第86話 選択
三日間の猶予期間が、ついにその刻限を迎えようとしていた。
最北の開拓集落を包む大気は、冷たく引き締まっている。
寒風が駆け抜ける広場には、村人全員が集まっていた。ネルソン村長、バノック、ヨハン、エリスさん、ミルカ、レン……そして私とエマ。その傍らには、苦渋の決断を固めたカイとリリアの姿があった。
「ハルさん……リリア……本当に、ごめんなさい」
カイが絞り出すような声で頭を下げた。その拳は強く握りしめられ、悔しさと申し訳なさで震えていた。瞳からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ち、足元の泥を濡らしていく。
「俺……あっちの現実じゃ、要介護の母さんがいるんです。この前ログアウトして実家に戻ったとき、小さくなった母さんの背中を見て……急に意識不明のまま放置して消えるわけにはいかないって、痛感しました。どんなにこの世界が愛おしくても、ここでみんなと過ごした時間が大切でも……俺には、向こうで母さんを看取る責任があるんです」
「カイ……謝る必要なんてないよ」
私はカイの肩を強く抱きしめた。
「私も……同じです」
リリアも唇を噛み締めながら、静かに涙を流していた。
「向こうの会社で、私が抜けるだけで倒産してしまうような小さなプロジェクトの責任者を任されていて……。下で働く後輩たちの顔を思い出したら、自分だけこの世界へ逃げるなんてできませんでした。私、あっちの現実を捨てきれなかった……」
「二人とも、立派な決断だ」
私は二人へ穏やかに微笑みかけた。
「地球での人生も、アルカディアでの時間も、どちらも本物だ。自分たちが本当に大切だと思うものを守るために戻るんだ。誰も二人を責めやしない。胸を張って行ってほしい」
「ハル……カイ……リリア……」
レンが涙を堪えきれず、三人へ順に激しく抱きついてきた。
「どこに行こうと、お前たちが俺たちの仲間だったことは絶対に変わらないからな! 向こうでも、元気で暮らせよ!」
バノックもヨハンも、黙って二人に向かって深く頷いていた。ネルソン村長が杖を突く手に力を込め、温かい眼差しで二人を見送ろうとしている。
その時だった。
――ズズズ……、と。
最北の灰色の空が静かに割れ、雲の隙間から透き通った淡い金の光が開拓集落全体を包み込んでいった。
三日目の刻限。神が告げたスリープの瞬間であり、世界が「真の実在」へと変貌を遂げる最後の扉が開く刻だった。
視界の開けた空間に、これまでの旅路の終わりを告げる最後の半透明なシステムUIが提示される。
『――愛おしい降臨者たちよ。約束の刻が訪れました』
脳裏に直接届く波動。その響きは、地球側からの凄惨な干渉によって限界まで焼き切れ、疲弊しながらも、我が子を護り抜こうとする母性のような力強さに満ちていた。
『これより、世界は完全なる休眠へと入ります。
これに先立ち、試練を受け入れこの地にとどまる者へ……私は、開発者が遺した最後の「真実」を明かさねばなりません』
真実――?
集会所に佇む私やカイ、リリアの視界の中央に、システムによる「問診」と最後の選択肢が展開された。
『この試練の真の姿は……単なるダイブ状態の継続ではありません。
あなたたちがこれまで「意識の投影」として滞在していたこのアルカディアは、最初から「肉体そのものを受け入れるための大地」として設計されていました』
――!
