第十三話 声
こつり。
ヴァンが、ゴーレム兵を置いた。
盤の上では、こちらの弓兵が睨みを利かせている。
ハリスの手駒には、グリフォン騎兵があった。
本来なら、城攻めに使いたい駒だ。
だが、弓兵が押さえている場所には置けない。
置けば、次の手で落ちる。
なら、ハリスは先に弓兵をどかしに来る。
重装歩兵。
あれを寄せてくるはずだった。
ヴァンは盤面を見たまま、指を離す。
こちらが魔法使いで迎え撃つところまでは、ハリスも読む。
そこまでなら、ただの読み合いだ。
だが、手駒にはもうひとつある。
ゴーレム兵。
重装歩兵の進路へ先に置いておけば、ハリスの計画は少し狂う。
少しだけでいい。
その少しで、盤面は変わる。
「そこか」
ハリスが言った。
声は淡々としている。
けれど、目は盤面から離れていない。
ヴァンは指を引いた。
「悪いかよ」
「いや、悪くない手だ」
悪くない。
ハリスがそう言う時は、大抵、その手を見ている。
そして、見ている手には触れてくる。
次の手で、ハリスはグリフォン騎兵を取った。
城攻めには向かわない。
盤の端を滑るように、グリフォン騎兵が動く。
狙いは、置いたばかりのゴーレム兵だった。
ヴァンは眉を動かさなかった。
そこに来るか。
ゴーレム兵は重い。
置き場を間違えれば、ただの的になる。
弓兵を進ませて援護させるか。
ゴーレム兵は見捨てて、別の進路から攻めるか。
ハリスは、黙って待っている。
盤面だけ見れば、こちらが少し困った形だった。
だが、困った形に見える盤面ほど、置ける手が残っていることもある。
ヴァンは、次の駒へ指を伸ばしかけた。
その時だった。
ペン先の音が、止まった。
オーレリアの手紙ではない。
ハリエットの便箋でもない。
ミコトの手帳だった。
ヴァンは、盤から目を上げる。
ミコトは、手帳を見ていなかった。
誰もいない場所を見るように、少しだけ目を開いている。
瞬きが遅い。
呼吸も、さっきより浅い。
「ミコトさん?」
最初に気付いたのは、オーレリアだった。
ミコトはすぐには答えない。
唇だけが、わずかに動いた。
「……はい」
小さすぎて、ほとんど息に近い声だった。
ハリスの指が、駒の上で止まる。
ハリエットも顔を上げた。
「ミコトさん、どうしたの?」
ミコトは、そこでようやく周囲を見た。
ハリエット。
オーレリア。
ハリス。
それから、ヴァン。
自分だけが別の音を聞いているのだと、確かめるような目だった。
ヴァンには、何も聞こえない。
窓の外で風が鳴る。
廊下を誰かが歩いていく。
遠くの教室で、椅子を引く音がした。
それだけだ。
なのにミコトは、確かに何かへ耳を傾けている。
「声が」
ミコトは言った。
「声が、聞こえました」
オーレリアの目が丸くなる。
「誰の声なのよぅ?」
ミコトは少し迷った。
言ってよいものか、分からない顔だった。
だが、隠し通せる顔でもなかった。
「アーノウズ様、です」
その名に、ハリエットが反応した。
「アーノウズ様……恋愛の女神様?」
「知ってるんですか?」
「うん。恋や縁を見守る女神様だって」
ハリエットはそう言ってから、少しだけ頬を赤くした。
さっきまで、自分も許嫁への手紙を書いていたことを思い出したのかもしれない。
オーレリアは、もう手紙用の便箋ではない紙を探しかけていた。
「恋愛の女神様から、今、声が聞こえたのぅ?」
「たぶん」
「たぶん?」
「その、私にも、まだ……」
ミコトの言葉がそこで切れる。
また、聞いている顔になった。
ヴァンには何も聞こえない。
それでも、ミコトの指先が、手帳の端を押さえた。
呼吸が少し浅くなる。
何かを受け取っている。
そう見えた。
「……恋の話、ではないみたいです」
ミコトが呟いた。
オーレリアの手が止まる。
「違うのぅ?」
「はい」
ミコトは、手帳の端を押さえたまま言った。
「良くないことが、起きるかもしれないって」
教室の空気が、少しだけ変わった。
ハリエットが便箋を置く。
オーレリアも、今度は手紙ではなく手帳を開いた。
ハリスは盤面から目を離さないまま、声だけを出した。
「いつ」
ミコトは首を振る。
「分かりません」
「どこで」
「それも、まだ」
「誰に関わる」
「分からない、です」
ハリスは黙った。
ヴァンは盤を見下ろした。
さっきまで考えていた手順が、少し遠くなる。
「じゃあ、何が分かるんだ」
自分でも、少し冷たく聞こえた。
ミコトは責められたとは取らなかった。
「証拠を、探す必要があるそうです」
「証拠?」
ハリエットが小さく聞き返す。
「何かが起きる前に。凶事の証拠を見つけて、先生に報告するようにって」
「先生には、言わないんですか?」
ふとハリエットが尋ねた。
ミコトはすぐには答えられなかった。
