第十話 頼り
礼拝堂は、校舎の北東、廊下の突き当りにあった。
廊下の声が少し遠のき、高い窓から落ちた光が床に細く伸びている。
ミコトは扉の前で足を止めた。
ルナのことを、つばめに相談したかった。
扉を叩くと、中から明るい声が返る。
「はいはーい。開いてるよ」
中では、つばめが小さな瓶を布で包んでいた。
包んだ瓶を木箱へ収め、隙間に乾いた草を詰めていく。
「ミコトちゃんじゃん。どうしたの? 具合悪い?」
「いえ、相談があって」
「そっか。座りな」
ミコトは、つばめの手元を見た。
「それは、何ですか?」
「これ? 聖水」
つばめは、包みかけの瓶を軽く持ち上げた。
「礼拝堂とか医務室とか、あちこちで使うからね。小分けにしてるとこ」
その時、礼拝堂の奥から声がした。
「つばめさん、その箱は右の棚へ」
ミコトはそちらを見る。
神父がいた。
濃い緑色の髪を後ろで整えた、背の高い男だった。
目は糸のように細く、笑っているのか、こちらを見ているのか、分かりづらい。
ミコトは、少しだけ身を固くした。
つばめがそれを見て、からっと笑う。
「ああ、大丈夫。糸目で何考えてるか分かりにくいけど、悪い人じゃないから」
「つばめさん」
神父が困ったように眉を下げる。
「もう少し穏当な紹介はありませんか」
「じゃあ、エイデン神父。私の同窓生。信用できる人」
つばめは、聖水の箱を持ち上げた。
「あと、ミコトちゃんの書類のことも知ってる」
ミコトの肩が跳ねる。
つばめは、声を少しだけ落とした。
「大丈夫。知ってるからって、追い出す人じゃないよ」
エイデン神父は、ミコトへ向き直った。
「事情は少し聞いています。むやみに傷付けるつもりはありません」
細い目のまま、声は穏やかだった。
ミコトは迷ってから、長椅子に腰を下ろした。
「ルナのことで、相談したくて」
「ルナちゃん?」
つばめが首を傾げる。
「猫です。黒い子猫で……ヴァンさんが世話をしていて」
「ああ、ヴァン君がこそこそしてたやつ」
「知ってるんですか」
「隠すの、あんまり上手くないからね、あの子」
ミコトは、ルナのことを話した。
中庭の隅にいたこと。
ヴァンが食べ物を持ってきていたこと。
でも、飼っているわけではないと言ったこと。
ルナは自由で、弱いから手助けしているだけだと言ったこと。
それから、ハリエットがルナの言葉を聞いてくれたこと。
エイデン神父は少し考えた。
「ヴァン君がそう言ったのなら、その通りに扱ってよいでしょう」
「いいんですか?」
「学院が禁じているのは、許可なく動物を飼うことです。弱った命へ水と食べ物を与え、回復まで見守ることとは違います」
つばめが頷く。
「閉じ込めてない。飼ってない。自由に行ける。なら、ペット禁止とは別だね」
ミコトは息を吐いた。
「よかった」
「ただし、隠れて何でもしていいって話じゃないよ」
「はい」
「そこはヴァン君も分かってると思うけど」
つばめはそう言って、木箱を棚へ入れた。
エイデン神父が静かに言う。
「大切なのは、その猫の意思を踏みにじらないことです」
「それは、ハリエットさんが聞いてくれました」
「動物と声を通わせたのですね」
「はい。あれも魔法なんですか?」
「神聖魔法の一つです。自然や生命に近い神々の恵みを借り、言葉の届きにくい相手へ耳を澄ませる術ですね」
つばめが、棚の前で手を払う。
「癒やすだけが神様の贈り物じゃないってこと。声を聞けるのも、ちゃんと贈り物だよ」
「神様の、贈り物」
ミコトは小さく繰り返した。
エイデン神父が頷く。
「我々が使う神聖魔法は、すべて神々からの贈り物です」
「じゃあ、神様の声が聞こえることも、あるんですか?」
つばめの手が止まった。
エイデン神父は、すぐには答えなかった。
「あります」
やがて、そう言った。
「聖騎士と呼ばれる者達は、多くの場合、その神より天啓を授かります。剣を取れ。誰かを護れ。旅立て。ある地へ向かえ。形は様々ですが、神の御声を受けて道を定める」
ミコトは膝の上で手を重ねた。
「敬虔な神官が、特別な恩寵を賜ることもあります。癒やしの奇跡、悪しきものを退ける力、迷える者を導く言葉。本人だけの力ではありません」
「本当に、あるんですね」
「あります。ですが、神の名は重い」
エイデン神父の声が、少し低くなった。
「聞こえたものを、すべて神の声と決めつけてよいわけではありません。人の願いが、そう聞こえさせることもある。神ならぬものが、神の名を借りることもある」
「怖いですね」
「怖いよ」
つばめが先に答えた。
エイデン神父が少しだけつばめを見る。
つばめは気にしなかった。
「でも、怖いからって全部閉じたら、本当に聞くべき声も聞こえなくなる。だから見るんだよ」
「何を、ですか?」
「その声が、何を大事にしてるか」
つばめは言った。
「誰かを踏みつけろって声なのか。誰かを助けたいって声なのか。そこ、けっこう違うでしょ」
エイデン神父が困ったように笑う。
「つばめさんは、私より短く言いますね」
「神父様が長いんです」
「否定しづらいですね」
「腐れ縁だからね」
ミコトは二人を見ていた。
つばめは遠慮なく言う。
エイデン神父は、困った顔をしながらも止めない。
似ていないのに、並んでいるのが自然だった。
「神様の声を聞いた人も、迷うんですか?」
ミコトが尋ねる。
エイデン神父は頷いた。
「迷います」
「聖騎士でも?」
「もちろん」
つばめが言った。
「神様に呼ばれたからって、みんな最初から立派な顔してるわけじゃないよ。震えながら剣を取る人もいるし、泣きながら旅立つ人もいる」
「つばめさん」
「神父様が前に言ってたことです」
「……言いましたね」
ミコトは、少しだけ息を吐いた。
天啓。
恩寵。
神様の声。
もっと眩しくて、迷いのないものだと思っていた。
でも、そうではないらしい。
「ルナちゃん」
つばめが、ふいに言った。
「いい名前だね」
「はい」
「誰が付けたの?」
「私が考えて、ヴァンさんが決めました」
「そっか」
つばめは少し笑った。
「じゃあ、会わせてくれる?」
「え」
「心配なんでしょ。だったら見に行こ」
ミコトはエイデン神父を見る。
神父は小さく頷いた。
「まずは、つばめさんに見てもらうとよいでしょう」
「怒られませんか」
「怒る話じゃないと思うよ」
つばめは手を差し出した。
「じゃ、行こっか?」
ミコトは少しだけ迷って、それから頷いた。
「うん」
手をつないだ。




