第0話 境界の前にて
よろしくお願いします。
ネットの片隅に静かに現れたそのWebサイトは、驚くほど殺風景だった。
装飾は削ぎ落とされ、機能的な白黒のフォントだけが冷ややかに並ぶ。運営元として記載されていたのは、聞いたこともない新興のペーパーカンパニーだった。所在地は海外の租税回避地にある曖昧なビルの一室とされ、資本金の規模も、近年の巨大資本が投入されるVRMMO業界の基準からすれば異常なほど小さかった。
しかし、その実態のなさを補って余りある奇妙な点が、そのサイトには存在した。技術協力や協賛の欄に並ぶ名だたる企業、そして世界各国の政府機関や大学研究室の連名である。誰もが知る最高峰の科学アカデミーや、国際的な安全保障に関わる公的機関が、何故かその無名の零細企業に名を連ねていたのだ。
疑念が渦巻くネットの海で、しかし、公開された一本のデモムービーがすべての常識をひっくり返した。
それはプロモーション映像の域を完全に逸脱していた。作り物のCGではないかと誰もが疑ったが、画面に映し出された森林の描写は、あまりにも生々しかった。葉脈の細やかなうねり、朝露を弾くクモの巣の微小な張力、足元の土が孕む湿り気と腐葉土の匂いすら画面越しに伝わってくるような圧倒的な質感。風に揺れる草木の挙動や、陽光が木々の間を抜けて描く光の粒子に至るまで、既存のどのグラフィックエンジンをも置き去りにするほどの精緻さを誇っていた。
「こんな映像、今のスーパーコンピュータでもリアルタイムレンダリングなど不可能だ」
「どこかの実写映像を加工しただけの詐欺だ」
「誇大広告の極みだ」
掲示板やSNSは瞬く間に大炎上した。あまりの完成度の高さに、技術者たちは「詐欺の疑い濃厚」と断じ、野次馬たちは面白半分でその胡散臭さを囃し立てた。
だが、世間の狂躁をさらに加速させたのは、そのシステムが掲げた「基本無料」という謳い文句と、それに完全に矛盾する異様なまでの「個人情報要求の厳格さ」だった。
ゲームをプレイするためには、通常のメールアドレスやパスワード認証だけでは足りなかった。公的機関が発行する身分証明書のデータ送信、高精度な顔認証、さらには各国の国家番号に紐づいた固有の個人識別番号——その極めて機密性の高い情報の登録が、参加の絶対条件として課されていたのだ。
「ゲームの事前登録に、なぜ国の身分証や生体情報が必要なんだ」
「個人情報を抜いて海外に売り飛ばす悪質なフィッシング詐欺サイトに違いない」
怒りと疑念に満ちた抗議の声は世界中から噴き出し、各国政府の消費者窓口やサイバー犯罪対策室には、数え切れないほどの問い合わせや告発が殺到した。個人情報の流出を恐れた識者たちはこぞって警鐘を鳴らし、メディアはこの怪しげなプロジェクトを連日のように叩き立てた。
しかし、その異様な狂騒と抗議の波に対し、各国政府の対応は奇妙なほどに一致していた。
問い合わせを受けた各国の担当官庁は、どこも一様に紋切型の、しかし確信に満ちた返答を繰り返したのだ。
——「当該プロジェクトにおける技術協力および安全確認は事実であり、当国政府としてもその正当性を保証する。利用者の権利や安全に法的不備はない」
国家が保証する。その一言が持つ重みは、ネットの不信感を冷やすには十分すぎた。詐欺だと決めつけられていた代物が、突如として「国家が正規に安全を裏付けた謎の巨大プロジェクト」へと変貌を遂げた瞬間だった。
怪しさに対する底深い不信感と、未知の技術に対する好奇心。そして、国家がお墨付きを与えているという不可解な安心感。その歪な感情の交錯が、世界中の人々の関心を強烈に惹きつけた。危ういからこそ確かめてみたいという野次馬根性と熱狂が、瞬く間に世界を覆い尽くした。
結果として、事前登録の抽選が締め切られるまでのわずか数日間に、世界中から集まった志願者の数は爆発的に跳ね上がった。
世界同時に行われたその第一期テスター募集において、当選枠として用意された100万という座席は、膨れ上がった応募者たちの熱狂によって瞬く間に埋め尽くされた。落選した無数の人々が溜息をつく陰で、運良く参加権を手にした100万人のプレイヤーたちは、期待とわずかな不安を抱えながらゲームの開始を待つこととなった。
深夜の静寂に包まれた自室で、あるいは冷え切ったオフィスの机の上で、100万人のダイバーたちはそれぞれのVR機器を装着した。
彼らはまだ知らなかった。
先進的なフルダイブ技術が生み出すその圧倒的な没入感の先で、自分たちがどのような体験と規約の現実に直面することになるのかを。新時代のゲーム体験という甘美な謳い文句の裏側に、どれほど奇妙で徹底されたルールが潜んでいるのかを。
熱狂と沈黙が同居する暗闇の中、ついに最初の接続を示す光が点灯し、境界の扉が静かに開かれようとしていた。