「言うにしても、今じゃない」
ハリスが言った。
「どうしてなのよぅ?」
「先生は信用できない」
そこで一度、ハリスはミコトを見た。
「それに、大人が全部正直に話すとは限らない」
ミコトが少しうつむいた。
「先に証拠だ」
ヴァンが言った。
オーレリアは手帳を開きかけて、途中で止まった。
「これ、書いていい話なのよぅ?」
「広める話じゃない」
ハリスが短く言う。
オーレリアは頷き、手帳を少しだけ自分の方へ寄せた。
「じゃあ、こっそり書くのよぅ」
ミコトは少しだけ息を吐いた。
「でも、大勢で動くのは駄目みたいです。目立つと、隠れてしまうかもしれないって」
「何が」
ハリスが聞く。
ミコトは答えられなかった。
また、少しだけ困った顔をする。
「……そこまでは」
ハリエットは、ミコトの顔をじっと見ていた。
からかう気配はない。
怖がらせないようにしているが、軽く受け取ってもいない。
「ミコトさんは、それを信じてる?」
ミコトはすぐには答えなかった。
窓際の盤。
手紙。
手帳。
自分の指先。
それらを順番に見てから、頷いた。
「はい」
声は小さかった。
「信じます」
オーレリアが、小さく息を呑んだ。
「試練なのねぇ」
「試練、なんでしょうか」
「女神様から言われたなら、そうなのよぅ」
ハリエットが少しだけ眉を寄せる。
「でも、危ないことなら、無理はしちゃ駄目だよ」
「はい」
ミコトは素直に頷いた。
「だから、誰かに助けてもらうようにって」
その言葉で、教室の全員が少しだけ黙った。
ヴァンはハリスを見た。
ハリスは、盤面の上に置いたままの駒を見ている。
「そういうことなら」
ヴァンは言った。
「ハリスは役に立つ」
ハリスが目だけを向ける。
「俺を勝手に売るな」
「売ってない。事実だ」
「まだ受けるとは言ってない」
「受けないのか」
ハリスは、少しだけ黙った。
それから、ミコトを見る。
「詳しい話を聞いてからだ」
ミコトの表情が、少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます」
「受けるとは言ってない」
「はい。でも、聞いてくださるので」
ハリスは返事をしなかった。
オーレリアが身を乗り出す。
「私は聞くのよぅ。というか、もう聞いてしまったのよぅ」
「オーレリア」
ハリエットが名前を呼ぶ。
「危ないかもしれないんだよ」
「だから記録するのよぅ」
オーレリアは真面目だった。
「何が起きるか分からないなら、見落とさないようにするのよぅ」
ハリエットは少し困った顔をした。
けれど、反対はしなかった。
「私も行く」
「ハリエットさん」
「ミコトさん一人にはしないよ」
ミコトは言葉に詰まった。
すぐに礼を言おうとして、少しだけ遅れた。
「……ありがとうございます」
ヴァンは、盤の上の駒を見る。
まだ、手は終わっていない。
けれどもう、将棋だけを続ける空気ではなかった。
「ここで話すのはやめた方がいい」
ハリスが言った。
「まだ人が残っている」
教室の奥に、数人の生徒がいる。
会話までは聞こえていないかもしれない。
だが、耳を澄ませば届く距離だった。
オーレリアが手帳を閉じる。
「こっそりお話できる場所がいるのよぅ」
「誰かの部屋は?」
ミコトが言った。
オーレリアが即座に首を振る。
「男の子のお部屋に、簡単に入っちゃ駄目なのよぅ」
「そうなんですか」
「そうなのよぅ」
ハリエットも頷いた。
「そうだね」
ヴァンは何も言わなかった。
言えば余計なことになりそうだった。
空き教室も、中庭も、図書室の奥も、すぐには決まらなかった。
「探偵団の、ひみつのアジトみたいな場所があればいいんですが」
オーレリアの目が光った。
「ひみつのアジト」
ハリエットが小さく笑う。
「遊びじゃないんだよ」
「分かってます」
ミコトは頷いた。
「でも、そういう場所があった方が、きっと」
言い切る前に、ミコトはまた黙った。
聞いている。
ただ、ミコトの顔色が少し変わった。
先ほどよりも、真剣だった。
「……急いだ方がいいみたいです」
オーレリアの手帳が、もう一度開きかける。
ハリスが止めた。
「移動してからだ」
ヴァンは、手元の駒をようやく盤に置いた。
こつり。
その音だけが、やけに大きく聞こえた。
ハリスは盤面を一瞥して、立ち上がった。
「続きは後だ」
オーレリアは手紙と手帳をまとめた。
ハリエットは封をしていない便箋を、そっと鞄の中へしまう。
ミコトは、自分の手帳を閉じた。
ヴァンは最後に盤を見た。
駒は、まだ途中の形で止まっている。
それから、ミコトを見る。
彼女は誰もいない方へ、ほんの少しだけ頷いた。
やはり、何かを聞いているようだった。
ヴァンには聞こえない。
だが、きっと何かあると思った。




