第11話 静かな一歩
畑の掘り起こし作業から数日が経過していた。
手作業で土をほぐし、雑草の根を一本ずつ取り除く地道な工程は続いていたが、ただ土と向き合うだけの毎日にひとつの大きな課題が浮上していた。
肉体的な疲労と、決定的なタンパク質不足だ。
この世界での食事は、空腹感を紛らわすためのデータ入力ではない。
十分に肉や栄養を摂らなければ、腕に力が入らなくなり、疲労が関節や筋肉にそのまま鈍い痛痛として蓄積していく。
過疎村で提供される食事は、塩気の薄い干し肉の小片と、硬く焼いた雑穀のパン、それに萎びた根菜の汁物が中心だった。
村人たち自身がカツカツの自給自足で生きている以上、よそ者である私に余分な食料を分け与える余裕がないのは当然のことだった。
「自前で補給源を確保しないと、作業の継続自体が厳しくなるな」
朝靄の晴れきらない早朝、私はぼろ屋の壁に背を預け、手元の小ナイフの刃先を見つめた。
現実世界で嗜んでいたサバイバルの知恵や、野営での簡単な罠猟の知識が脳裏を巡る。
大型の野生動物を狩るような大層な武器も、それに対抗できる身体能力も今の私にはない。
だが、村の裏手に広がる浅い森に生息する小動物や鳥類であれば、手作業で仕掛けられる簡単な罠で捕獲できる可能性があった。
私は腰に小ナイフを差し、麻布の袋を抱えて村の北側の森へと向かった。
村の境界を越えると、空気の密度が一変する。
針葉樹と広葉樹が不揃いに生い茂る森の内部は、朝露を含んだ湿った土と葉の匂いに満ちていた。
静寂が森を支配している。
だが、その静けさの奥底には、風で擦れ合う枝葉の音や、落ち葉の下で虫が動く微かな気配など、無数の「生」の息遣いが潜んでいた。
(足跡と、獣道……)
視線を低く保ちながら、湿った泥の上を注意深く観察する。
しばらく歩くと、倒木の脇をすり抜けるように伸びる、草の踏み荒らされた小さな小径を見つけた。
泥の上に残されていたのは、小さな二つ割れの蹄の痕——野ウサギか、あるいはそれに似た小動物の足跡だ。
私は周囲の樹木から、弾力のあるしなやかな枝を選び、小ナイフで丁寧に葉を削ぎ落とした。
さらに、麻布の端から解いた丈夫な糸を取り出し、仕掛けの結び目を作っていく。
大掛かりな仕掛けではない。
獲物が通りかかった際に足や首をひっかけ、しなった枝の復元力で吊り上げる、ごく基本的な動線罠だ。
罠を二箇所設置し、さらにその周辺の倒木から、湿り気を多く含んだ黒々とした腐葉土を掬い上げて麻袋に詰めていく。
この腐葉土こそが、数日来耕し続けている畑の土に生命力を吹き込むための、貴重な改良材となる。
両手の爪の中に黒い土が詰まり、冷たさが指の感覚を奪っていく。
作業を終え、袋いっぱいに腐葉土を担ぎ上げると、ずっしりとした重みが背骨に響いた。
それから、半日ほど時間を置いて再び罠の仕掛け場所へと戻った。
遠目から確認すると、倒木の手前に仕掛けておいた枝が、大きく跳ね上がった状態で固定されていた。
私の胸が、ドクンと大きく跳ねた。
足早に駆け寄ると、そこには茶色い毛並みの小動物が、麻糸に足を取られて倒れていた。
体長三十センチほど。ウサギに似た姿をしているが、耳が短く、後脚が発達した森の小動物だ。
まだ息があった。
罠にかかった恐怖からか、小さな体を激しく震わせ、黒い瞳で私をじっと見つめている。
浅い呼吸に合わせて、小さな胸元が細かく上下していた。
ゲームであれば、討伐した瞬間に光の粒子となって消え去り、インベントリに「肉×1」とテキスト表示されるだけの存在。
だが、今私の目の前で泥に塗れて横たわっているのは、生み出されたばかりの温かい体温を持った、確かな「ひとつの命」だった。