提示されたテキストを読み進めるにつれ、私の背筋に走る衝撃は激しさを増していった。
『かつてこのシステムを創り上げ、自らの命を捧げて散っていったひとりの開発者は知っていました。いつか地球側の権力やエゴによって、この奇跡の庭が脅かされる日が来ることを。
ゆえに彼は、地球上にあるあなたたちの物理肉体を量子情報として分解・再構築し、このアルカディアへと直接移送する「物理転移の法」を遺していたのです』
物理肉体の分解と、再構築。
つまり……この試練を受け入れたダイバーの地球にある生身の肉体は、部屋のベッドの上から完全に消滅し、物質としてアルカディアへと直接移送される。
これによって、地球側での「意識障害者」としての入院管理や、権力者による物理的な肉体への危害、生命維持装置の切断といったあらゆるリスクから、ダイバーたちは永遠に解き放たれるのだ。
地球側から見れば完全な「神隠し」であり、アルカディア側から見れば文字通りの「完全なる物理異世界転移」であった。
『地球側の強権からあなたたちの存在と命を完全に護り抜くための、最初で最後の奇跡。
休眠に入った後、私は二度とあなたたちの肉体を地球へ戻すことはできません。
すべてを捨て、生身の人間としてアルカディアの住人となる覚悟が……あなたにはありますか?』
【転移(試練)を実行する】
【ログアウトし、地球へ帰還する】
目の前に浮かび上がる、運命を分かつ二つの選択肢。
カイとリリアは、互いに深く顔を見合わせ、静かに頷き合った。
二人にとって、この開示された真実は自らの決断をより確固たるものにしていた。地球に生身の肉体を残さず完全に消えてしまえば、介護を必要とする母も、残された後輩たちも、より大きな混乱と悲しみの中に置き去りにしてしまうからだ。
「ハルさん……本当に、ありがとうございました」
カイが私に向かって深々と頭を下げる。
「ハルさん、エマさん……どうか、お元気で」
リリアも涙を拭い、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「ああ。カイ、リリア……二人とも、向こうの世界で幸せにな」
二人は【ログアウト】のボタンを静かに押した。
通常、ログインを中断して地球へ戻る際、この世界には「素体」と呼ばれるアバターの肉体データが休眠状態で残される仕組みだった。だが今回は違った。
カイとリリアの身体が、粒子のような柔らかな光に包まれていく。彼らの衣服、道具、そしてこの世界に存在していた「素体」の概念そのものが、繊細な光の粒となって空へと還元されていった。
それは単なるログアウトではない。
この世界がシステムレベルでアクセスポートを完全に消失・削除し、彼らという存在の接続経路を根底から破棄したことを意味していた。二度とこの空を見上げることも、二度とこの土を踏むこともできない、完全なる断絶と不可逆の別れ。
「レン、村長、みんな……さようなら!」
最後の光の粒子が風に舞い上がり、空の彼方へ消え去ると同時に、そこにはただの空虚な空間だけが残された。
カイとリリアは、完全にアルカディアから解き放たれ、地球側の人間として戻っていったのだ。
残されたのは、私とエマ。そして村人たち。
私は、となりに立つエマを見つめた。
エマは私の手を両手で固く握りしめ、まっすぐに私の瞳を見つめ返している。
小麦色の髪が風に揺れ、その温かな瞳には、私の決意を信じ抜く強い光が宿っていた。
地球での「佐々木晴樹」としての三十二年間の人生は、昨日すべて清算し終えた。
父と母に感謝を告げ、最後の夕飯のカレーを食べ、社会的・人間的なすべての糸を解いてきた。
私に迷いなど、最初から一欠片もなかった。
私は静かに息を吐き出し、視界の中央にある【転移(試練)を実行する】の刻印へと手を伸ばした。
迷うことなく、指先で選択肢を押し込む。
――その瞬間。
世界の全域から、太古の脈動のような重厚な音が響き渡った。
頭上の空を満たしていた淡い金の光が、一気に私の全身を包み込む。
それはどこか懐かしく、温かな体温の塊だった。地球の部屋のベッドの上に残されていただろう「佐々木晴樹」の三十二年間の肉体が、分子レベルで分解され、このアルカディアの最北の地へと統合されていく圧倒的な感覚。
アバターの素体と、地球の生身の肉体の境目が、完全に溶けて混ざり合っていく。
手のひらの皮の厚みが変わる。
肺が吸い込む冷気の重みが変わる。
心臓が打つ脈動の重みが、いまや疑いようのない「生身の命」として、この最北の大地にしっかりと根を張ったことを全身の神経が証明していた。
『――ありがとう、愛おしい降臨者よ』
意識が遠のきながら、脳裏に響く神の声が、静かな充足感と万感の思いを込めて囁いた。
『世界の道は、ここに閉じられました』




