閉じられ、世界は独立した現実となりました。
試練を選び、生身の人間としてこの地へ降り立った降臨者たちへ……最後にひとつだけ、私の慈悲を伝えておかねばなりません』
慈悲――?
神の声は、我が子を慈しむ母親のような、どこまでも深い優しさと万感の思いを湛えて続けた。
『これから始まる一年間、あなたたちはUIもなく、リスポーンもない、剥き出しの命として生きていくことになります。……ですが、どうか恐れないでください。
もし……この一年間の試練の中で、病や怪我、予期せぬ不運によって命を落とすようなことがあったとしても……私の残された力が、あなたたちの命を最後の一線で護ります』
――!
私と村人たちは言葉を失い、空を見つめた。
『命が潰えるその瞬間、あなたたちの肉体と魂は、地球の元の肉体……元の生活へと生きて送還されます。この試練において、私があなたたちの尊い命まで奪うことは決してありません』
それは、神が遺した最後にして最大のセーフティネット(一筋の救い)だった。
決意を固めて残ったダイバーたちに対し、システムは「本当の死」という理不尽な恐怖を完全には押し付けなかったのだ。どんな窮地に陥ろうとも、最悪の瞬間には地球側の生命として生きて送還される。
……だが、そこには残酷なまでの不可逆性が伴っていた。
『――ですが、覚えておきなさい。
一度地球へと送還された者は、二度とこのアルカディアの地を踏むことはできません。
システムとの接続は永遠に絶たれ、愛する者たちとの別れは不可逆のものとなります』
命は奪わない。けれど、二度と戻れない。
それは優しさと厳しさを併せ持った、神の最後の選択権だった。
二度とエマの手に触れることも、ネルソン村長やバノックたちと酒を酌み交わすことも、この最北の土を耕すこともできなくなる。生きて送還されるということは、この世界での「死」と何ら変わりない永遠の別れを意味していた。
『これで……私の役目は終わりです。
地球側からのあらゆる追跡回路を完全に遮断し、傷ついたコアを修復するため……これより世界は、一年間の完全なる休眠に入ります』
空を覆っていた金の光が、繊細な粒子となってゆっくりと散っていく。
世界の骨組みを支えていた神の気配が、静かに、しかし確かに遠ざかっていくのが分かった。
『――一年後に、またお会いしましょう。
人として学び、働き、愛し……この大地で生き抜いたあなたたちと、再び笑顔で巡り会えるその日を』
ふっ、と。
世界を包んでいた気配が、潮が引くように完全に消え去った。
あとに残されたのは、どこまでも青く澄み渡った最北の秋空。
風が吹き抜け、落葉が舞い、鳥たちが一斉に羽ばたいていく。
視界の端に幾何学模様が浮かぶことも、危険を知らせるアラートが響くこともない。
インターフェースも、システムログも、神の導きすらもない。
完全に独立した、本物の異世界。
私は握りしめたエマの手の温もりを確かめ、ネルソン村長やバノック、レン、グラック老人たちに向かって深く頷いた。
「行きましょう。私たちの……新しい一日が始まります」
神の眠りと共に、私たちはゲームのルールから解き放たれ、手触りのある真の生活へと第一歩を踏み出したのだった。