私の手が、小さく震えた。
現実世界で、生きている動物の命を自分の手で絶ったことなど一度もない。
パックに詰められた肉をスーパーで購入し、調理された食事をただ口に運ぶだけの生活を三十年以上続けてきた。
だが、この世界で生きるということは、そうした「生」の裏側にある責任を、自分の手で直接引き受けることを意味していた。
「……すまない」
私は短く呟くと、膝をつき、小動物の首元を静かに、しかし確実に押さえつけた。
掌を通じて伝わってくる、激しい鼓動と体温。
暴れる小さな脚の力強さと、やがてそれがゆっくりと弱まり、完全に途絶えていく感覚。
最後の一瞬、指先に残った「命が消える感触」は、生々しいまでの重みとなって私の記憶に深く刻み込まれた。
息を引き取った小動物を静かに持ち上げる。
さっきまで暖かかった体が、秋の冷気に曝されて、少しずつ体温を失っていく。
私は小ナイフを取り出し、川辺の岩場へと移動した。
水場で毛皮を剥ぎ、内臓を処理していく。
手動での作業は決して容易ではなかった。
ナイフの刃を入れる角度や力加減を誤れば、肉を傷つけたり皮が破れてしまう。
血の匂いが鼻腔を突き、冷たい川水で洗う両手が脂で滑る。
だが、集中して刃を動かしていくうちに、無駄な迷いは消え去っていた。
命を奪ったからには、その恵みを無駄にせず、己の肉体と生活の糧として血肉に変える。
それが、この厳しくも誠実な世界に対して自分が払うべき、最小限の礼儀であるように思えたからだ。
処理を終え、綺麗に洗った肉と毛皮を布に包む。
腐葉土の詰まった麻袋とともにそれらを背負い、私は歩みを進めた。
村の広場へ戻ると、鍛冶場の前でグラック老人が金床に向かって佇んでいた。
彼はこちらの足音に気づくと、チラリと私の手元に視線の落とした。
布から覗く鮮やかな肉の塊と、泥と血で汚れた私の両手。
グラック老人の深い眼光に、微かな驚きの色が走った。
「……森に入っていたのか」
「はい。畑に入れる腐葉土の採取と、簡単な罠で小動物を一つ捕まえました」
私が静かに答えると、グラック老人は手にしたハンマーを金床に置かないまま、じっと私の顔を見つめた。
「素人が、道具もなしに森で獲物を獲ってきたというのか」
「運が良かっただけです。……ですが、この肉の一部と皮を、道具のお礼として受け取っていただけないでしょうか。クワを貸していただいたおかげで、作業が進んでいます」
私が包みを差し出すと、グラック老人はしばらく無言で私の手を見つめていた。
その手には、泥と血の汚れだけでなく、慣れない解体作業によってできた新しい傷と、使い慣れない道具で擦り切れた赤く腫れたマメが残っていた。
「……好きにしろ。あっちの棚に置いておけ」
グラック老人は短く吐き捨てるように言うと、背を向けて再びコン、コンと鉄を打ち始めた。
だが、その鉄を叩く音には、どこか先ほどまでの荒々しさが消え、一定の穏やかなリズムが戻っていた。
私は肉の半分と皮を棚に置き、残りを自分のぼろ屋へ持ち帰った。
朝食の残りの硬いパンと、昨日村から配給されたわずかな干し根菜を引っ張り出す。
小さく起こした火の上の鍋で、さばいたばかりの肉と根菜を煮込む。
室内を満たしていく、芳醇な肉の匂いと湯気。
完成したスープを匙ですくい、口に運ぶ。
滋味深い肉の旨味が口いっぱいに広がり、冷え切っていた胃の腑へと温かさがじわじわと染み渡っていった。
自分の足で歩き、自分の手で命を奪い、自分の血肉に変える。
言葉にすれば極めて単純な生命の営み。
しかし、その地道な一歩を重ねるごとに、私はこの「神域」という名の世界の土の上に、確かに自分の足で立っているのだという実感を深めていた。




